「伝える」より「伝わる」、「育てる」より「育つ」
言語化がうまい、わかりやすいと言ってもらえることが増えた。ただ、私自身、何か明確なコツみたいなのを言語化できてるわけではない。ただ、いつの間にか気をつけるようになってるのは「伝える」のではなく「伝わる」を意識しているかな、ということ。
どうやって伝えよう、と、自分を主語にしてしまうと、身勝手な表現が増える。情報が多すぎて分かりにくくなったり、論理がこんがらがってやはりわかりにくかったり、自分の気持ちをわかってもらおうとする押しつけがましさがにじみ出て読む気を失わせたりする。
私は文章を書くとき、「伝える」ではなく「伝わる」かどうかを考えながら進めている。自分の伝えたい気持ちが先走ると文章はわかりにくくなる。しかし「あ、これじゃわかりにくいな」と、読者の側に立って自分の文章を読むと、自然と自分の文章の問題点が見えてくる。
私は稀代の「物わかりの悪い」人間で、少しでも論理がこんがらがったり、飛躍したり、省略されたり、あるいは難しくなったりすると、すぐ「わからん!」ってなる。物わかりの悪い私でも理解できるように、と文章を修正すると、どうやらわかりやすい文章になるらしい。
しかし頭の良い人はえてして難しくわかりにくい文章になりがち。難解な言葉も理解でき、難しい論理も読み解いてしまえる人は、自分の文章のわかりにくさが評価できないらしい。自分には「伝わる」から、それでやっちまう。「わかりやすくして」と言っても、できなかったりする。
文章もある意味、「ユマニチュード」が必要な気がする。ユマニチュードは、介護や看護で、つい忙しさにかまけて患者の反応を待たずにやってしまうことがあり、それが患者の能動性を奪うことになりがち。ユマニチュードは、相手の反応を待ってから進むことに大きな特徴がある。
自分の話したいこと、伝えたいことに熱心で、相手の反応を忘れることは、相手を置いてけぼりにしてしまい、本来相手がある行為であるはずの「伝える」という目的が達成できなくなる皮肉。伝えるためには、伝えることの意識を後回しにして「伝わる」を重視する必要がある。
教育でも、「育てる」側を主語にした子育て本が多い。しかし「育てる」側を主語にして考えると、しばしば「助長」になる。苗の育ちを助けようとして上に引っ張り、根を切って枯らしてしまう。自分を主語にした「育てる」は、失敗のもとになりやすい。それよりは。
子供が主語になった「育つ」が大切。子どもが「育つ」には、周囲にいる私にできることは何か?と、子どもを中心軸として、あくまで自分を副次的な存在と捉えると、子どもが育つ育て方が見えてくる。苗が育つには肥料や光、水が十分確保できるようにするのと同じように。
しかし、「育つ」のは苗自身の力。「育つ」を代わりにしてやることはできない。自分を主語にした「育てる」は、「育つ」を軸にしたアシストに過ぎない、という意識を失うと、ややこしいことになる。
「伝える」ではなく「伝わる」。それが文章を書くときに気をつけるべきことなのかもしれない。
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