哲学・思想を「不思議の国」から「この世」に引き戻す
私が学生の頃、「ソフィーの世界」という本がベストセラーになった。難しい言葉ばかりで語られてばかりの哲学を、分かりやすい言葉で紹介しているということで評判になった。私も読んでみて、確かに分かりやすかった。ただし一つ不満が残った。「で、私たちに何の関係があるの?」
「不思議の国のアリス」仕立てのストーリーになっているのは象徴的だなあ、と思った。この世ではないどこか別の世界の話。哲学はしょせん、私たち庶民の住む世界とは違う別世界の人たち(哲学者)だけが知的遊戯をしているだけのものなのかな、という印象だった。
「ガリバー旅行記」には、ラピュタ人というのが登場する。ラピュタ人はものすごく難しいことばかり考えている哲学者ばかりの国で、あまりに難しいことばかり考えているものだから目を開けるのを忘れて天空の城から落下して死ぬ人が多く、おつきの人に目を開けてもらう必要があるありさま。
哲学の話をしていると「役に立つとか哲学で考えちゃダメだよ」と言われることがある。哲学は実利などの世俗的なことに囚われてはならず、高尚なことを考えるものなのだ、という「呪い」がかかっている気がする。事実、哲学者も高踏派というか、分かりやすく説明するのは堕落と思っているフシ。
まあ、その姿勢も分からないではない。私は研究者だが、研究の世界でも「役に立つのかどうか」だけで研究テーマを決めてしまうとつまらないものになる。役に立つかどうかじゃなくて、新しければ研究してみた方がよい。それが結果的に画期的な研究になることが多いから。新しければそれでよい。
ただ、哲学の場合、「庶民にはわからない高等難解な言葉で語り合う我々は高尚」というマスタベーション感を若干感じなくはない。そこに新しさが本当にあるのか?むしろ屋上屋を架すだけになっていないか、疑問が湧く。これは研究でもしばしば起きる。
最先端、と呼ばれる分野に猫も杓子も群がる、という現象。でも、私からすれば最先端は「枝葉末節」であることが多い。新しい分野を創造するような画期的な研究は最先端ではない。木にもなっていないタネだったり、芽だったりする。それが後日大木になり、大分野を切り開いたりする。
ならば、哲学を志す人も「不思議の国」に閉じこもっていてはいけないのでは?と思う。不思議の国に逃避するようでは、ラピュタ人のそしりを免れないだろう。哲学もしょせん、人間が考えることであるならば、人間界のことを頭に入れながら考えてもよいのでは?という気がする。
さて、私が哲学に関していちばん参考にしたのは、実は「ソフィーの世界」ではない。「社会思想史概論」(著者・高島善哉, 水田洋, 平田清明)という本。ちょいと発刊時の時代背景もあって、マルクス主義に文章割き過ぎやろ、という欠点はあるけれど、この本で私は目を開かされた。
哲学って、「不思議の国」だけの話やないんや!この世の話やったんや!いやいや、それどころか、その時代の常識をひっくり返し、新しい常識にアップデートしてきたのが哲学やったんか!そのことに衝撃を受けた。哲学はこの世と没交渉だったのではない。むしろ根底のところでしっかり関与していた。
これも研究に似ているかも。ノーベル賞を受賞した大隅良典氏は、酵母で自分のたんぱく質を分解する現象を研究していた。人間の細胞でも何でもない、最初はただ誰も研究していなかった新しい分野だった、というだけだったかもしれない。しかしこれがあらゆる生命で共通の現象だと分かって、大発展。
哲学は本来、この世界を理解する常識を根底から問い直し、新常識を世に問う作業なのでは?という気がする。その意味では、哲学は「不思議の国」の遊戯ではなく、まさにこの世の根底へと深く深く潜っていく作業なのではないか、と思う。そのことに、「社会思想史概論」は気づかせてくれた。
「ソフィーの世界」は、哲学者各人の思想を分かりやすく説明してくれてはいたが、それら哲学者が、「この世」にどんな影響を与えたのかについてはろくに説明してくれていない面がある。まあ、「不思議の国」仕立てなのだからやむを得ない面がある。その点、「社会思想史概論」に分がある。
