「食品ロスをゼロに」は危険
NHKやEテレを見ても、あるいは新聞記事でも、食品ロス(フードロス)ゼロを目指せ!とよく呼びかけられている。しかし食品ロスゼロは決して目指してはいけない。多すぎる食品ロスは減らした方がよいが、決してゼロにしてはいけないものだということを、今回お伝えしようと思う。
安全余裕という言葉がある。例えば原子力発電で、発電に必要なギリギリの強度にしてしまったら、とても怖いことだと思われないだろうか。少々の事故が起きても爆発したり異常を起こしたりしないように、意図的に原子炉は余分に頑丈に作られている。その余分を安全余裕と呼んでいる。
これは車のエンジンも同じ。最大出力ギリギリの強度に設定してしまうと、車は壊れてしまいかねない。だから最大出力で走ったとしても壊れはしない頑丈さでエンジンを設計する必要がある。全ての製品はそうした安全余裕を確保した形で作られている。
食料供給もこれと同じで、安全余裕が必要。もし安全余裕である食品ロスがゼロになってしまったら、凶作などで食料が足りない時、飢える人が発生してしまう。餓死者を出さないためには、いざという時でも全員が食べられるように余分を確保する必要がある。それが食品ロス。
そう。だから、食品ロスは「安全余裕」でもある。余りに余分な食品ロスは減らすべきだろうが、社会が少し混乱しても食べることができる余裕を確保しなければならない。もしその安全余裕をゼロにしたら、少しでも足りないとき、餓死者が出てしまいかねない。だから、ある程度の食品ロスは必要悪。
だからこそ、子ども食堂や貧しい人に食品ロスを食べさせて食品ロスをゼロにしよう、という発想には、二重にも三重にも問題がある。
もし仮に貧しい人々に食品ロスを渡してゼロを達成した場合を考えてみよう。不測の事態が起きて食料が不足した場合、全く食料が手に入らなくなるのはまずその人たち。
誰も飢えさせない。有事であっても全国民を食べさせる。それが国家の使命。そのためには、平時での食品ロスの発生は、むしろ安全余裕の確保として許容されねばならない。もちろん、どれだけの安全余裕を確保すればよいのか、という検証は必要だが、食品ロスをゼロにするのは極めて危険。
安易に「食品ロスをゼロに」などと掛け声をかけるのはやめて頂きたい。ましてや、食品ロスを貧しい人に食べてもらおうなどという発想をグッドアイデア気取りで語るのはやめて頂きたい。グッドアイデアどころか、「貧しいなら食品ロスでも文句言わんだろ」と人を蔑む心理がそこに嗅ぎ取れる。
平時に、食べたいものを(ある程度)選択できる自由のあることのありがたさ。その選択の自由を、すべての国民に。それによって生ずる食品ロスは、安全余裕を保障するものとして許容されるべきだろう。
食品ロスを単純に憎む発想は危険。そのことを、多くの人にご理解頂きたい。