石油文明とケインズ経済学が農家の跡継ぎを減らした
日本の農家は超高齢化が進んでいて、それでいて後継者がいないのが悩みとなっている。実は先進国はどこも同じような悩みを抱えているらしく、15年前、イギリス王立農業大学に留学していた学生が「イギリスでも高齢化と後継者不足は問題になっていますよ」と。
これは「エネルギー革命」に関係しているように思う。戦前にも石油の利用は始まっていたが、まだ石炭の利用が主だった。自動車はまだそんなに普及が進んでおらず、トラクターなどの農業用機械も普及していなかった。まだ牛や馬を飼って耕していたら大したもの、人力で耕す農家も多かった。
戦後、石油で動く動力が急速に普及した。トラクターは大面積をあっという間に耕すことを可能にした。一人が土日に耕すだけでコメを育てられる時代になった。国民の約半数が農家だったが、労力がいらなくなった分、農家はもっと減ってよい時代になった。そして減った。
もう一つはケインズ経済学。戦前の自由主義経済では、労働者をいかに安く買い叩くかという経済システムだったから、農村から都会に働きに出てきた人でもメリットがそんなになかった。しかし戦後、アメリカや西ヨーロッパ、日本といった西側諸国は、ケインズ経済学を採用した国家運営をした。
ケインズ経済学では、自由主義経済と異なり、労働者に十分な収入を与えることを重視した。収入が増えれば労働者は、そのお金を使う消費者になる。収入が十分であれば消費額も増える。すると社会の景気が良くなり、生産も増え、経済が好循環になる、という発想。戦後、これがうまく機能した。
農家は都会や工事現場に出稼ぎに行くと十分な報酬が得られるようになった。どんどん増える消費が生産を押し上げ、地方に工場を作り、賃金の安い農家の労働力を取り込んでいった。この結果、農業以外の収入が多い兼業農家が増えた。
戦前は、日本だけでなく欧米先進国でも農業は一大産業だった。国の税収のかなりを農業が稼いでいた。しかし石油文明の始まりとケインズ経済学が農業以外の産業を成長させ、また、トラクターなど石油で動く農業機械の普及で、農家の数も不要になった。その分、非農家の人口が増えた。
他方、農家は土地の重要さ、食べ物を作ることの重要性は忘れられず、戦後の先進国はどこも農家の生活レベル向上を目指していたこともあり、戦後も農家の跡継ぎは出た。しかし、80年代に農家の跡継ぎがそこそこ出たのを最後に、農業の経済的な不利が明確になり、後継者不足に悩むようになった。
こうした事情は、欧米先進国でも似たりよったりのようで、非農業の産業で稼げるから農家の跡継ぎになる人が減った。家族農業は今でも主たる農業生産の形なのだけど、後継者がいないから続けられない形態になりつつある。
では農業を企業に任せたら?という発想に、アメリカや日本はなりかけている様子。ヨーロッパはどうか分からない。今後調べる必要がある。
企業が農業をやる場合、家族農業よりも露骨に出やすいのが儲け主義。「経営」を考えるのが企業だから仕方ないけど、儲からないことはやらないのが企業。
アメリカは、農家の数だけなら家族農業が8割くらいあるようたが、耕地面積の50%以上を企業型が保有しているらしい。これは家族農業が(アメリカだから一軒あたりも広大なのだが)比較的小規模なのに対し、企業型生産法人は超大規模で耕しているからだろう。
大規模に展開する企業型生産法人は、家族農業よりもさらに少人数で耕すから人件費がかからず、より効率的に耕すことができる。コストも減らせ、その分安く農産物を作ることができ、コスト競争力がある。
ここまで聞いたらもう企業型でいいんじゃないかという気がしてくる。ただ、ことは単純ではない。
家族農業は食料の8割を生産しているが、企業型は2割。耕してる面積は広大なのに、食料生産に企業型はあまり貢献していない。なぜなのか?これは「儲からないから」。
小麦やトウモロコシ、コメといった穀物は、価格が低い。いくら効率的に生産しても儲けが薄い。だから企業型はあまり手を出さない。
企業型は儲かる作物を育てようとする。野菜や果物。不思議なことに農業では、あまり腹の足しにならない野菜や果物の方が高く売れ、コメや小麦のような腹が膨れて飢餓から救ってくれる穀物は価格が低迷する。このため、企業型は儲からない穀物よりも野菜や果物で手っ取り早く儲けようとする傾向がある。
少し脇にそれるけど、なぜ穀物は安くでしか売れないのか考えてみる。これは経済学の大家、アダム・スミスが「諸国民の富」で語っていることだけど、「命に関わる穀物」は安く買い叩かれる宿命にある。
水の価格を考えるとわかりやすい。水は足りないと命に関わる。だから必ず余分を確保する。しかし余分があるということは、市場経済では「在庫を抱えている」ということ。となると、市場価格はタダみたいに下落する。他方、足りないとなると、コップ一杯の水に金銀財宝を山と積んでも飲みたくなる。
こうして、命に関わる水は、市場経済に乗せるとタダみたいな低価格か、べらぼうに高い価格か、極端な価格形成をする。
