「競争原理」は解像度が悪すぎる・・・「他者と違うことをし、他者とつながる」ことのススメ
「競争すれば成長する」という言葉を、疑いなく使う人は少なくない。しかし私には、ひどく解像度の悪い言葉に思えて、ピンとこない。塾で子どもたちを指導してきて、競争させてうまくいくことはなかった。優等生しかいない塾でのトップ争いなら競争原理は有効に働くかもしれないが。
最初に書いた本で、シンクロナイズドスイミングの監督、井村雅代氏を例に挙げた。井村氏は選手たちを厳しい競争の中に叩き込んでトレーニングさせ、メダルをとれる位置につけ続けた。こうした様子を見たらなるほど、競争原理は有効に見える。けれど。
井村氏のもとには、全国トップクラスの選手が集まった。その中でさらに生き残りをはかる競争。もし脱落者が出ても、オリンピックを夢見る別の選手が入ってくる構造。こうした憧れの場所であるならば競争原理という「選抜」機能も有効に働くかもしれない。しかし。
多くの企業は大企業のような憧れの職場でもない。全国の俊秀が憧れて入社する環境でもない。もしそんな場所で競争原理を働かせたら腹を立てて辞めてしまう人が続出するだろう。もっとマシな職場を求めて去ってしまうだろう。求人という意味では他社との競争に破れてしまう格好。
「競争」というと、同じ評価軸で点数を争う、学校のお勉強をイメージしてしまう。しかし実社会では、全く同じ評価軸で争うことはめったにない。必ず「違うやり方」で勝負する。
最近、ChatGPTというのが、Google検索を脅かす、と話題になっている。前者は後者のような検索システムとは全然違うのに。
今のパワーショベルは油圧式が常識的だけれど、昔はワイヤー式が一般的だったという。ワイヤー式はパワフルで、それに対して油圧式は非力だった。けれど、細かい動作をさせるのに油圧式はとても優れていて、小型機械で導入されるようになって、いつしか業界のかなりを占めるようになった。
「イノベーションのジレンマ」を読んだ人はわかるように、破壊的イノベーションを起こすような技術は、その業界の支配的技術に真っ向から競争するような愚は犯していない。支配的技術が相手にしないような、とても小さなニッチのところを解決する技術として誕生する。
考えてみれば、井村氏もニッチを選択した人物。足が長くスマートな西洋人と、優美さで戦うと勝てない。そこでそれまでになかった「パワフル」という要素で磨きを上げ、徐々に順位を高めていった。ニッチを狙って戦う方法が、いつしか主流の一つになった形。
塾をやっている頃、塾生を大峰山に連れて行くのが習慣だった。初めてだと戸惑うが、ニ年目になる子はテキパキと仕事をした。「ニッチを見つける」のがうまくなるから。水くみに行く者、テントを立てる者、かまどを作る者、薪を集める者、料理の準備をする者へと、勝手に分かれていく。
「あいつが水くみに行くなら、俺はテントを立てよう」「あいつがかまどを作るなら、俺は薪を拾いに行こう」と周囲を見て、まだ誰もやっていない仕事を見つけ、補完する。みなが有機的に動き、スムーズに仕事が進んでいく。
「競争原理」は、いわば、全員に薪拾いをさせるようなもの。あるいは全員水くみに行くようなもの。その仕事は早く片付くかもしれないが、あぶれる人間が出てムダ。それでいてテントは立ってないしかまどもできていない。同じ評価軸で競争するのはひどくムダ。
心臓が「俺ばかり24時間脈打って働かされて、他の臓器は血液をちっとも送ろうとしない。肝臓や腎臓も俺を見習って少しは血でも送ったらどうだ」などと競争をけしかけたとしたら、その個体は死んでしまうだろう。肝臓は肝臓の、腎臓は腎臓の仕事がある。それらが有機的に働いて生命は維持される。
日本を一つの生命体として捉えるなら、日本国内で同じようなことを競わせ、潰し合いをするような愚をおかさず、有機的につながり、それぞれが違う機能を果たすようにしたほうが、日本という生命体が活性化するのではないか。
「競争」という言葉は、同じ土俵で同じことをして戦う、というニュアンスがある。これは誤った行動を促しやすいのではないか。それよりは「他人と違うことをして、有機的につながる」ことを目指した方がよいのではないか。
