親の振る舞いより子どもの観察
子どもの頃、大人たちが子育て方針を自慢しあってるのを聞いたことがある。ある人は「厳しく」、別の人は「優しく、愛情を持って」、さらには「放任主義」、「厳しく、時に優しく」などなど。
自分は大人になったらどのタイプになればよいのだろう?などと考えた。
結論を言えば、どれも間違いと思う。
親が自分のスタイル、あり方ばかり気にしているからだ。親が子どもから、あるいは他人からどう見えるかなんて気にするのはナンセンス。大切なことは、子どもが親のいない世界になっても、楽しく能動的に生きていけること。そのための力をどうやって身に着けてもらえばよいかを考えること。
子どもの様子を観察し、今は寄り添った方がよいな、という仮説が浮かんだら寄り添い、今はそっとしておいたほうがいいなと思われたら放置し、ここは厳しくダメと言わないといけないな、と思われたら厳しくし。子どもの状態を見て臨機応変することが大切。
つまり、子どもを観察し、子どもが何を感じ、どんな環境に置かれてるのかを推論し、そこからどうしたらよいかを仮説し、試してみる。その結果を受けてまた考察し、観察に戻る。
観察・推論・仮説・実験・考察の科学の五段階法をクルクル回し、その都度、適切と思われる対応をすることが大切。
けれど、親も「失敗」を恐れて、臨機応変なんかとてもできやしない、と思うかもしれない。それよりは「正解」を求めたくなってしまうかも。
でもあいにく、子育てに正解はない。親が態度や姿勢を固定化したら、それもまた失敗の原因になる。どうせ失敗するなら、開き直った方がよい。
私は、親である自分の失敗を許容した方がよいと思う。その代わり一つ、条件をつける。失敗したら(後悔なんかしてるヒマがあったら)何が起きたのかを観察すること。観察から新たな仮説を紡ぎ、新たな挑戦をすること。つまり、科学の五段階法を迅速に繰り返すこと。
すると、なぜ失敗に終わったのかがわかるようになる。失敗は親の個性、子どもの個性、あるいは状態が浮き彫りになりやすい現象。そこから汲み取れる情報は大変多い。その失敗を観察することで、仮説の精度はグンと上がる。だから、むしろ失敗を許容し、よく観察するほうが、姿勢を硬直化させるより吉。
親の態度、姿勢をあらかじめ決めてかかるのはナンセンス。子どもをよく観察し、その都度、適切と思われる対応をとる。その結果、優しく見えたり厳しく見えたり放置してるように見えるかもしれない。しかしそれらは結果でしかない。結果の形だけマネてもうまくいかない。内部的な精神の動きが大切。
でも、心を柔軟に、臨機応変の対応をとるという、『正解のない世界』に飛び込むことに不安、恐怖を覚える人は多いと思う。だからこそ、失敗を許容する。何なら、失敗を面白がる、楽しむくらいの気持ちで。「こうしてみたら、こうなるのかあ。なるほどなあ」と、観察を楽しむ気持ちで。
人間は、失敗を拒否したり恐怖したりすると、それを見ようとしなくなる。目を背けてしまう。だから失敗しても学べなくなる。大切なのは失敗から学ぶこと。学ぶためには、いっそ「楽しむ」くらいのマインドが大切。
「もうこんな失敗は二度としたくない。ということは、同じ出来事にもう出会えない。ならば、いっそ二度と出会わないであろうこの失敗という現象から、学び取れるものはみんな学び取ってやろう」と、貪欲に観察を楽しむとよいと思う。どうせ失敗したなら、どうせなら観察して学ぶのを楽しむ。
すると、観察の精度が上がる。観察をよくしているから、仮説の精度も上がる。そのおかげで、次に試す挑戦の精度も上がってくる。失敗を楽しみ、失敗を観察するから「こういう場合はこうしたほうがよいようだな」という柔軟な対応策が、どんどんと浮かんでくるようになる。
まずは自分の失敗を許容すること。許容するために、よく観察し、学ぶことを自分に課すること。それを十全なものにするために、失敗の観察を楽しむこと。それができると、次第に臨機応変が可能になってくる。そのつど、何をどうしたらよいかの仮説がすぐに浮かんでくるようになる。
自分の態度や姿勢を固定化しないこと。正解なんかないのだから、正解を求めるというムダな欲求にこだわらないこと。それよりは失敗を許容し、失敗を楽しむことで子どもをよく観察し、臨機応変が可能な自分の状態を維持するよう心掛けること。これが大切なことのように思う。