体感が伴わないと小学校の内容でつまづく
小学校で習う内容なのに旧帝大生でも苦戦するのが、濃度の計算。例えば「畑10aあたり10kgの窒素をまきたい。窒素を6%含む肥料を何kg用意すれば5haまけるか」という問題を出すと旧帝大生でもちょこちょこ間違う。比を使った計算をしてとんでもない数字を導き出したりする。
小学生になると、さらに難しくなる。「20%の塩水1Lと30%の塩水1Lを混ぜたら何%になるか」という問題、「50%」と答える子が少なくない。これは体感、実感から離れて計算だけで済まそうとすることが原因だと思う。数字だけに囚われ、頭がこんがらがってる子には、次のように尋ねたりする。
「水で薄めたカルピスと、これまた同じくらいに水で薄めたカルピスを混ぜて、味が濃くなるか?」と訊くと、「いや、薄いカルピスのまま」と答えられる子が多い。しかしカルピスを飲んだことのない子、水で薄めるという体験のない子にこれを言葉で理解させることは困難。そういう場合は、
やはりカルピスや塩水などで実際に水に溶かし、味わってみる体験を積み重ねさせた方がよい。そうでないと濃度の感覚、体感が育たないし、それなしに濃度の問題は理解できるはずがないから。
「4人分の味噌汁を作るには味噌をこれだけ使う。では5人分の味噌汁作るには味噌はどれだけ必要?」
ケーキを小さめに作ったり大きなケーキを焼いたりなど、料理を通した体験がたくさんある子は、濃度の感覚、体感が育ちやすい。しかし机の前に座りっぱなしの座学ばかりの子は、たとえその場では計算の仕方をマスターしたようでも、体感の裏付けがないから計算の仕方を忘れたり勘違いしたりしやすい。
私が指導する場合、濃度の体感が育ったかな、となってから、初めて濃度の計算を教える。その際、単に数字を追うのではなく、なるべく具体的に考えるように促す。
「20%の塩水には、塩が何g溶けてるん?」と尋ねる。%の感覚が育ってない子は、そこの地盤固めに移る。それが済んだら、また同じ問い。
すると、20%の塩水1Lには200gの塩が溶けてる、と答えてもらえる。「じゃあ、30%の塩水1Lには?」と尋ねると、300gと答えてもらえる。「ほんなら、200gの塩と300gの塩を合わせたら何g?」と訊くと、500gと答えてもらえる。「で、塩水1Lと塩水1Lを合わせたら何L?」と訊くと、2Lと答えてくれる。
「ほんなら、さっき計算した塩500gが水2Lに溶けたら、何%の塩水なん?」と訊くと、ちゃんと25%と答えてもらえる。濃度の計算では、塩の重さと水の体積を別々に計算して最後に濃度を割り出す、ということを覚えてもらう。しかしここで大変大切なのは。
「体感によるざっくり検算」ができること。20%と30%の塩水を足して50%の濃い塩水になるはずがない、という、体験からくる「体感」でざっくり否定できるセンスを育てておく必要がある。そうでないと、自分が何をどうやって計算しているのか、無自覚になる。計算が無味乾燥になる。
濃度の計算では、塩水に溶けていたはずの塩が再び水から出てきて、200gの塩の固まりになるような、時間を巻き戻ししたようなシーンを思い浮かべ、もう片方は300gの塩の山があり、合わせて500gの塩の固まりができる、という、具体的なイメージが大切。それが「検算」になる。
また、塩を溶かす前の水1Lと別の1Lを合わせて2Lになる具体的なイメージ、そしてその2Lの水に先ほどの500gの塩の山を溶かす、という具体的なイメージが湧くと、濃度の計算は途端に容易になるし、なにより計算方法を間違わない。
ところが、小学生の間に料理をしたことがなく、カルピスを薄めて飲んだこともなく、シャボン玉で遊ぶために石鹸水を水に溶かしたこともない子に、濃度の計算法を真の意味で理解させることは不可能。もし計算できるようになっても、体感の裏付けがないからすぐに忘れるし間違って覚える可能性大。
小学校の内容は、体験、体感の裏付けが非常に重要。机の前に張り付けの座学ばかりやらされていると、速度や濃度の問題で手こずる。その場では何となく計算できるようになったとしても、体感からくる裏つかないがないために、すぐ勘違いが起きて正しい計算方法を忘れてしまう。