競争を促すことは、「他人と同じことをして他人を出し抜き、他人を蹴落とす」という意識を持たせやすい。しかしそれでは有機的につながる意識を弱め、他人と同じことをするというダブりの分、ムダを生む。しかも敗者を生んでその人たちが困窮し、国はそれに手当をしなければならなくなる。
競争という言葉はあまりにも解像度が悪く、しかも誤った考え方、行動を導きやすい。それよりは「他人と違うことを探し、そして他者と有機的につながろう」の方が、日本の活力を生むのではないか。
すべての成功事例は、そうした動きをしているように思う。他者と違うことをし、他者と有機的につながる者が生き残っているのでは。「競争」という言葉は、現実に起きていることを映せていないように思う。むしろ大きく歪めた誤解を招いているのではないか。
自然界では、競争になりそうな場合、競争を避けて「棲み分け」を目指すことがほとんど。競争は潰し合いにエネルギーを割かれ、ムダが多すぎる。このため、潰し合いをするくらいなら、別の生き方を探すことにエネルギーを割くことを選ぶ。
イワナとヤマメは、住む場所もエサも同じで、競争になりやすい。しかしそれでも「棲み分け」が起きる。水温や水流の勢いの好みでイワナは上流に、ヤマメは下流に棲み分けするようになる。自然界では、いかに競争を避けるかが生き残り戦略では重要。
競争原理は、人間の頭の中で生み出されたもののように思う。自然界の実態をうまく表せていないし、社会現象でもマズい現象を表現する言葉のように思う。全く同じ商品で競争したら、価格競争するしか方法がなくなる。
そんな、疲弊とムダを生む競争を目指すのは、むしろ生産性が低いのではないか。競争原理を勧める識者は、実は日本の内部を分裂させ、内部で潰し合いをさせ、日本を弱体化させることが真の狙いだったのではないか、とさえ思える。2000年代に入ってからの日本の凋落はまさにその結果ではないのか。
私は、日本の内部では、競争を目指すのではなく、「他者と違うことをし、他者とつながる」を目指した方がよいように思う。競争になりそうな場合は、疲弊とムダを避けるため、棲み分けする。こうして有機的なつながりを目指す社会になった方が、海外との競争力を発揮できるのではないか。
実は、海外とのやり取りでも、競争よりは「他者と違うことをし、他者とつながる」を目指した方がよいように思う。すでに強者が存在するところとまともに競争するのではなく、違うアプローチをする。そして他者とつながる。その方が、世界から求められる商品を生み出せるのではないか。
リカードの比較優位説は、こうした意味で有効だと思う。世界と有機的につながり、日本がなくてはならない存在となる。他方、日本も他国がなくてはならないと存在を認める。こうしたウィンウィンの関係をたくさん作れるなら、日本の経済的地位は高くなるだろう。
台湾は、誰もが嫌がる工程を担うことで世界的シェアを握った。機械の設計をする最上流と、販売する最下流は生産性が高いけれど、製造部門は工場を建設しなければならないし、雇用もたくさん抱えねばならず、生産性を上げにくい工程。そこを引き受ける、という戦略をとった。すると。
世界中のパソコン・スマホのメーカーが台湾に製造を委託するようになった。世界中から仕事を引き受けることで工場はフル稼働、雇用も安定させることに成功。いつしか、世界トップクラスの技術を誇るようになった。
世界中が求めているけれど、あまりやりたがらない分野。それはフロンティアになる。やってくれてありがとう、となるから他者とつながりやすい。誰もやりたがらないから技術を単独で磨け、後から真似しにくい優位性を築きやすい。価格競争にも巻き込まれにくい。
競争はむしろ避けよう。それよりは「他者と違うことをし、他者とつながる」ことを目指そう。そうすることで日本の内部は有機的に機能し、日本全体が活力を得るようになるだろう。また、国際的にも日本は有機的につながり、世界から求められる存在になるだろう。
競争原理という、わかりやすい論理に惑わされ、そのために私達は目指すべき行動指針を歪めてしまったのではないか。競争原理はあまりにも解像度が悪く、現実をうまく映せていない言葉のように思う。それよりは「他者と違うことをし、他者とつながる」ことを目指した方がよいように思う。