子どもが能動的になる空虚のデザイン

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)、恐らく第16弾。
中学3年生になって塾に来たその子は、言葉をほとんど話せなかった。ニコニコ笑ってるだけでほとんど話せない。自分の名前は書けるがテストの問題を理解できず、漢字はほとんど書けず、ほぼ0点だった。高校進学は絶望的。

部活はサッカーで、キーパーを務めているという。ということは、本来頭は悪くない。しかし会話もできないほど言葉が発達してないのはどうしたわけだろう?お母さんに来てもらって、赤ちゃんの頃からの様子を聞いてみた。すると。

その子が生まれた時から母子家庭。おばあちゃんと同居していたけど、働きに出なければ生活できない。テレビの前に赤ちゃんをおいておくとじっと見つめて大人しくしてくれるものだから、ついテレビに子守をさせていたという。幼稚園に入ってもほとんど言葉が話せず、言語の遅れを指摘されていたという。

心理学の教科書に載ってるような、典型的な事例だった。言語は大人との双方向のコミュニケーションがないと発達しない。テレビは言葉をいっぱい話してるようで、一方通行。これでは言葉が発達しない。ついついテレビさえ見せておけば大人しいものだから、テレビに子守させて言語が遅れた典型例。

しかし中3にもなってカナしか書けないのでは高校受験は絶望的。けれどニコニコ笑って、誰からも愛されるキャラだからか、副教科の成績が意外によい(と言っても、十段階で三とかだけど)。こうなったら破れかぶれだ、と、ともかく教科書を繰り返し読ませ、受験の前の日に。

「名前だけは書き忘れるな、そして空欄を残すな。必ず何か書け。アーでもウーでも構わない。知ってる言葉を書け。ひらがなでもオーケー。やる気をなんとか買ってもらおう」と言って送り出した。
すると奇跡的に合格。やる気のあるところを買ってもらえたのかも。とても点数取れたとは思えないし。

しかし言語がここまで未発達だと、二年生に進級することも絶望的。そこで塾を卒業する日、お母さんにも来てもらい、高校生活を次のように過ごすよう、話して聞かせた。「君は言語が遅れている。これから言葉を取り戻すため、高校では友達に喋らせるな。アーでもウーでもいいから自分が話せ」

「そしてその日あったことを、お母さんに話せ。お母さん、お仕事でお疲れだとは思いますが、この子の話を毎日聞いてやってください。言葉を取り戻すためにどうしても必要なことですから」
その後、違う町に住んでいたこともあって、パッタリと連絡が途絶えた。やってけてるかなあ、と心配していた。

高校3年生になったある日、フラリと塾を訪問してくれた。そして中学卒業してから起きたことを説明してくれた。部活はサッカーを続け、レギュラーでいたこと、二年生のときには生徒会長を務めたこと、学年トップクラスの成績となり、先生からは大学への進学を勧められていること。理路整然と。

これがあの「ハイ」しか言えなかった子か?言葉をほとんど話せず、他人の言葉もほとんど理解できなかった子か?漢字もろくに書けなかったあの子が?もはや別人としか思えないほど立派に成長した青年を前にして、心底驚いた。

恐らく、高校に入学してから、愚直に言われた通りにしたのだろう。自分から積極的に話しに行き、その日あったことをお母さんに説明して聞かせたのだろう。それによって、急速に言葉を取り戻したのだろう。

その子の周りには、それまで、その子の能動性を求める大人がいなかった。大人しく受動的であることを求める大人しかいなかった。大半の時間をテレビと過ごし、自分から働きかけるということなしに過ごしたために、言葉が発達しなかったのだろう。その子から能動性を奪う関係性しかなかった。

しかし、塾を離れる際にかけた言葉で、その子は言葉を取り戻すため、自分から話しかける決意をし、それを愚直に実行したのだろう。そしてお母さんも、仕事から戻ったら子どもの話を聞くことで、その子の能動性を受けとめる姿勢を続けたのだろう。関係性が能動性を引き出し、言葉を鍛えたのだろう。

人間は恐らく、能動的でないと学習が進まない。受動的では頭に残らない。面白い漫才を聞いてゲラゲラ笑った後、どんな漫才だった?と聞かれても、ろくに説明できず、「面白かったとしか覚えていない」ことが多いように。受け身ではほとんど何も残らない。

子どもの学びが成立するには、子ども自身の能動性が発揮されることが大切。だとすれば、子どもを受け身にしがちな「教える」「与える」という、周囲が能動的な関係性ではなく、子どもが能動的で、周囲が話を聞き、驚くことで受動的な構えとなる関係性の方が、子どもの学びを促すのだろう。

私達はついつい、「もっと勉強しろ!」と、自分が能動的に働きかけることで子どもを動かそうとしてしまう。しかしそれでは子どもは受け身になってしまい、子どもは学びが成立しなくなってしまう。
水に「丸くなれ!四角くなれ!」と命令し、殴りつけても水は飛び散るだけだろう。

けれど、丸い空虚、四角い空虚を備えた器に水を注げば、水は自ら丸くなり、四角くなるだろう。水が能動的に動く。
水と同じように、親は、大人は、子どもの能動性を受けとめる「空虚」を用意することが大切なのだろう。与えることではなく、受けとめること。子どもの能動性を受けとめ、それに驚くこと。

大人の自分が能動的になるのではなく、子どもが能動的になれるよう、自分が受動的になること。そんなふうに関係性を変えると、子どもは大きく変容する可能性がある。

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