まず気を軽くすること:「よくあること」「たいしたことない」
私は最近、反省していることがある。YouMeさんに余計なことを言って、ちょっとしたパニックに陥らせたこと。
少し気になったことをYouMeさんに伝えたところ、それはYouMeさんも悩んでいたことだったらしく、痛いところを突かれた感じになったらしい。で、軽くパニック。
YouMeさんは私と違って大変察しのよい人なので、私が指摘するようなことはすでに気づいている。それでも修正できないということは、本人がどうしたら改善できるのか分からず、困っていること。なのに私がそれを指摘しても、全然役に立たない。それどころか、YouMeさんを心理的に追い詰めるだけ。
で、YouMeさんの悩みを何とか解決しようと、ああしたら?こうしたら?と提案するのだけど、その程度の「正解」はすでにYouMeさんも気づいている。けれど、自分の心の現実と、正解との間に谷間があってつながらない。木に竹を接ぐ感じになって、納得ができていないから実践が上手くいかない。
むしろ、私が改善しようと乗り込んできたことで、YouMeさん自身の悩みがより深くなり、追い詰める結果になり、で、パニックとなってしまったらしい。アプローチを完全に間違えた。
で、話し合ううちに、意外なアプローチが見つかった。「よくあること」と「たいしたことない」の2点。
問題を問題視すると、その問題を解決できない自分の至らなさを責めて、自責の念でつぶれてしまいやすい。それではたまらなくなるから、今度は「いや、自分ではなく相手が悪いのでは?」と、他責の心が生まれる。でも、ある程度人生経験積んでいると、他責は責任転嫁でしかないことがわかっている。
で、他責するようになった自分の情けなさ、愚かさを責めずにいられなくなり、自己嫌悪。こうした悪循環が繰り返され、パニックになってしまう。私が問題を「問題だ」と指摘したことは、このパニックの悪循環に、「火に油」となってしまった感じ。燃料投下にしかならなかった。
ところが、「それってよくある、よくある。私もよくやってしまう」と、解決策を提示しないで「よくあること」として認めるだけにとどめると、パニックが収まり、冷静な判断が戻るらしい。「そうか、よくあることなのか、だったら自分を責めるというムダなことはやめよう」となるらしい。
また、「それはよくあることだけに、大したことないよ」と、「たいしたことない」を伝えると、「そうか、大したことないなら、失敗してかまわないよな。失敗してかまわないなら、いろいろ実験して試してみるか」という余裕が生まれるらしい。余裕が生まれると、物事を冷静に観察する気になる。
冷静になって観察すると、現場で何が起きているのかが分かってくる。すると、「かかわり方をこう変えたら、もしかしたら結果が違うかも?」という仮説も生まれてくる。「たいしたことない」と思えるから、「失敗して元々だ」と考えることができ、失敗覚悟の試行錯誤をしてみる勇気が湧く。
「よくあること」「たいしたことない」の二つが、YouMeさんの呪縛を解く大きなカギになったようだ。
私たちはついつい、問題を問題視したら、「それはこう改善するといいよ」と「正解」を伝え、それを実践するように勧めてしまう。けれど、本人がすっかり悩んでいる場合、「正解」はムダ。
たいがい、本人も「正解」が何かわかっている。分かっているのだけれど、それを実践できない「何か」が邪魔をしている。その「何か」が分からない。分からない自分が情けなくて、自分を責めずにいられない。自分を責めてばかりだとしんどいから他人を責めるようになる。でも。
他人を責める自分のなさけなさも嫌になり、自己嫌悪に陥り、パニックになり、頭真っ白になる。こうして、事態を冷静に観察するゆとりを失ってしまう。YouMeさんはその状態になってしまった。私の「正解」を与えようとするアプローチは、その悪循環に燃料を注ぐ結果になってしまった。
また、この場合、「産婆術」もうまくいかなかった。すでに心が傷だらけなのに、産婆術で傷口を広げるような感じになって、よけいに痛くなり、パニックの火に油を注ぐ形になってしまった。
こうした場合、女性がよくとるアプローチが有効であるらしい。「あるある!」「たいしたことないよ」の2点。
1)よくあることなら、自分を責め、相手を責めて、誰が悪者かなんて追究する必要もない。
2)大したことないなら、ダメでもともと、いろんな「実験」をして失敗重ねて、何が起きているのかを観察して楽しんでも構わない。
そんな風に思えるようになるらしい。そして試行錯誤を繰り返すから。
次第に解決策に近づき、やがて解決してしまう、という結果に至るらしい。
今回、YouMeさんへのアプローチを誤ったことで、いくつもの学びを得た。ここでまとめておくと、
①本人が悩んでいることを指摘することは傷口に塩を塗るだけのことで、ムダ。
②正解を伝えても、悩んでいる人は実行できなくて困っているのだからムダ。
③産婆術を行おうにも、傷口をいじるようなもので、かえってパニックをひどくするから、自責に陥っている人にはむしろ悪化の原因。
④「よくあること」を伝えることで、自責と他責を繰り返す「責任感の異様な重さ」という呪いを解除する。
⑤「たいしたことない」を伝えることで、失敗しても大したことないと伝え、「ダメで元々、試行錯誤繰り返せばいいじゃん」と思えるようにして、観察眼を回復させる。
