不器用な人は意識強すぎ、一つのことを見過ぎ、なのかも

拙著「思考の枠を超える」を読んだという方からお便りを頂いた。とても役に立ったという。私も大変嬉しくなった。
この本は、まだ20代だった私にいちばん読ませたい本をと書こう思ってまとめたもの。当時の私は自分の不器用さと劣等感に苛まされていた。

子供の頃の私は、勉強ができない、スポーツもできない、人付き合いも超苦手という、取り柄というものが見当たらない子供だった。
勉強だけは中学2年の時に偶然、真剣に取り組むきっかけがあったことでできるようになっていったが(その経緯については最初の本の「おわりに」に紹介している)。

勉強と言っても、丸暗記による力押し。全然スマートさがない愚直さ。同級生がスマートに難問を解くのに対し、暗記できてないのは手も足も出ない私。そんなだから、自分の不器用さを呪い、劣等感に苛まれていた。二十歳を超えてからの私は、何とかしてこの不器用さから脱却しようと悪戦苦闘する日々。

阪神大震災が一つの契機になった。しかし私の不器用さはまだまだ続いた。ようやく人並みになれたかも、と思い、人からもそう言われることが増えたのは30歳を過ぎてから。子供の頃から悶絶しながら一つずつノウハウを発見してはそれをなんとかものにするのに、それだけの時間がかかってしまった。

私が思うに、不器用な人は2つの問題を抱えがちなように思う。一つは意識が強すぎること。2つ目に、同じものばかり見つめてしまうこと。この2つが強いと、仮に器用な人でも容易に不器用になることにも気がついた。不器用な人は、これが日常化してしまっている。

意識が強すぎるとは、言い換えれば「無意識を信頼していない、無意識に任せようとしない」ということになるように思う。不器用な人は、身体にしろ思考にしろ、意識で完全に制御しようとする。ところが意識というのは身体や思考の操作がとてもヘタクソ。このため、身体も思考もひどくぎこちなくなる。

バットでボールを打つにも、ラケットでボールを返すにも、意識して思い通りに動かそうとする結果、手の動き、腰のひねり、足さばきなどがバラバラになり、動きがぎこちなくなる。意識は一つのことしか操作できないから。

会話でも、これを言おう、あれを言おうと意識が言葉を完全に制御しようとする。しかし会話は水もの。状況がどんどん変化し、発言のタイミングを見失う。あるいは場違いでトンチンカンな発言をし、後で頭を抱えたりする。意識は動きが遅く、反応が鈍く、融通が利かないから。

意識が身体や思考を完全制御しようとする原因は、もしかしたら「失敗したくない」なのかもしれない。失敗を恐れるあまり、失敗したくないと身構えるあまり、意識で全部コントロールしようとしてしまうのかもしれない。

小さい頃に「そうじゃない!こうだって言ったでしょう!」と頻繁に注意を受けると、そういう子に育ってしまいやすいようだ。注意された言葉に気を取られ、目の前の現実を観察するゆとりを失い、かけられた言葉通りにしようとする習慣が、意識によって制御しようとする習慣に傾くのかもしれない。

この現象は子どもに限った話ではない。大人でも、ヤイノヤイノとやかましく注意し、さっきはこう言ってたのに次には別のことを指示する「ダブルバインド」をする上司のもとだと思考停止し、自分で考えられなくなり、不器用極まりなく、指示待ち人間にすることが可能。

実は、意識なんかよりも無意識の方が身体や思考の操縦は得意。というか、比較にならない。不器用な人でも、気さくに話せる家族や友人とは問題なく会話できたりする。失敗を恐れずに済む状況では、思考の操作を無意識に委ねることができるから、スムーズに言葉が出て、円滑に会話できたりする。

無意識は複数のことを同時並行で操作するのが実に巧み。シャツを着るという動作は実に複雑怪奇。右腕を通したと思ったら背中に翻し、巧みに左腕の高さに袖を動かしたと思ったら左腕を差し入れる。こんな複雑な動きは人工知能でもまだ無理らしい。

