「教える」のではなく「教えてもらう」
塾を主宰していた10年間、私は「教え魔」だった。私は非常に物分りが悪く、中学までは成績も悪かったので、勉強のできない子でも理解できるよう分かりやすく教える自信があった。実際、私が説明すると「よく分かった!何で今まで、こういう教え方してもらえなかったんだろう」と、生徒は感動した。
で、その場ではできるんだけど。翌日になるときれいサッパリ忘れてる。「昨日教えたろ?分かったって感動してたろ?」と聞くと、「分かったと思って感動したのは覚えてる」というが、肝腎の学習内容がものの見事に残っていない。仕方なく、もう一度教えると「あ、これね!分かった分かった」
ところがさらにその翌日になると忘れてる。これでは次に進めない。学習が積み上げられないので頭を抱えていた。
そんなとき、母校へ教育実習に。授業で熱化学方程式を教えることに。しかし私は指導案も作らず(ひどい)、ぶっつけ本番で臨んだ。すると、答えが合わない。生徒たちの見てる前で。
このときとっさに、塾で教えてるうちに湧いてきていたある「仮説」を試してみる気になった。
教室は「え?先生できないの?」とざわめいていた。私は「どこが間違ってるのかな?わかんない。ねえ、そこの君、そこだけで話さないで教えてよ」と声をかけた。
「そこが間違ってるんじゃ・・・」「え?ここ?」「いやそこじゃなくて」「先生、また間違ってる」「え?どこどこ?」
生徒に教えてもらいながら格闘すること十数分だったろうか。ようやく参考資料と同じ数字が!
「やった!できた!」と言うと、教室で万雷の拍手。隣の先生がびっくりして見に来た。
後日、私の指導をしてくださった先生によると「定期テスト、あのクラスの生徒はみんな熱化学方程式だけは正解してたよ」。
そうか、教えなくていいんだ。むしろ教えてもらうくらいの方が生徒は自ら考え、理解してしまうんだ、ということが感得できた出来事だった。
私達は、機械の取り扱いが分からなくて困ってる人を見ると「そこはこうした方がいいんじゃない?」「ちょっと貸してみ」と言いたくなる。分からなくて困ってる人を見ると自分がやってみたくなる本能があるらしい。この本能が動く時は観察力が増し、理解力も飛躍的に上がる。
ならば指導者はうまくやる必要はなく、うまくできなくてモタモタしてる様子を見せた方が子どもの観察力が増し、仮説力も動き出し、事態の理解が進むのでは?と考えている。それ以来、うまくやってみせる気負いがなくなり、「あれ?どうするんだっけ?君、見当つく?」とか言って任せるように。
肝腎なことは、指導者が難問を見事に解いて見せて「先生すごい」と言ってもらうことではない。肝腎なのは、生徒の中に観察力が生まれ、理解力が増進し、解決しようという意欲を生み出すこと。そのためなら、こちらがみっともない姿を見せても構わない。
それ以来、自分が見事に教えるという呪い、スタイルからいかに離れ、目の前の子どもや学生の中に何が生まれるように持っていくか、を心がけるように。すると、自然に教えなくなった。教えないかわりに子どもの能動性に驚くようになった。能動性が動けば全てが動き出す。
「教えねばならない」という呪縛からいかに離れ、子どもたちが自ら動き出す能動性が生まれるようにするか。そこに意識をシフトすると、子どもの心が動き出す。指導者が能動的になっても仕方ない。子どもが能動的になることこそ、指導者の目的のはずだから。