ただし、「社会思想史概論」には大きな欠点がある。難しい!言葉がムチャクチャ難しい!この本は睡眠導入剤として大変優れていた。30分も読んでいると眠くなる。読み通すのにずいぶん苦労したのを記憶している。知的興奮はそれなりにあったのだけど、言葉が難しいのはやはり難儀だった。
そして、「社会思想史概論」の新しいバージョンは、どうもその後、ろくに出ていないらしい。「社会思想史十講」というのが、「概論」のダイジェスト版みたいな内容で出ているけれども、それも難解と言えば難解。私の知る限り、類書はそこで発行がストップしている感じ。誰か知っていたら教えて。
これに対し、科学思想史を振り返るものとしては「科学はこうして発展した」(著:菅野礼司)が比較的新しく出ている(といっても2002年)。医学の歴史だと、マンガだけど優れたものとして「まんが医学の歴史」(著:茨木 保)がある。これも科学史として読めて、分かりやすい。
しかし、哲学・思想が社会の常識をいかに覆し、新常識を打ち立ててきたのか、という思想史を、分かりやすくコンパクトに説明してくれる本がどうも見当たらない。これではますます若い人を哲学から遠ざけてしまうのではないか。あるいはマスタベーション的哲学ばかりになるのではないか。
で、分不相応とは思ったが、私なりに社会思想史を分かりやすくまとめてみよう、と考えた。大学生くらいなら十分読みこなせる分かりやすいもので、読めば面白いと思ってもらえるようなもの。思わず「哲学とか思想とか、もうちょっと勉強しようかな」と興味が湧くような、ガイドになる本。
通常、哲学者を紹介する場合は、「この人はこういう紹介の仕方をするのが常識」というお約束がある。ソクラテスなら「無知の知」、プラトンならイデア論、デカルトなら「我思う故に我あり」。全部無視した。お約束を守るのにこだわると、世界史の流れをつかむリズムが悪くなる。
哲学を一切知らない人でも、思想書なんか一冊も読んだことがない人でも、「あ、この話なら自分も知っている!」と感じてもらえるストーリー展開を心がけた。
少し話が飛ぶようだけれど、息子が星座に興味を持ったのはヒーロー番組のキューレンジャー。「あ!しし座レッド!」大好きなキャラクター。
それでいいのだと思う。私が宇宙に興味を持ったのは、ウルトラマンの故郷がM78星雲だと聞いて、「星雲ってなんだ?」という疑問から始まった。「星の一生」という本で星雲の話を見つけ、マゼラン星雲の渦巻きの美しさを知り、そこから自分たちの住む銀河系に思いをはせるようになった。
近年、刀剣の博覧会に若い女性客が訪れるようになった、というニュースがあった。きっかけはゲーム。昔の名剣がイケメンキャラクターとなって現れ、そのゲームにハマった女性が名剣に興味を持つようになり、やがて「刀剣女子」と呼ばれる名剣マニアになったのだという。
人間が興味を示すきっかけって、自分の心の内側に共鳴する何かがないといけないように思う。「あ、それ知ってる!」というものがあると、私たちは急に興味が湧く。関心が出る。もっと詳しく知りたい!となる。ならば、哲学・思想を学ぶ入り口にも、多くの人の心に共鳴する何かが必要。
哲学・思想をやっている人ってこれまで、高みに立って、理解できない庶民を見下す気風がなかったとはいえない気がする。わざと庶民には理解できない難しい言葉を披露して、「こんなことも分からないのか」と鼻で笑うのを一種の儀式にしている面を感じる。でもこのやり方だと。
最初から、庶民の心に共鳴させることを考えていないわけだから、響くはずがない。興味が湧くはずがない。哲学が「不思議の国」に閉じこもり、ラピュタ人を増やすことになった責任は、これまでの哲学者に多分にあるように思う。
釈迦に説法だろうが、哲学とは英語でフィロソフィーという。これを訳すと「知を愛す」。愛智、と呼んでいいだろう(まるで愛知県みたいだけど)。知を愛すならば、人に言葉を届けるには、その人の心に共鳴するような言葉を選ぶのが吉、という『知』も愛すべきだろう。
