嘲笑・嘲弄は怒りの触媒

正義を盾にとって怒りを乗せるのはよくない、と先日書いた。他方、怒っている人を「○○脳」とか、「○○ガー」とか、嘲笑めいて表現するのも、私は好ましくないと考えている。一応は極端な人だけを指す言葉だとされているようだが、それでも私はこうした表現に抵抗がある。嘲り要素があるからだ。

人間はバカにされたと感じると怒る。嘲笑や嘲弄は、人に怒りを呼び覚ます。刺激する。だから、冷静に議論すべき時に、こうした嘲笑や嘲弄めいたニックネームは避けるべきだと私は考えている。もしこうした侮蔑語が出た途端、誰かの感情を刺激することになる。嘲笑、嘲弄は怒りを増幅する触媒。

三国志なんかを読んでいると、敵将を嘲笑、嘲弄し、怒らせて出撃させ、まんまと罠にはめるという事例が数多く紹介されている。「挑発」というやつだ。嘲笑、嘲弄は人の怒りを増幅するテクニックとして知られている。ならば、そんなテクを使うこと自体、ケンカの原因と言える。

シカトなどの陰湿ないじめでは、こうした手法がよく行われる。対象となった子どもをクスクスと笑う声。嘲笑、嘲弄する言葉。それに我慢ならなくなり、切れたとしたら、いじめのリーダーは「私たちは何もしていないのにあの子が切れて暴力をふるった」。悪いのはいじめられっ子、という構図にされる。

マンガ「3月のライオン」にも、こうした描写がある。とある女の子が嘲笑、嘲弄を受け、クラスで孤立しているのを、ヒロインの女の子がかばう。すると、その女の子が今度はターゲットになった。嘲笑、嘲弄の嵐。いつか怒り、暴発することを狙って、嘲笑を続ける。

しかし幸いにもこの漫画では、教師が原因を正確に把握し、嘲笑・嘲弄を続けたリーダー格の女の子の隔離こそが解決のカギだととらえ、適切に対応したことでいじめを終息させることができた。マンガとはいえ、読者としては胸をなでおろす結末。

嘲笑・嘲弄は、怒りという人間の負の感情を増幅させる、非常にまずい手法。これを採用することは、私は好ましくないと考えている。「○○脳」とか「○○ガー」といった表現は、怒りをいつまでも増幅させる触媒として働くので、そろそろやめていただきたいと私は思っている。

嘲笑や嘲弄は、手を焼かされた人間にちょっとでも報復したいという感情が湧いているときに出てくるものなのだろう。報復感情は本能的なものだから、なかなか抑えがたい。しかし大人になったら、報復は報復を生むという経験値を把握したうえで、別の方法を模索してみたい。

非常に怒りっぽく、食事をさせよう、お風呂に入れよう、治療しようとすると暴れまわり、抵抗し、手を焼く老人がいた。その老人に、ユマニチュードの伝道師が近づいた。まず最初にしたことは、笑顔で、老人の目をじっとみつめたこと。次に、いいですか?と尋ねるように、老人の手を自分の手の上に。

指がピクリと動くと、伝道師は「お?」と言った形で目を見開き、嬉しそうに。すると老人の表情がどんどん和らぎ、やがて会話を始め、伝道師が立ち去ろうとするときには、さよならを言うために立ち上がり、ピースサイン。普段を知る介護士たちは、その様子にビックリ。

老人の怒りはどうやら、「モノ扱いしないでくれ!」ということだったらしい。眠いのに食事と言ったら口に突っ込まれ、服を脱がされ、風呂で洗われ、自分の意思確認を一つもしてもらえないことに腹を立てていたらしい。伝道師は常に老人の反応をうかがい、能動的な動きがあったら喜んだ。

老人の能動性を尊重する伝道師の登場がうれしくて、老人はその好意に応えたいとなったらしい。怒りではなく、喜びを引き出したのだといえる。

正義を振りかざし、怒りをぶちまける人は、実は普段の生活に不満を抱えている場合がある。第三者に過ぎない私たちは、それを解決するすべがない。本人自身に解決してもらわなければならないので、いちいちその怒りに付き合っていられない、というのも正直なところではある。ただ。

それをわざわざ嘲笑や嘲弄で火に油を注ぐようなことをする必要はない。それよりは、もしこちらにゆとりがあるなら、ユマニチュードのように、相手の能動性を引き出し、怒りではなく喜び、楽しみを引き出すように努力したい。ユマニチュードという介護技術は、弁論の技術としても興味深い。

怒っている人がいるなら、それにはやはり原因があるにはある。解決こそはできないが、軽減に向けて努力することは可能。嘲笑や嘲弄をして心理的に切り捨てるのは容易だが、地道に軽減するための努力を続けるのは辛抱が必要。こうした辛抱強さを、私たちは取り戻したい。

嘲笑や嘲弄は事態をそのまま放置するばかりか、悪化させる方向に働く。私は望ましくない行為としてとらえている。それよりはユマニチュード的に、怒りを鎮め、喜びを引き出す工夫を考えたい。嘲笑や嘲弄は、そうした努力を放棄する姿勢なので、どうも好ましいと思えない。

日本人は本来、こうした嘲笑や嘲弄を厳しく戒めてきた人たちだったはずだ。私の祖母は、「人を指さすな」と戒めた。それほどお前は立派な人間なのか、と、まずは己を振り返りなさい、と。なるほど、そうだよな、と子供心に思ったのを覚えている。

嘲笑・嘲弄は、あまり人目につかない場所でしかできない秘め事だったはずが、ツイッターなどのSNSでは、万人に見える形で行われるようになった。私は、これを残念に思っている。そろそろ、こうしたことは改めていけたらな、と思う。ごまめの歯ぎしりかもしれないが、訴え続けたいと考えている。

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