ドアノブをひねりながらドアを押し、隙間に体を差し入れてドアが閉まる前に部屋に入り切る、という動作は、ロボットに真似させるのが非常に困難らしい。

無意識はそんなにも身体や思考の複雑な操作が上手なのに、よりによって操作のヘタクソな意識に操縦権を渡してしまうのは、言葉どおりに動かす必要があり、それが習慣づいてしまったからかもしれない。もし自分の不器用さを克服したければ、無意識を信頼し、操縦を任せることが大切。

ただし、無意識が操縦を覚えるには大切なことがある。失敗を許すこと。むしろ失敗から学ぶ機会をできるだけたくさん与えること。
人工知能搭載のロボットにいろんな形の荷物を持ち上げさせる学習をする際、大切なのは持ち上げるのに失敗した、その失敗をできるだけ数多く学習させることだという。

失敗をたくさんすると、成功の道の輪郭が浮き彫りになる。無意識は失敗から成功の道を探る仕組みを持っている。だから、失敗を恐れるのではなく、むしろ失敗を楽しむくらいの気持ちでいると無意識は瞬く間に補正し、複雑な動きを制御できるようになる。無意識に操作を委ねるには、失敗を楽しむこと。

もう一つの問題、一つのことをジッと見てしまうこと。これは意識に身体や思考の操縦権を譲り渡してしまうことと深く関係しているのだけど、不器用な人は一つのことに視線を奪われ、他のことが意識に上らなくなり、そのために情報不足となって、ますます身体や思考はぎこちなくなる。

「新インナーゲーム」でガルウェイ氏は面白いエピソードを紹介している。バックハンドが上手になった生徒をほめたら、その途端にホームラン続出。違うよ、さっきはこんなふうにラケットを振っていたよ、とフォームを指導すると、今度はフォームまでガタガタに。もはや頭を真っ白。

そこでガルウェイ氏はちょっと変わった声をかけた。「ホールの縫い目をよく見て。スローモーションで見るかのように」。するとガタガタだったフォームは再びスムーズに動くようになり、コートの中にボールをかけた返せるようになったのだという。これは、こんなふうに解釈できると思う。

「上手になったね」と言われた途端、どこが上手になったのか、自分の動作を意識するようになったため、意識したところの操作が意識による操縦に切り換わってぎこちなくなったのだろう。フォームの注意を受けたら、フォームを意識してしまい、意識による管理下に入ってぎこちなくなったのだろう。

しかしガルウェイ氏に「ボールの縫い目を見て」言われた途端、意識はボールに移り、身体が今どんな状態かを感得し、操作するのは無意識の管理下に入り、複雑な動きを得意とする無意識に操縦権が移ることで動きがスムーズになったのだろう。

だとすれば、無意識に身体や思考の操縦権を任せるには、どこに視線をずらすかが大切。意識は視線の先に縛られる特徴があり、変に身体や思考に視線(意識)を向けると、意識による支配が始まってしまう。だから、視線をそらす工夫が必要。

剣道では「打突するところを見るな、相手の目を見ろ」と指導される。ついつい、初心者は面を打つなら面、小手を打つなら小手を見てしまう。しかし相手の目だけを見て打つ訓練をするうち、視線(意識)は相手の目を見ることだけに集中するため、身体の操縦権は無意識に移りやすくなる。

意識が変に身体や思考の操縦権を握らないよう、視線をそらすこと。どんなものに視線をそらせば、意識に操縦権を握らせず、無意識に委ねることができるか、工夫を重ねると次第に上手くなる。こうして、不器用な人も、器用な人に近い柔軟性を獲得できるように思う。

自分の不器用さを呪っていた二十代の私に、少しでもヒントを渡したい。そのヒントをもとに、自分を縛ってきた呪縛を和らげ、無意識を再び信頼し、身体と思考を委ねられるようにできたら、と思い、ヨン冊目の本を書いた。私同様、不器用さに悩む方に読んで頂けたらと思う。

「思考の枠を超える」日本実業出版社
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