小学生の間は、ピザやケーキを切ったり、走ったりゴーカートに乗ったり、料理をしたりなどの体験、体感がとても重要。そしてその際に極めて重要なのは、「お勉強のため」にそれらをやるのではなく、純粋に面白がりながら、それらを楽しむ事が大切。お勉強の下僕になってはいけない。
子どもは楽しいと、面白いと、観察眼がグンと向上する。興味が湧いて仕方ないから「何でだろう?」という疑問が次々に湧き、「こうだからなんじゃないか?」という仮説が湧いてくる。自分の思いついた仮説を検証したくて、いろいろ実験したくなる。それが理論的理解の重要な土台になる。
そうした楽しい体験の中で、子どもの観察眼は研ぎ澄まされる。しかし「お勉強のため」になると、興味関心がそこまで高まらないため、観察しない。楽しくないから見ようともしなくなる。これでは、体験していても体験として蓄積しない。体験が蓄積するには「楽しい!」がとても大切。
うちでは、脱線大いに歓迎。子どもは水に何かを溶かす実験でもすぐに「もっと入れたらどうなる?」とやりだす。すると、もうこれ以上溶けないという限界にくる。これも大変大切な体験で、「飽和」というのはこういう現象なのか、というのを知ることになる。これを体験せずに「飽和」は理解できない。
遊びながら子どもは学ぶ。遊びのすごいのは、思いついたらすぐ実験したくなること。思いつきのアイデアをどんどん試す。大人である私は、危険性がないことだけ注意して、好きなようにさせる。時折、「こうしたらどうなるん?」とか茶々入れて、新たな疑問を植えつけたり。
遊びの中で子どもは、分数の基礎となる体感、速度の基礎となる体感、濃度の基礎となる体感が育つ。遊ぶから、楽しいから観察眼が研ぎ澄まされ、見たもの体験したことを全て吸収し、自分のものにする。座学で表面的に貼り付いた知識は剥がれやすいが、体感は血肉となる。
私が思うに、小学校で習う内容全てを、体感も伴う形で理解し、マスターできているのは旧帝大クラスだけで、そうでない場合は何かしら欠落がある。小学校の間に習ったことのどれかで、体感の裏付けなしに中途半端な理解にとどまり、そのために中学生以降の学習の積み上げに失敗している。
これは逆に言えば、体感を伴うように小学校の内容からきちんとやり直せば、だれでも旧帝大生と同等の学習レベルに達する可能性を示しているとも言える。正直、旧帝大生とそうでない人との差は、実は「小中学校の学習内容のどこかに欠落がある」ことが原因だと私は考えている。
私が中学受験に結構批判的なのは、その中の一定割合で「座学」に偏り、体感の伴わない学習を強いられている子どもが少なくないからだ。体験をなるべくさせようとしても、「お勉強のため」という念頭があると、親が先回りして「ああしたら?こうしたら?」とやかましいので子どもは楽しめない。
楽しめないとイヤになり、観察しなくなる。観察しないから、体験したはずなのに何も残らない。小学生の間に大切なことは、遊ぶこと。遊ぶ中で学び、学びを遊ぶことで、必要なことを吸収していくこと。それには、何でも楽しむことを優先する必要がある。
もしテクニックを丸暗記することで中学受験を乗り越えても、あとが続かない子も多いと聞く。遊んでいないからだろう。遊ばないから体験が積み上がらす、学習の基礎、土台ができていないから、座学で学ぶ内容が砂上の楼閣のように崩れてしまう。遊びの欠乏は深刻。
どうせ、旧帝大の受験問題でも、小中高の教科書に書いてある内容からしか出てこない。限られた数の教科書の内容をしっかり身につければよいだけなのに、変なテクニックに走って回り道をしてる子どもが多い。そんな小手先覚えるより、体感に基づいた学習が大切。
私はもうこの主張を、ミクシィの時代からずっと続けている。当時と比べたら、遊ぶこと、体感の裏付けがあることの重要性はずいぶん認知はされるようになってきたと思う。でもまだ勘違いしてる人が少なくないらしい。子どもは「遊びをせんとや生まれけん」なのだと知ってほしい。