「情報との向き合い方」考
マスメディアやSNSで入り乱れる情報に対してどのように向き合えばよいか。その基本姿勢を作ることになった原体験を紹介したいと思う。
阪神大震災が1月17日に起きてその半月後の2月頭、私は東灘区役所に救援物資をとりに行った。
すると、ミネラルウォーターのペットボトル数本と使い捨てカイロ数枚しかない。「うちの避難所だけで1500人いるんですよ。とてもじゃないけどこれじゃ意味がない。食料と飲み物はないんですか?」と尋ねると、区役所の人は「もうこれで全部なんだよ」と言われて、私たちは青くなった。
被災者に配給されているお弁当は、1日におにぎり2個、菓子パン1個、牛乳パック1個だった。もちろん、とても足りやしない。だから、救援物資の食料や飲料が非常に重要だった。避難所にある在庫は限られている。私たちは翌朝、食料を分けてもらえないか、めぼしい場所を手分けして調べることに。
すると、摩耶埠頭(神戸市に来る救援物資の集積所)にも元気村にも、食料や飲料などの必需品がなかった。原因は分かっていた。神戸市はその1週間ほど前だったか、「被災地は救援物資であふれ返っているので送らないでほしい」とニュースでアナウンスしていた。それで救援物資が止まってしまった。
あふれ返っているのは服と毛布ばかり。肝腎の食料や飲料が足りない。町は瓦礫ばかりで空いている店舗もない。私たちボランティアだけでは、1500人分もの食料をまかなうことはできない。しかもこれはどうやら、神戸市全域で起きているらしい。どこにも食料はないのだから。
私たちは手分けしてマスコミや行政に現状を訴えた。そしたら、誰も現実を把握できていなかった。お弁当がおにぎり2個、菓子パン1個、牛乳パック1個という、当時400円もしないような貧しい弁当しか食べていないということも、把握しているマスコミや公務員がいなかった。それには原因が2つある。
1つにはNHKの深夜に流れるテロップ。「今日も740円のお弁当を配給しました」と流れていた。740円という金額を聞けば、けっこう立派なお弁当に思える。マスコミや公務員の人たちは、この金額だけを見て「立派なお弁当食べているし、十分それで足りるだろう」と思い込んでしまったらしい。
もう一つは、西宮市と長田区という、被災地の「両端」で散々報道されてきた、避難所支援のぜいたくぶりだった。やれ、芸能人がステーキ200枚を被災者に振る舞ったとか、別の芸能人が、と、その「両端」では、かなり豊かな食料援助があったらしい。その報道を見た、被災地以外の人たちは。
「被災地の人たち、俺たちよりもええもん食っているらしいやないか」と、冷笑的に言われたことが何度もある。しかしそれは「両端」でしか起きなかったことだった。救援物資も、ボランティアも、マスコミも、被災地の両端には集積したけれど、少し中に入ると、それらのいずれもほとんどなかった。
一つには、西宮も長田区も被災地の端っこだったので、早くに電気が通じた。このため、マスコミも取材しやすく、西宮と長田区が集中的に報じられた。その内側の芦屋市や東灘区などは甚大な被害を受けていたのに、救援物資もボランティアも届かなかった。マスコミも滅多に入ってこなかった。
このため、被災地以外に住むごく普通の人たちは、「740円」という価格だけの情報と、被災地の「両端」でしか起きていないぜいたくぶりの情報に触れて、「被災者は毎日いいもの食べている」と誤解し、それが食糧などの救援物資が送られない原因となっていた。
私たちは、東灘区だけでなく、どうやら被災地全体として食料が払底していることを把握し、それを多くの人たちに伝えるべく、動き出した。私はテレビ局や新聞社に電話しまくった。一人は元気村にいるマスコミに実態を伝えた。どの記者も「え?そんなことになっているんですか?」と気づいていなかった。
一人は、神戸市や大阪市、大阪府の庁舎に行って、現実を伝えた。驚くべきことに、公務員の人たちも実態を把握できていなかった。(両端を除く)被災地から食料が消えていることに気がついたのは、どうやら私たちが最初であったらしい。
