宿題のリデザイン
小学校に入学する際、「宿題をさせるのは親の責任だと思ってください」と学校から言われることが多い。世の親御さん、特にお母さんはマジメな人が多いから、必死に子どもに宿題をさせようと頑張る。しかし悲しいことに、これが勉強嫌いへの第一歩となる。
子どもが小学校に入るまでの親は、子どもの成長に先走ることはない。先走っても無駄だから。まだ歩けない赤ちゃんに「歩くにはこう!こう足を動かすんだよ!」と言っても、言葉の通じない赤ちゃんにはムダ。「これはミルク!ミルクって言うんだよ!」と言ってもムダ。言葉が分からないから。
だから、子どもが歩き出すのも言葉を話し出すのも、親にできることは祈るだけ。ある日、子どもが自分で試行錯誤して立ったり歩いたり、あるいは言葉を発する。親はそれに驚くばかり。基本、そうした毎日を小学校に入るまで繰り返す。子どもが勝手に成長し、親はそれに驚くという構造が。
ところが小学校に入ってから、親の態度が激変する。先生に言われたとおり、宿題をさせるのは親の義務、と心得、「今日はもう宿題やった?」と、先回りして子どもに声をかける。最初のうちは素直にやっていた子どもも、あんまり先回りされるから嫌になってくる。
「宿題早くやれよ」オーラが親から漂っているのを、子どもは察知する。まるで魚の追い込み漁。宿題をする以外のことが許されない感じ。何をやっていても「宿題をやっていない」というマイナス評価になる。それまで、何をやっても「それができるようになったの!」と驚いてくれたのに。
何をやっていても親が苛立つ宿題というもの、何を楽しんでいても「宿題をやっていない」とマイナス評価にされるようになった宿題というものを、子どもは呪うようになる。嫌うようになる。嫌がるようになる。こうなると、親はますますいきり立つ。「先生に言われたんだから!」と必死になる。
子どもの評価は逆転する。「親が言っても宿題をなかなかしようとしない悪い子」。小学校に入るまでは、何をしても、昨日より今日、できたことが増えたら驚いてくれていたのに、宿題をしないでいるとともかくマイナスの存在として見なされる。そんな状況に追い込んだ宿題が呪わしい。
我が家でも、正直言うとその状況が出て、息子がすっかり宿題をしようとしなくなった。YouMeさんと話し合い、仮説を立てた。「宿題をしなくたって死にゃあしない。それよりは学ぶことが嫌いになる方が恐い。ご迷惑をおかけする先生には謝ろう。でも、宿題のことは諦めよう」
10日ほど宿題をしなかった。それでも何も言わなかった。一緒になって遊んで、以前のように「できない」が「できる」に変えていくのを見て驚き、楽しんだ(まあ、内心ハラハラしながら)。
ある日、何も言わないのに息子が宿題を始めた。先生に言われて、強がり切れなくなったらしい。そのとき。
YouMeさんが驚いた。「親から何も言われないのに、自分からやって、あんたえらいなあ!」宿題をやったことで親を驚かせた息子は得意満面。私が帰宅すると、YouMeさんが「ちょっと息子さん、何も言わないのに宿題終わらせたんだよ!」と報告。私、驚く。息子は後ろでピョンピョン飛び跳ねていた。
その日を境に、息子は自分から宿題をやるようになった。YouMeさんや私は「え!宿題をやったの?何も言われないのに、ようやるなあ」と驚く。親を驚かせた息子は「親に何も言われないのに自発的に宿題をする子」という自画像となり、得意げ。
まあ、時折、どうしても読みたい本があったり、疲れがたまって宿題ができない日があるらしい。それでも親としてはもう何も言わないようにしている。たまった宿題を、結局は一気にやり遂げているようだし。先生には連絡帳で「すみません」と謝り、子どもには宿題をしたら驚くようにしている。
親がやかましく言って宿題をさせると、「親から言われないと宿題をしようとしないだらしない子」という自己評価になってしまう。子どもは面白くない。そんな立場に追い詰めた宿題を、勉強を嫌いになってしまう。親が先回りし、子どもの進む方向を決めてしまうと、子どもは実につまらない。
逆に「宿題なんかいいじゃねえかよ、お父さんと一緒に遊ぼうよ」と悪魔の誘いをすると、「いいや!宿題する!」といって、私の誘惑を振り切ろうとする。私という敵を倒し、宿題をゲットするというゲームになって、楽しいらしい。さらに親が宿題するのに驚くと、得意満面。
子どもは学ぶことが大好き。内発的に、自発的に学ぶことは楽しくて仕方ない。しかし、外発的に、強制的にやれと言われた場合、それは「学び」ではなく「勉強(勉(つと)めて強いる)」になる。つらくてつまらない苦行になる。
子どもが宿題を進んで自発的に行うようにするコツ。それは、
・宿題をしなくてもいい、と腹をくくること。それによって子どもをマイナス評価しないようにすること。
・宿題しなかったら親として先生に謝ること。
