能動感を最大化する産婆術

教育系の本や雑誌には「〜してあげる」というフレーズが多用されてるのをよく見かける。私はどうもこの表現が苦手。なんだか上から目線だし、子どもよりも自分の振る舞いにフォーカスしてるし、子どものために尽くしてる自分に酔ってる感じを受けて、どうも苦手。

意欲ってどういうときに高まるのだろう?自分が働きかけて何かが変化した、動いたとき、「ほかならぬ私が何事かを起こすことができた」という感覚が持てたときではないか、と考えている。私はそれを能動感と呼んでいる。自分が能動的になったときに変化したと実感できること。

自己効力感とか達成感という言葉も近いけど、前者は「自己」がついてるのがイマイチ。それに自分から働きかけての結果でなくても、自分のおかげだと勘違いするものも排除しきれない言葉のように感じる。後者は、何事かを「成し遂げなきゃいけない」という呪いに転じる恐れがある。

意欲というのは案外、ささやかなことから湧いてくる気がしている。ほんの少し、今までとは違うアプローチをしてみたら違う反応が現れた。そんなとき「お?」と思う。すると、「だとしたらこうしてみたらどうだろう?」と別のを試したくなる。こうしてやめられなくなることが結構ある。

能動的になったとき、何かしら変化が起きる。その変化に「お?」となってまた能動的に試したくなる。意欲はこうした「能動感」が得られるとき、コンコンと湧いてくるもののように思う。しかも能動感を得るには能動的に動く必要がある。そのため、自然に意欲が湧いてくる。

周囲の大人は、子どものこうした「能動感」を最大化するように意識をシフトさせるとよいように思う。私が「驚く」を推奨するのは、この能動感にアンプをかけるため。ほんの少しの変化にも「お?」と反応する人が一人いると、子どもも「なんだろう?」と注意深くなる。注意深くなれば。

変化に気づきやすくなる。変化に気づけば、能動的に働きかけるとどんどん変化が起きてくることに気がつき、興に乗る。ますます面白くなってのめり込む。大人の「お?」という驚きは、小さな変化にテコを入れ、それは実に興味深いものなのだよ、と子どもに気づいてもらうアシストなのだと思う。

子どもは「こんな程度のことに驚いちゃいけない」という「呪い」にかかっていることが多い。いや、大人も。「その程度のことで驚くと思っていたのかい?すでにそんなことは百も承知さ」と偉そうに振る舞うのが大人だと考えて。でもそれ、「ソフィスト」と同じではないだろうか。

ソクラテスが生きた時代に、プロタゴラスという天才がいた。知らないことは一つもない、何を聞いてもたちどころに答えてくれると評判だった。何を聞いても「それはねえ」と解説してくれる。こうして偉そうにすると、なるほど賢そうに見える。この人たちはソフィストと呼ばれた。

他方ソクラテスは、老人だからいろんなことを知っているだろうに、無知な若者から話を向けられても「ほう、それはどういうことだい?」と、若者から話を聞きたがった。若者が答えると、さらに掘り下げて聞きたがった。それを続けているうち、若者の脳みそはフル回転、知恵が泉のように湧いた。

若者はソクラテスと話していると自分の頭脳から知恵がコンコンと湧いてくる快感を覚えて、離れがたくなった。ソクラテスは若者からも知識を貪欲に吸収しようとした。若者はソクラテスの問いに刺激されて頭脳がフル回転。こうした知の刺激を愛する形をフィロソフィ(愛知)と呼んだ。

ソクラテスは若者の答えに「ほう!」と驚きの声を上げ、さらに興味を持って尋ねる。尋ねられた若者はさらに能動的に考えて答えをひねり出す。それにソクラテスがまたしても驚く。こうして、ソクラテスは「驚く」ことによって若者の頭脳を刺激し、能動性を引き出した。

私がオススメしている「驚く」は、子どもや若者の能動感を最大化させるためであり、そのコツを教えてくれたのはソクラテス。ソクラテスはこの手法を「産婆術」と呼んでいる。知恵が生まれるのを助ける方法、というわけだ。

いかに子どもや若者の能動感を最大化するか。そこに意識をフォーカスさせれば、自ずとどう振る舞えばよいかは見えてくる。自分の振る舞いを気にするより、子どもが能動感を感じられるようにするには?を常に観察し、そのための行動を考えればよいだけだと思う。

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