人間はどうやら、どうしたらよいか分からなくなった時、「自分」が悪いか、「相手」が悪いか、という思考に陥りやすいらしい。問題をどう解決するかではなく、問題の責任を自分あるいは相手のどちらに帰するか、という思考に陥ってしまい、その悪循環から抜けられなくなってしまうらしい。
自分はどう振る舞うべきだったか、相手はどう振る舞うべきだったのか、と、「自分」「相手」などの「存在」ばかりを云々するのではなく、自分と相手との間の「関係性」に変化を与える工夫を考えた方がよい。しかし、この思考に至るには、まずいくつかの「呪い」を解除することが必要。
その呪いを解除する方法が、「よくあること」「たいしたことない」であるらしい。すると、深刻に考えることをやめ、冷静に物事を観察するゆとりが生まれ、関係性を変えてみる余裕も生まれてくるらしい。まずは相手の気を軽くする、というアプローチが極めて重要であるらしい。反省。
元教員の方から、次のようなエピソードを教えていただいた。今回の件に参考になるかと思い、了承を得たうえでご紹介。
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叱らない日
まだ20代の時です。新しく担任した三年生の子どもたちが落ち着かない。毎日、叱ってばかりだった。叱っても直らない。
根負けし私は、私が何を叱っているかを列挙し整理した。「授業中の私語」「授業中のよそ事」・・・5項目ほどあった。私は、その日、授業中、騒がしくても叱らず、名簿に誰が5項目の何をしたかずっとチェックした。
調べて分かったことは、授業がつまらない時に騒がしくなると言うことだった。授業が面白いと俄然張り切る子どもたちだった。落ち着かない筆頭の子はめちゃくちゃ面白い子だった。
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このエピソード、大変示唆的。最初、この方は騒がしい原因を自分の指導法か、子ども達に求めていた。
ところが指導を厳しくしてもうまくいかないから、「観察」することにした。すると、授業が面白くないときに騒ぎ出す、面白い時はがぜんやる気を出す、という現実が見えてきた。「ならば」、授業をどう組み立てれば、騒がしくならないで済むか、「関係性」の改善法が見えてきた。
「自分」か「相手」か、と、「存在」ばかり見ていた時は、自分の指導法がまずいからか?あの騒いでばかりの子の性質に問題があるのか?などと、自責と他責の中で揺れ動き、解決法が見いだせなかった。でも、いったん騒ぎを沈めるのをあきらめ、観察に徹してみると、意外な解決策が見えてきた。
「授業が面白い」という、教師と生徒の間にある「関係性」を工夫すれば、一番騒がしかった子どもが一番熱心な生徒になる、という意外な発見があった。関係性が変わると自分も変わり、相手も変わる。しかしこうした境地に至るためには、まず、「気楽になる」ことが大切。
上手くいかないときは、上手くやろうという「呪い」を諦め、「どうせうまくいかないならダメで元々、何が起きているのか観察しよう」と腹をくくる。すると、意外な事実が見えてきて、意外な解決策が見えてくる。ただしこれは、自分一人で解決するためのアプローチ。
他者が、その状態に至るためのアシストをするのなら、「よくあること」「たいしたことない」という声掛けによって、冷静さを取り戻し、観察眼を回復するアシストをすることが大切であるらしい。今までもなんとなく感じてはいたことだけれど、今後、相談事に乗るときに気をつけたいと思う。
「正解」は、他者から与えてもうまくいかないことが多い。特にすっかり悩んでいて、その「正解」にとっくに気づいているのに、それを実行に移せずに悩んでいる人には特に。そうした人は、自責と他責の悪循環に囚われ、「呪い」がかかっているから、その解除を優先する必要がある。
「よくあること」「たいしたことない」は、その呪いを解除させ、観察眼を取り戻し、「正解」への道筋を自ら発見させることを可能にする。こうした人間心理の仕組みを、もっとわかっておかないとなあ、と思った次第。今回、大変勉強になった。
追伸。
上手くいかないで悩んでいる人に「こうすればいい」と正解を伝えようとするのは、初心者に「こう打てばいいよ」とプロのテニスプレイヤーが妙技の見本を見せるようなものかもしれない。「それができたら困らんわ!」と言いたくなる。素人と玄人の妙技には距離がある。
素人に玄人の妙技を植え付けようとしても、それこそ木に竹を接ぐような感じになって、根づかない。玄人の動きを再現する前に、素人は、必要な技術の蓄積、鍛錬、試行錯誤が必要。ならば、素人なりの試行錯誤を繰り返すしかない。大切なのは、試行錯誤をしてみる勇気を持つこと。
ところが玄人が妙技を見せれば見せるほど、「こうできねばならない」「ああできるべきである」という「べき・ねば」思考に陥り、試行錯誤をする心のゆとりを失ってしまう。初心者に大切なことは、失敗を楽しむくらいの気持ちで試行錯誤を繰り返すこと。
悩んでいる人も同様で、正解にたどり着きたくてもできない自縄自縛状態になっている。こうした状態の場合、正解を与えようとするのではなく、試行錯誤する勇気を取り戻すアシストに徹したほうがよさそう。