これと同様に、穀物のように、足りないとなると飢餓が起きかねない穀物は余分に確保せねばならない。そうすると市場は在庫がダブついてることに気づき、買い叩く。低価格で低迷。
これに対し野菜や果物は、腐りやすいから在庫として抱えるのも難しい。命に関わらない嗜好品だから、ないならないでみんな穀物ほどは騒がれない。市場価格が安いなら農家は出荷を抑え、価格が上がるまで待つということもできる。余分なのはそのうち腐るからなくなる。価格は比較的高く保たれる。
命に関わる穀物は市場経済に乗せると非常に安い価格になり、命に関わらない野菜や果物はそこそこの価格で取引されやすい。このため、企業型は儲けを出しにくい穀物には手を出そうとせず、野菜や果物など、儲けを出しやすい作物を育てようとする。
日米欧の先進国は、農家が高齢化し過ぎて家族農業を続けられなくなっている。しかし企業型は儲かる作物以外はやりたがらず、このために穀物生産がうまくいかなくなる恐れがある。「市場に任せておけば全てうまくいく」という発想を貫けば、穀物生産を担うものがいなくなってしまう恐れがある。
また、企業型はひたすら大型化を目指す傾向がある。アメリカは超巨大なトラクターを導入し、一人で超広大な畑を耕せるようにする傾向が出ているらしい。
しかしトラクターが超巨大化すると、重い。すると、その車輪の下の土はものすごく固く踏みしめられる。もはや植物の根が入り込めないくらいに。
これまでも巨大なトラクターによって土が固く踏みしめられる問題は指摘されていたのだけど、企業型が広がるにつれ、巨大どころか超巨大なトラクターが走るようになり、耕地が耕地でなくなっていく恐れがある。
それに企業の場合、「子孫」のことを考えない。今儲かればそれでよい。株主や出資者の利益になればそれでよいし、投資家も目先の利益を上げて次の企業に乗り換えればいいだけだから、企業型はどうしても短期的な儲けに走りやすい。アメリカには広大で肥沃な土があるが、これが徐々にやせている。
家族農業は子孫のことを考え、土をダメにしないように心がける。だから堆肥を入れるなどの手間暇コストも必要と考えるが、企業型は必ずしもそうはならない。自分の世代で最大の儲けを出し、土がダメになればよその土地を買収すればよい、という「合理的な」行動を取りやすい。資金力があればなおさら。
企業型のもう一つの問題点は、労働者の賃金をいかに抑え、経営者や出資者にいかに多く利益を配分するか、という動機に傾きがちなこと。
古代ローマ帝国では、ラティフンディアという大地主制度が発達した。大地主はローマなど都市部に住み、労働者(農奴)に働かせる形をとるようになった。
こうなると、大地主は自分の農地がどうなっているかなんて関心を失ってしまう。現場の指導者に利益を持って来いと要求するだけになる。こうなると現場の労働者は指示待ち人間になってしまい、土地を肥やす工夫などを考えなくなる。このためにローマが支配する土地は岩の露出したやせた土地になってしまった。
この状態は戦前の日本や、もっと昔のことを言うと戦国時代にも起きた。平安時代から戦国時代まで、荘園という、今で言うなら大規模企業型経営と呼んでもよい形態が続いていたが、労働者の労働意欲は高いとは言えなかったようだ。そこに目をつけたのが織田信長や秀吉、家康といった戦国大名。
当時、沼地で農業などできなかった平野を、広大な農地に変える灌漑技術が生まれていた。信長ら戦国大名は大規模な灌漑事業を行い、広大な田んぼを作り、希望する農家に土地を分け与えた。
その時、大いに効果的だったのが検地。太閤検地は、今で言う土地の登記にあたる。検地で登記すれば。
その農地は自分のものだと領主から認めてもらえる。荘園の労働者でしかなかったのが、独立した農家になれる。しかも楽市・楽座で自分の作ったものを自由に売ることができ、利益を出すことができる。荘園では領主に色んなものを寄進せねばならず、自分の手元に何も残らなかったのとは雲泥の差。
そうして自分の農地を得て独立した農家は、労働者を抱えていると損だと考えるようになった。農業労働者は頑張っても利益にならないから、指示待ちになりがち。利益を増やそうと努力しない。ならばその人たちにも独立の農家になってもらい、自分たちは家族だけで努力した方が利益を最大化しやすい。
こうして、江戸時代初期には、核家族だけの独立農家が主体になっていった(高齢者は短命だったため、親と子どもの核家族の状態になりやすかった)。
歴史を見ると、大規模農業と家族農業がかわりばんこで登場している。戦後日本は家族農業が主体だったが、今は企業型の波が来てる。そのタイミング。
やがて企業型も問題を抱え、家族農業の方が効果的な時代が来るだろう。家族農業と企業型は、打ち寄せる波のように、定期的に変化するものだと捉えた方がよいらしい。
家族農業が継続困難な以上、日米欧の先進国で農業の企業化が進むのはやむを得ないだろう。しかし同時に、企業型の抱える問題がすでに見え始めている。先手を打って、来るべき次の家族農業の波のために、いろんな方策を考えるのも手だろう。