修士を出ないとマスターできない「科学の作法」は、赤ちゃんが身に着けている
学部生の方から、食品メーカーの研究員になるには修士を出ておいた方が良いのか、という質問が来た。実際、修士を出ておかないと食品メーカーの研究員になることは難しい。科学の作法が、学部生ではまだ身についていないのが実情だからだ。しかし、そういいつつ、矛盾も。
未知の問題に対処することが可能になる、科学の作法は、「現代の日本では」、修士くらい出ておかないと身に着かない。これは実態。けど、修士を出なければ科学の作法は決して身につけられない高度な技能なのか、と問われれば、「いいえ」と答える。だって、赤ちゃんが実践しているものだから。
赤ちゃんには、教えようがない。言葉も通じないし、身振り手振りで教えようにも、大人は巨大すぎるし動きも早すぎて目が追いつかない。赤ちゃんは、自ら試行錯誤を繰り返すことで、未知を既知に変える、「できない」を「できる」に変える必要がある。これがまさに科学の作法。
毎日、身近に起きることを観察する。こんな風に泣いた時、お母さんは迷いなくミルクを持ってきてくれた。だとしたら、こう泣くとミルクだと分かってくれるかな?と仮説を立て、そのように声を出してみる。その通りになったら、今後、そのように声を出せばよい、ということを学ぶ。
観察し、推論し、仮説を立て、実験し、考察する。科学の5段階法を、赤ちゃんは生まれ持って実践し、試行錯誤の中で言葉を覚え、立ったり歩いたりする方法をマスターしていく。未知を既知に変え、「できない」を「できる」に変えていく。赤ちゃんは、生まれもって「研究」している。
未知を研究し、開発するという手法を、赤ちゃんは生まれもって身に着け、試行錯誤することを楽しんでいる。だから、小学校に入学するまでの幼児は、大人が驚くほど成長が早い。毎日成長する。しかしこの成長がストップするときが来る。それが、小学校入学。
小学校に入学して以降は、「できて当たり前」とされることをひたすら暗記し、正解を覚える作業を繰り返す。未知ではなく、既知のことを丸暗記する作業を繰り返す。そうこうするうちに、未知の現象にどう立ち向かえばわからなくなる。忘れてしまう。そんな状態が大学3回生まで続く。
大学4回生になって研究室配属になった時、「久しぶりに」未知のことと向き合うことになる。世界の誰も、まだどうなるかわからない現象に、試行錯誤で立ち向かう、研究の世界。しかし小学校入学から大学3回生まで、15年にわたって正解を暗記するだけの作業をしてきて、すっかり忘れちまっている。
未知の現象と向き合うには、小学校に入学するまでにやっていた、本能的な試行錯誤(科学の作法そのもの)を思い出す必要がある。しかし、学部4回生のたった1年間だけでは、「リハビリ」に不十分。ついつい、先生が正解を知っているだろうから教えてください、というクセが抜けない。
修士2年もプラスで研究し、未知の現象と向き合うことを繰り返し、「リハビリ」を3年終えてようやく、幼児の頃に持っていた試行錯誤の心を取り戻す。現代日本の教育システムでは、試行錯誤という、幼児なら誰でも生まれもってマスターしている科学の作法を回復するリハビリに、3年はかかってしまう。
科学の作法は、ビジネスにも直結する。新しいビジネスは、当然ながら誰もまだ試したことのないことをやることになる。未知の分野。未知のことに対処するには、科学の作法(仮説的思考)がとても適切。赤ちゃんが生まれもって身に着けている科学の作法を取り戻すことは、とても大切。
科学の5段階法(観察、推論、仮説、実験、考察)は、大学院を出なければマスターできない、高度な技能、なのではなく、15年もの月日で忘れてしまったものを3年かけたリハビリで取り戻す必要のあるもの、と考えると、実はマスターにそんなに難しいものではない。
私が二人の子どもに、何も教えようとせず、「なんでだろう?」と一緒に不思議がるようにしているのは、赤ちゃんの頃から備える試行錯誤の心、仮説的思考、科学の5段階法を、失わないようにしてほしいから。一緒に不思議がっていれば、一緒に観察し、一緒に推論し、一緒に仮説を立てる習慣を維持。
息子も娘も、そのせいか、興味関心のある現象はまず観察し、何が起きているのか推論し、こうしたらああなるんじゃないか、という仮説を立て、それを検証できる実験系を考え、実際に実験してみる、ということを繰り返している。日常の遊びの中で。遊びが研究で、研究が遊びになっている。
もし、小学校から出てくる宿題をきちんとこなしなさい、学校で習ったことは覚えなさい、間違ってはいけない、失敗してはいけない、という「呪い」を就学以降、ずっとかけ続けたら、心は委縮し、試行錯誤する挑戦心を失い、ゲームや漫画に逃避せざるを得なくなるように感じる。
私は、間違ったり失敗したら、むしろワクワクする。研究テーマが現れたということだから。「なぜこんなことが起きたんだろう?まずは観察してみよう!」観察の結果、いろんなことが分かってきたら、「どこがどうなったらこういう結果になるんだと推論できる?」
「だとしたら、次にはこうしたらうまくいくんじゃなかろうか?」という仮説を立て、「よし、次、同じことが起きたらそれを試してみよう!」そして、その結果を待つ。思ったとおりの結果にならなかったら、また観察からやり直し。その試行錯誤を子どもと一緒に楽しんでいる。
失敗や間違いを恐れるのは、意味が分からない。失敗や間違いは、むしろ新たな研究テーマが現れたということだから、むしろ楽しみがひとつできたと思えばよいのに。失敗や間違いを、試行錯誤の中で解決方法を探る。誰にも教えられず、試行錯誤の中で。これはゲームと何も違わない。
生きることはゲームそのものだし、研究そのもの。研究はゲームだし、ゲームは生きることそのもの。区別がない。そうした区別を消してくれるのが、科学の作法なのだと思う。そして科学の作法とは、そんなたいそうなものではなく、赤ちゃんが生まれもってマスターしているもの。
みんな赤ちゃんの頃の気持ちに戻って、試行錯誤を楽しめばよい。正解でなければどうしよう、失敗したらどうしよう、間違ったらどうしよう、という「呪い」、忘れちまった方がいい。失敗?間違い?それは新たな挑戦のはじまり。楽しくていいじゃないか。