改善する代わり、無理をせず、失敗を許し、自分に優しくすること
福祉の仕事をしてる二人、対照的な反応を示した。
一人は、退院後に迎えるだろう生活の厳しさに胸を痛め、なんとか方法がないかと考えてはどうしようもないと落胆し、ついには心が耐えきれなくなり、その仕事を辞めることになった。
もう一人はとてもサバサバした性格で、退院後の生活支援メニューを洗い出し、それを提示し、そこで終了。次の患者に気持ちを切り替え、再び可能なメニューを提示、本人や家族に選んでもらう。それの繰り返し。思い悩まず、今も仕事を続けている。
若い頃は、前者の同情タイプに憧れがあった。他人の痛みを自分の痛みのように感じ、自分のことのように思い悩む。なんて心優しいのだろう、と。かたや後者はなんだかサバサバし過ぎて冷たいな、もうちょっと思い悩んでくれてもいいんじゃない?と批判的に捉えたんじゃないかと思う。
でも今は。
後者の方がいいかな、と思うようになった。自分が潰れてしまったら元も子もない。自分が元気でさえあれば、最大のパフォーマンスを発揮できる。それは、他者に手をさしのべるだけの余裕分を最大限確保することにつながる。ならば、自分に過大な負荷をかけないことが大切だ、と思うようになった。
後者の人は、決して冷たいわけではない。普段から福祉のことをよく勉強し、どんなケースにはどんなメニューがあり得るのか、パッと出せるようにしてある。どこまでが可能で、どこからは無理なのか、限界も把握している。その限界を超えられるメニューはないのか、普段から探している。
常に最善な手を打とうと思っているけど、人間だからミスもないわけではない。しかしそれで自分を責め、心を刻んでも何の役にも立たない。それよりは次の患者の時には、新たに学んだメニューをきちんと提示できるようにする。常に改善し、最善手を目指すことを条件に、自分を許す。無理をしない。
若い間は馬力があるため、馬力で走り回ればどうにかなると思ってしまいがち。しかし年を取ると、無理したら寝込み、かえって迷惑かけたりパフォーマンスが落ちることを痛感する。だから、自分に無理をさせない。心を自ら刻んで精神的エネルギーを減らすこともしない。自分に優しくする。許す。
その上で、無理のない範囲で、改善を常に続ける。あ、こうした方がよかったのか。前のケースにこれを適用できてたらもっとよかったけど、もう過去になってしまった。なら、次に似たことが起きたら違うやり方が取れるよう改善しよう、と。
人に優しくするためには、自分に優しくする必要がある。自分に無理をさせない。無理に頑張らせない。自分を責めず、許す。その代わり。
改善する。無理のない範囲で学び続け、もし気がついたら改める。そして持てるエネルギーでできる最善手を選べるように、普段から改善を続ける。
トシをとって、そうしていくのが最も迷惑を比較的にかけず、人様のお役に立てる場面が多めになるのかな、と思うようになった。
自分に優しくし、自分を許す。だから人を許し、人にも優しくできるのかな、と思う。