さて、歴史に名を残した哲学者は、決して「不思議の国」の住人でも、ラピュタ人でもない。世界を変革してしまった人たち、といえよう。歴史上、英雄豪傑という人たちはたくさんいる。アレクサンダー大王やナポレオン、チンギスハン、などなど。これらの人は世界史に大きな影響を与えてきた。しかし。
私たちの思考を根底から創り変えてしまうという点では、哲学・思想の影響力というのは、すさまじいものがある。歴史の教科書に載る偉人・英雄以上に、哲学・思想は、社会のありようを根底から覆す力があるという点で、偉人・英雄以上のものがあると言ってよい。
たとえばロバート・オウエンという人物がいる。オウエンが生きていた時代は、産業革命による工業化の真っただ中。この時代、資本家だけが大儲けし、労働者は安くこき使われるのが当然だった。労働者を優遇することはつけあがらせ、怠けさせるだけだからやめるべきだ、というのが常識だった。
ところがオウエンは工場長として、それまでの経営の常識とは全く逆のアプローチをとった。長時間労働を改めて無理のない勤務時間に縮小し、給料をしっかり払い、良質な生活用品を安価に労働者に行き渡るようにした。当時の資本家たちはこの改革に大反対した。うまくいくはずがない、と。ところが。
オウエンの経営する工場は不良品率が大幅に下がり、技術が向上して、世界一細い糸をつむぐことに成功、商品価値を大幅に上げて、経営的にも大成功した。「労働条件を改善すれば労働者を甘やかすだけ、儲けが減るだけで何のメリットもない」という常識を覆す結果を出したわけだ。
もしオウエンが、常識を覆すこうした実例を示さなければ、果たしてその後、民主主義が実現できたかわからない。資本家と呼ばれるお金持ちが支配し、大多数の労働者は安くこき使われる、新たな形の貴族制度に置き換わっただけに終わったかもしれない。
残念ながらオウエンの力だけでは、世界は変わらなかった。しかしオウエンの思想はその後、フォードが自動車会社を経営するにあたって再現し、見事成功させた。そしてオウエン、フォードなどの実例をもとにしてケインズが経済理論に仕上げることで、民主主義と相性の良い経済システムを構築した。
哲学・思想とは、それまでの常識を放置すればやがて不具合が生じることを見抜き、新たなアプローチを探り、提案する行為だと言えるだろう。そしてそれが時代を経るにしたがって新常識となっていく。哲学・思想は、社会をアップデートする作業、といえるだろう。
ならば、哲学・思想を「不思議の国」にしか通じない話にしていてはいけない気がする。私たちはこの世に生きている。この世を少しでも生きやすく、楽しいものにするために、「今の常識のままではやがて行き詰まる」ことを見抜き、問題を解決する新たな常識を提案することが大切。
私が2月に発刊した本は、そのことを目指してみた。過去の哲学者・思想家が、当時の常識のままでは破綻することをいかに見抜き、どうやって新常識を提案したのか、その歴史を振り返ってみた。いま、私たちが常識としている考え方は、当時としては非常識だったことが分かってもらえると思う。
しかし、哲学者や思想家は、当時としては非常識と思える新しい考えを、どうやって生み出すことができたのだろうか?そのことを、各人の哲学者・思想家を追体験することで、現代に生きる私たちが、世界をアップデートするコツをつかめたら、と考えた。
いま、人類は歴史的な行き詰まりを見せている。世界人口は増え続け、やがて100億人を超えると言われている。それだけの人口を養えるのだろうか?しかも、そう遠くない将来、石油がエネルギーとして使用できなくなる恐れがある。埋蔵量はまだあるのだが、掘るためのエネルギーの方が多くなる。
掘るためのエネルギーより少ない石油しか採れなくなったら、もはや石油はエネルギーとしての魅力を失ってしまう。しかし、飛行機や船、自動車の多くの動力が石油でないと動かせない。電気では十分なパワーが出せない。そしてそれだけの電気を、石油以外のエネルギーで賄う算段がまだ付いていない。
しかも、食料を作る農業が、石油漬けになっている。トラクターを動かすのも、化学肥料を製造するのも、石油などの化石燃料に頼らざるを得ない。もし石油がエネルギーとして使用できなくなった時、現在のわずかな農業人口で食料を十分作れるのか、大いに疑問。
