空虚のデザイン 人為(規制)と自然(自由)のバランスを取る

私がケインズ流の修正資本主義を好むのは、いわばサッカーみたいなところがあるから。「手を使っちゃいけない」という規制(ルール)はあるけれど、そこでどんなプレイをするかは自由。監督でさえ、プレイ中はほとんど口出しできない。脇で叫んでいるだけ。自由度の高い状態を私は好む。

では新自由主義でもいいじゃないか、こっちのほうが自由度が大きいぞ、という方もいらっしゃるかもしれない。しかし私には、新自由主義は「手も使っていいし、何なら隠し持った武器を使って相手を倒しても構わないサッカー」に見える。規制(ルール)がなさ過ぎて力の強い者勝ち。

そんなに自由を怖がるなら規制だらけの社会主義でいいじゃないか、という人がいるかもしれない。しかしそれでは「蹴るのは右足にしろとか、一挙手一投足を縛ろうとするサッカー」みたいで、選手に自由がなさすぎる。プレイはぎこちなくなり、ゲームはつまらないものになるだろう。

私は、規制と自由のいい塩梅、というのがあるように感じている。それには、私が老荘思想好きというのも関係しているだろう。
人間というのは、水に似た動きをするものだと考えている。たとえば水を叩いたり殴ったり蹴ったりして言うことを聞かせようとするのが社会主義だとすれば。

水は決して丸くなったり四角くなったり、言うことを聞こうとはしないだろう。社会主義が命じる形になるかにみせて、スルリとスキマから抜けてしまう。人の心を命令通りに動かせるという発想自体が間違っている。水に命令すれば水の形を好きに変形できると考えるようなもの。無理。

かといって、「すべてを自由に任せておけば万事うまくいく」という新自由主義の考え方も無茶。それはいわば、地面にこぼした水は、水のしたいように任せればお茶碗の中に戻ってくるから放置しておけばよい、というようなもの。戻ってくるはずがない。大地が水を吸ったままで終わり。

水を丸くしたり四角くしたりしたければ、「空虚」を用意すること。丸い器、四角い器を用意し、その中を空虚にしておくと、注がれた水は丸くなり、四角くなる。水自体が自発的に、ごく自然に、無理なく。これが老荘思想の考え方。

人の心を動かしたければ、「空虚」を用意するのが良いと思う。空虚があれば、器の中に水を注いで、それをどこへでも運べるようになる。水に「あっち行け!」と命じても動かない。水の好きなようにさせても水はあっちに行ってくれない。空虚を用意するから、自在に水を動かせるようになる。

空虚を用意するのは人為。けれど、空虚をどう埋めるかは水が自ら自発的に行う行為。自然な現象。
社会設計は、こうした人為と自然(収まるところに収まる現象)の組み合わせを考えると、無理なくスムーズに物事を進められるのだと考えている。

ケインズの修正資本主義も古いから、もうそろそろ新しい考え方にバージョンアップしたほうが良いとは思う。ただ、人為と自然の組み合わせ方が比較的うまい方だと思う。ケインズ流の事例でうまくいっているのは、ロバート・オウエンのように思う。

オウエンは、産業革命後の、弱肉強食の時代に生きながら、労働者になるべく高賃金を支払い、労働時間を短くし、安く生活品を提供するなどして労働者の生産意欲を高め、世界一高品質の糸を紡ぎ出し、大成功をおさめた人物。人の心が自然とそうなるように仕向けた名経営者。

フォードもそう。当時としては画期的な8時間労働、週休二日を実現したうえで、当時としては信じられないような高給を約束した。当時の工場経営者は軒並みフォードを批判し、「うまくいくはずがない」と言っていたが、フォードの作る車は高品質となり、大成功をおさめた。

人の心を水ととらえ、その水が自然と収まるべき形に収まるよう、空虚を用意する。それが経営者の考えるべきことであり、そのデザインが優れていれば、会社は成功する。そしてそれは国家も。

管仲は、商業を盛んにし、国を富ませることで斉の国を中華一の国家にまで成長させた。「衣食足りて礼節を知る」という言葉をまさに実現した人物。人の心を水ととらえ、その水が満々と斉の国をたたえるようにするにはどうしたらよいかをデザインした人物。

国家を豊かにしたければ、人々を幸せにしたいのなら、「空虚」をいかにうまくデザインするかがカギになる。人々は自分の好きなように自由に生きることで、その空虚を自然と満たすことになる。空虚が満たされることは、その国が発展していることを意味する。

命令主義の社会主義でもない。ほったらかしの新自由主義でもない。空虚をうまくデザインし、収まるべくして収まる。そうしたデザインを日本が今後とれるかどうか。それがカギとなるように思う。

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