翌日から、マスコミが「こんな貧弱なお弁当しか食べていなかったんですか…」と絶句するニュースが流れるようになった。神戸市も、食料・飲料・生理用品が絶対的に不足していることをアナウンスするようになってくれた。こうして、在庫切れする直前に何とか被災地での食糧危機を回避することができた。
「740円」も「長田区や西宮の被災者はステーキなどを食べている」も、「証拠(エビデンス)」だ。その「証拠」に基づいて、「被災地にいる被災者はみな、一般市民よりもぜいたくな食生活をしている」という「物語(ナラティブ)」が紡がれていた。これを、マスコミも公務員も国民も信じていた。
私はこの経験から、マスコミと言えど、足で稼がなければ「事実」にたどり着くことはできない、ということを知った。現場を歩き、そこで何が起きているのかを知る。仮説が湧いたら、その仮説を検証すべく、また現場を歩く。それによって、仮説を磨き上げる必要がある。
私たちが気づくことができたのは、現場で400円もしないようなお弁当しか配給されていない現実に腹を立て、大阪や京都に戻ると深夜のNHKで「740円」と表示されていることに怒り、「被災者はええもん食っているんやろ」という誤解に怒り、というのがあったと思う。そうした怒りの上に。
東灘区の物資集積所である東灘区役所に物資が払底している現実を知って、「相当広範囲の被災地で食料が足りない」という仮説が湧き、神戸市全体の救援物資の集積所である摩耶倉庫に足を運び、そこにもないことを確認して、「神戸市全体に食料がない」ことに気づくことができた。「足で稼いだ」からだ。
「740円」も、長田区や西宮でステーキを振る舞う映像も、「情報」ではあるかもしれない。しかし、その情報を「事実」として受けとめると、被災地で起きている「事実」と大きくずれてしまう。むしろ反対になってしまう。私にとってこの経験は、情報をどう受けとめるかということの教訓になった。
さて、今回の兵庫県知事選では、マスコミはウソつき、動画は真実、という意見が大変多い。しかし私から見たら目くそ鼻くそ。「事実」に対して足を運んで取りに行かないならば、マスコミだろうが動画だろうがそれらの提供する情報は、「物語」でしかない。
「動画は賛否両論どちらも参考にできるからマスコミより信頼できる」という意見をたくさん見たが、「物語」をいくら覗いたってそれは物語でしかない。「事実」を知るには何の役にも立たない。結局、自分の信じたい「物語」を強化するだけで終わる。
今回のマスコミ(オールドメディア)と動画の戦いは、神学論争にしか私には見えない。聖書の解釈をめぐって対立してるだけ。
でも、ガリレオが天体を観測したり、ケプラーが精密に惑星の軌道を計測したりする「事実」、ダーウィンの示す「事実」に「物語」は勝てなかった。
今回、動画派は「我にこそ事実はある!」と自信満々だけど、やはりマスコミなどのオールドメディアと比べて目くそ鼻くそだと思う。「740円」と被災者がステーキ食べる映像見て鬼の首取った気になっているだけのように思う。
足で稼がない限り、「事実」は見えてこない。
そして、足で稼がなかった人間は、事実にたどり着けない。物語をいくら見てもダメ。その自覚が必要だと思う。
私も「事実」は知りようのない立場に居ると考えている。足で稼いでないのだから。これは、動画を見漁った人も同じ。足で稼がねば意味はない。
今回、動画に踊らされた人たちに批判的な人たちの意見として、「自分の頭で考えなければならない」というフレーズをいくつも目にした。これもまた、私はおかしいと考えている。自分の頭でいくら考えたって、動画が真実を述べているかどうかなんて見抜けるはずがない。
事実かどうかを見極めるには現場に行くこと、そして観察すること、その観察から仮説を立てて、その仮説を検証すること。この繰り返しをすることでしか、事実に近い仮説を紡ぐことはできない。その作業ができないなら、私たちは「わからない」という現実を認める必要がある。