しかも、地球温暖化が懸念されており、空気中に二酸化炭素を吐き出すような生活を続けられなくなってきた。私たち一人一人が、生き方を見直さなければならなくなっている。しかし私たちの行動原理は、これまでの「常識」の上に成り立っていて、簡単には行動を変えられなくなっている。
まさに今、私たちは、新しい時代に適した「新常識」が必要になっている。次の時代を創り出す哲学・思想とは、まさにこの「新常識」を提案するものとなるだろう。そしてこの新常識を生み出すのは、別に職業人としての哲学者や思想研究家でなくても構わない。私たち庶民でも構わない。
そもそもソクラテスだって、もともとは石大工ではないか。しかしソクラテスはまさに哲学を創始したと言える人物。根底から世界史を変えてしまった人物。正直、歴史の教科書でも、ソクラテスがいかにとんでもないことをやった人物なのか、紹介しきれていないように思うが、とてつもない人。
しかし、ソクラテスもまた、アテネの一市民でしかなかった。ならば、次の時代を根底から創り直す新常識を生み出すのは、庶民である私たちから出ても構わないではないか。そしてその確率を上げるためにも、多くの人がこの作業に参画してもらった方がよい。
そのために、私としては、これまでになくわかりやすい言葉で、社会思想史を紹介する本を書いてみたつもり。一冊の哲学書も思想書も読んだことがない人でも読み通せ、しかも読後には「哲学とか思想とか、ちょっと読んでみようかな」と思えるように、と思って書いてみた。
本書の「おわりに」に書いておいたけれど、私は「哲学・思想のびじゅチューン」を目指してみたつもり。びじゅチューンはEテレで放映されているアニメで、様々な芸術作品をおちょくっているかのような動画をたくさん紹介している。例えばこれ。
https://youtube.com/watch?v=RSAN-L9JljM
びじゅチューンが登場する前、芸術を紹介する番組と言えば、芸術作品がいかに高尚なものか、深遠な哲学思想に基づいているか、という感じで説明するものが多かった。そのために面白くもなんともない、「不思議の国」の話になっていた。しかしびじゅチューンが芸術を「この世」に引き戻した。
美術館にはいまや、子どもたちがたくさん訪れるようになったという。「あ!なんにでも牛乳をかける女!」
https://youtube.com/watch?v=pia0iJLqzmA
「あ!ごめユニコーン!」https://youtube.com/watch?v=0x_dGY-DdtQ
名画を見て子どもたちは、自分の心の琴線に共鳴し、興味を持つようになった。
入り口で興味さえ持ってしまえば、あとはディープに興味が湧いてくる確率が高まる。私たちはそのことに気づき始めている。「うんこドリル」もその一つだろう。子どもは妙にうんこが大好き。かつてのDr.スランプのアラレちゃんのように(古!)。そこを入り口にして、漢字や算数のドリルが大流行。
入口が面白ければ、やがて人はハマるようになる。最初が肝腎。それを、哲学・思想でできたらなあ、と考えた。果たしてそれに成功しているかどうかは分からないが、どうやらそう評判は悪くない様子。哲学・思想をすでに深く学んだ人には物足りないかもしれないが、入り口として活用してもらえたら。
そして何より、過去の哲学・思想を知るところにとどまらず、新たな時代を切り開くためのコツをつかむためと考えて、読んでいただけたらと思う。哲学者や思想家は、当時の人たちが疑いもしなかった常識を覆してきた人たち。なぜそれができたのか?を考えてみて頂きたい。
そしてぜひ、新しい時代のための新常識を生み出してほしい。それは何も哲学書や思想本を書いてほしい、ということではない。ツイッターのつぶやき一つでも構わないと思う。それが思考するきっかけを与え、新常識を生み出す契機になるかもしれないのだから。
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