・子どもが宿題をしたら驚くこと。
だと思う。この構造だと。
子どもは「自分から宿題をやる頑張り屋さん」という自画像を持つことができる。そんな自画像を可能にしてくれる宿題が楽しくなる。だから、たとえ宿題をしない日がたまにあったとしても、それは宿題が嫌いだからではなく、たまたま。嫌気がさしていないから、宿題は喜んでやるようになる。
できれば、学校の先生も、宿題に関して「仮説」を立て直してほしいな、と思う。「宿題させるのは親の責任」と言い渡すと、上述したように、親は必死になって子どもに強制するようになり、多くの子どもがそれをきっかけに「勉強は嫌なもの、つまらないもの」とし、学習意欲を失う。
恐らく現在の「仮説」は、「学習には反復練習が不可欠」というものだろう。しかし先生もよくご存じの通り、進んで行う反復練習は、心の中で「ああしてみようか、こう考えてみようか」と試行錯誤を楽しむので、非常に身につくが、イヤイヤやっている場合は。
仕方なしにやっているから、身が入っていない。手は漢字の書き取りで線をなぞっているかもしれないが、心は早くあのゲームをしよう、この苦行から早く逃れよう、としている。こんな上の空では、反復練習しても身につかない。
私たちは経験上、よく知っているはずだ。大好きなマンガの、感動したシーンは、たった一度目にしただけなのにそのセリフを思い浮かべることができる。しかし、イヤイヤ反復練習した漢字や英単語は、100回書き取りしたはずなのにしばらくすると「あれ?どう書くんだっけ?」
イヤイヤやることと、楽しんで取り組むことでは学習効果がまるで違う。どうせ反復練習するなら、楽しんでやった方がよい。いや、楽しんで取り組む場合は、反復さえしなくてよい。楽しむ場合は、ありとあらゆる角度から眺め、試行錯誤するから、一発で覚えてしまう。
だから、同じ宿題を出すのでも、「楽しんで取り組めるようにするには?」と、構造をデザインし直してみてはいかがだろう。
たとえば。親御さんには、宿題はしなくていい、と口酸っぱく伝え、何も言わないでほしい、と念を押したうえで、子どもたちに「このプリント、欲しい子は持って帰っていいよ」。
もし翌日、やってきた子がいたら「やらなくていいのにやってきたの!やるじゃん!」と言って驚いて見せる。すると、子どもたちにとって、宿題は「やると先生を驚かすことができる、楽しい手段」に変わるかもしれない。
宿題を、先生から言われたから仕方なしにやる、という受動的な構造のものとして出すのではなく、子どもが自発的に取り組むことで先生を驚かすことができる楽しいもの、という能動的な構造のものとしてリデザインできたら、子どもはもっと学ぶことが楽しくなるように思う。
子どもは本来、学ぶことが大好き。小学校に入るまでは、親が驚くほど学習意欲にあふれ、目にしたもの、耳にしたものをどんどん吸収していく。親はそれに素直に驚いていたはず。だから子どもはますます学び、親を驚かそうとする。
子どもは親に、大人に、「ねえ、見て見て!」とよく言う。これは、昨日までできなかったことが今日できるようになった、その成長の姿で驚いてほしいから。子どもは親を、大人を驚かせるのが大好き。それが学習意欲の強力なドライブになっている。
ならば、親も先生も、子どもの成長に「驚く」ことができる構造をデザインしてみてほしい。「驚く」には、親も先生にとっても「意外」に思える構造が必要。もし親や先生が先回りし、「宿題をするのは当然」になったら、意外でも何でもないから驚けなくなってしまう。
しかしもし、親や先生が一切「宿題をやれ」とは言わない構図だとしたら。宿題は義務ではなく、権利になっていたとしたら。宿題が、親や先生を驚かせるツールになっているとしたら。子どもは宿題をやらない、という道を選べるようにしているとしたら。
親や先生は、宿題をしてきたことに驚くことになるだろう。驚けば、子どもはうれしくなる。また親や先生を驚かしてやろう、と企むようになる。すると、宿題は楽しいものに変わる。宿題は大人たちを驚かすための楽しいツールに変わる。
学ぶこと自体が楽しくなるリデザインを。学ぶことを「勉強」という苦行に変えてしまう現在の構造を、作り替えた方がよいように思う。すると、子どもは学ぶことを楽しめるようになる。楽しめば、生涯学ぶことを楽しめるようになる。いったいどこまで成長するか、限りがなくなる。
学ぶことを徹底的に遊ぼう。徹底的に遊んで、学ぼう。学ぶことは楽しい。学ぶことは最高の遊び。遊びは最高の学び。学びと遊びは本来、分けられるものではない。学ぶことは遊ぶことであり、遊ぶことは学ぶこと。そうした学びのリデザインを、ぜひ宿題をめぐって仮説を立て直してみて頂きたい。
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