子ども食堂とフードロスを組み合わせるアイデアは、善意で舗装された地獄への道

子ども食堂と食品ロスを結びつけて考えるアイデアが、さもグッドアイデアであるかのように語られることが多い。しかしこの組み合わせは皮肉なことに、貧困を救おうとして始めた子ども食堂を、貧困を再生産し、固定化する仕組みに変えてしまう恐れがあるように思う。

子ども食堂は、目の前で飢えている子どもになんとか食事を提供したい、という緊急性のある活動。私の知人も複数子ども食堂に関わっており、私も応援している。しかし食品ロスと子ども食堂を安易に結びつけるのをグッドアイデアとして社会に広げようとするのは、善意で舗装された地獄への道だと思う。

もし子ども食堂が扱う食材がまともな価格で買われたものなら、農家も売上が出るし、豆腐屋さんも売上が出る。でももしゴミとして捨てていた食品ロスを子ども食堂に提供したら、農家も豆腐屋も売上がその分減ることになる。そして農家も豆腐屋も収入が減るので消費を減らさざるを得なくなる。

すると社会全体で消費が減る。すると社会全体でも給料を減らされる人が増える。こうしてデフレスパイラルが止まらなくなる。日本はこれをもう三十年続けてきた。安いものを買うように仕向けることはデフレスパイラルの大きな原因。それをもう改めないと、デフレスパイラルは止まらない。

子ども食堂で、以前ならゴミとして捨てていた食品ロスを食べさせようとするのは、ついにデフレスパイラルが行くところまで行き着いた、ということ。
もし食品ロスを提供することで子ども食堂の運営コストを大幅に削減することに成功したとしよう。すると何が起きるのか。

「食品ロスを食べて飢えずに済むなら、子どもがいたとしても、もっと給料下げても生きていけるよね?」と、経営者がさらに給与水準を下げる動機につながりかねない。底が抜けてしまう。貧困を救おうとした子ども食堂が、貧困をさらに加速させる装置になりかねない。

その意味で、子ども食堂と食品ロスを結びつける考え方は、善意の彩りを帯びた悪魔の企みに思えて仕方ない。悪意よりよほどタチが悪い。貧困を救うどころか貧困を固定化し、しかも捨てるものを食べさせようとする。むしろ非人間的な企みと言って良いのではないか。

私は、繰り返すが、緊急対策としての子ども食堂の価値を信じている。しかし子ども食堂を永続的な装置にしようという企みはむしろ怒りを覚える。大切なことは、子ども食堂に子どもたちが通わなくてもおなかいっぱいに食べられる社会にすること。子ども食堂はその過渡的存在であるべきだと思う。

真に貧困解消を願うなら、子ども食堂に通う子どもたちの親御さんの雇用環境が改善され、ゆとりある生活ができるようにすることだろう。そうすることで、その人たちもまともな価格で食品を買えるようにすることだろう。そうすれば農家も豆腐屋も貧困に陥らずに済む。

子ども食堂と食品ロスを結びつける発想は、善意でもグッドアイデアでもなく、「餓えてる子どもには食品ロスでも食わせておけ、それなら金も使わずに済む、その親の給料ももっと下げられる」という、悪魔のような魂胆と結びつきやすい構想。やめるべきだろう。

政府は、決して子ども食堂と食品ロスを結びつけてコスト削減しようなどと思ってはならない。子ども食堂だからこそ、まともな価格の食材で運営できるように支援すべき。そして子ども食堂を利用せずに済む家庭ばかりになる社会を目指すべき。

子どもたちが、自分の食べたいものを、親と一緒に笑顔で食事できる社会を。子ども食堂はその過渡的な橋渡しをする存在でしかない、と捉えられるような社会でないと、底が抜けてしまう。地獄への道に善意の彩りを与えることに、みんなもっと警戒して頂ければと思う。

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