私は研究者だけれど、科学の世界でも、かつていろんな「神学論争」めいたものがあった。しかし、そうした神学論争に決着をつけるものは、いつも「事実」であった。科学の理論といえども、基本的には「仮説」であり「物語」の一種。どの物語の方が真実性があるかなんて論争しても意味はない。
新たに発見された「事実」に基づく「仮説」だけが、真実に近づいた仮説として採択される。その作業を繰り返すだけ。仮説はどこまで行っても仮説でしかない。「わからないものはわからない」。研究者は「わからない」を抱えること、それを認めることがとても大切。
そういう意味では、私は、マスコミの情報であろうが動画の情報であろうが、「誰それがこう言っていた」「こういう資料がある」「こういう数字がある」というのも、すべて「伝聞」のたぐいだと考え、「そういう話もあるんだね」程度の参考にはしても、それを事実だとは考えないようにしている。
既に話が長くなってしまったが、もう一つ、情報とどう向き合うかという点で、私が学びを得た話がある。それはベトナム戦争。デイビッド・ハルバースタム「ベスト&ブライテスト」に詳しい。これはみなさん、現代でも通じる話だからぜひお読みになるとよい名著だと思う。
ケネディ大統領のもとには「最良で最も聡明な(ベスト&ブライテスト」人物が集められた。その一人として、マクナマラという人物がベトナム戦争を率いた。彼は戦場から送られてくる様々な統計データを駆使し、戦争に反対する人々の意見を論破し続け、戦争遂行に力を入れた。ところが。
戦場にいる記者たちは「おかしい」と感じ、現地で起きている惨劇をアメリカに伝え続けた。マクナマラは「局地的にはそういうこともあるだろう」と認めつつも、「全体としてはうまく行っている、それは数字が示す通りだ」と言って、膨大な統計データを示して、反対意見を黙らせ続けた。
ところが、マクナマラが「事実」として扱っていた統計は、戦場にいる幹部たちがいいかげんに送った数字がかなり含まれていた。アメリカ本国が、戦争はうまく行っていることを示すデータを欲しがっていることがわかっていたので、ウソではないけども現実とはずいぶん印象の違うデータを選んで送ったり。
このため、数字がウソをつく結果となった。「740円のお弁当」と同じ現象だ。数字が与える印象は、現場で起きている惨劇を覆い隠し、「米軍の英雄たちが果敢に敵と戦っている」ように感じさせるものになってしまった。しかし実態は、記者たちが「点」で観察した「事実」の方がはるかに近かった。
結果的に、軍という「現場」から得たはずのデータ、情報より、記者が足で稼いでつかみ取った情報の方が、現場の「事実」をうまくつかんでいた。軍は、上層部の印象が悪くならないように、都合の悪い数字は隠し、都合よく見える数字だけを報告する可能性があることを、マクナマラは分かっていなかった。
私は、今回の兵庫県知事選で動画だけを見た人、あるいはマスコミだけを信じた人、双方に「マクナマラの誤謬」が起きたように思う。自分は真実を知る情報に触れることができた、他の人間は間違っているに違いない、と。でも、情報源がどちらであるにしろ、足で稼いでない情報は意味がない。
事実を確かめずに紡がれた「物語」同士で意見を戦わせても、ただの神学論争にしかならない。そしてあいにく私たちのほとんどは、「現場」に足を運ぶことができない。私たちにはわからない、という謙虚さが誰にでも必要だと思う。
今回、それはそれとして、多くの県民がある「仮説」を採用し、新知事を信任したということは、それはそれで意味があることのように思う。ただ、動画の方がマスコミなどのオールドメディアより優れている、と考えるのは、目くそが鼻くそ笑っているのか、鼻くそが目くそ笑っているのかの違いでしかない。
県民の多くが、ある「仮説」を採用して、新知事を選んだ。あとは、その仮説が妥当であったかどうかは、新知事次第となる。どうか、誰も職員を死なさずに、必要な仕事を進めていっていただけたらと思う。私の願うのは、ただそれだけ。