京大が「変であることが平気」な大学であり続けるには
昨年、生まれて初めて京都大学の熊野寮に入り、講演した。学生時代に門の前まで行ったことはあるが引き返した。「学生運動の巣窟」というイメージがあり、避けていたのが正直なところ。そんなところになぜ今になって行ったのかというと、熊野寮でまかないをしてる女性から「ぜひ」と頼まれたから。
もし学生から頼まれていたら、私にまだ偏見があったので、断っていたかもしれない。生協の職員として熊野寮で食事を提供してるというお立場の方からの依頼ならまあ、面白そうだと思って引き受けた。また、現役の京大生で哲学を学んでいる大角さんという方のご協力を得たのも大きかった。
で、行ってみると。「自治すげえ!」熊野寮は、学生だけでルールが決められ、当番で郵便物の整理をするなど、寮を維持するうえで必要な業務を全て学生だけで運営している。そして実に多様な学生が、それぞれ尊重しながら共に生活していることに驚いた。
学生の中には事情を抱えた事例もあるという。親がいわゆる毒親で、距離を置いたら送金を完全に止められ、学費も生活費も全て自弁しなければならないなど。熊野寮なら一ヶ月数千円(光熱費込み)で暮らせるので、何とかアルバイトで生活を回しながら卒業することができる。
熊野寮は、事実上、定員という物を設けていないという。来るもの拒まず、去るもの追わず。もし希望者が多いなら、壁をぶち抜いて一部屋に何人か寝られるようにしてしまうという。そうしたことも、学生同士で議論を重ね、方針を決めるのだという。
今どき、こんな面倒くさいやりとりをしながら生きてる若者がいるのか!という衝撃。「自治」と口でいうのは簡単だが、日本は事実上、何もかも外注(アウトソーシング)。PTAから自治会から、「金を払うから誰かやってくれ」。でも、カネがなくなったらどうするつもりだろう?
自治というものを体感している若者を育成しているという点で、熊野寮は貴重な存在だと思う。濃い人間関係を嫌がらずに、いろんな性格、いろんな事情を抱えた人間同士が、話し合い、それぞれに事情を思いやりながら決めていく経験を重ねてる若者を輩出してる点で、本当に貴重。
私は学生に聞いてみた。その学生は中核派などの運動家ではないという。「熊野寮は学生運動の巣窟というイメージでだいぶ損をしている。彼らを前面に出さず、自治を重んじてる君たちが前面に出てイメージを変えた方がよいのでは?」すると学生はしばらく考えてから、次のように答えた。
「私たちは来るもの拒まず、という伝統を守ってきた。もし政治信条などで入寮を選別し始めたら、全てが壊れてしまう」。私は、相当の覚悟で自治というのを大切にしていることに驚いた。徹底して話し合いで寮を運営しているという方針を貫いていた。大したもの。
ところで、今の京都大学の運営側は、熊野寮を目の敵にしがちであるらしい。しかし、熊野寮の「自治」の力という価値を、少々軽く見ているのではないか、という気がする。
聞くところによると、今の学長は「学生風情が」とどうも見下しがちなのか、学生の話を聞こうとしないらしい。
で、一部の学生らが「学長室突入」とやらをやろうとしたらしい。で、その剣幕に大学職員が怖がって、その後学生の何人かが停学になった上、2年前のその突入を理由に警察に逮捕されたという。
さて、ここで私は、どちらの肩も持つ気はない。まずそれぞれの課題を考えてみる。
まず、学長室突入というやり口が、私が学生のときの三十年以上前とまるで違わないのが残念。学生側に工夫がない。私だったらツイッターなり何なりで、多くの人の共感を呼ぶことで運営側の翻意を促す。いろんなやり方があると思うのだけど、どうもやり方が古典的。
で、大学職員が怖かったというのもまあ事実だろう。そこは大学の運営にも同情する。
しかし他方、運営側も「了見狭いなあ」と思わないでもない。今の学長は「なんか文句あったら学生課に」というだけで、それでいて学生課に訴えても何の反応もないという。早い話、学生の話を聞く気がないのかな。
もしそうだとしたら、学生らが「自治」の意識を持っていることの価値を見誤っているように思う。今の若者は指示待ち人間ばかり、自分の頭て考えることができない、と言われている。しかし「自治」を大切にし、自分たちの意見を持ち、それを実現しようとする若者がいること、実に頼もしいではないか。
しかし今の学長は、どうも「学生風情が」と、小馬鹿にしているのではないか、という疑いがある。しかしそれは学長としていかがなものだろうか。人を育てる気がない、京大生を指示待ち人間に育てたいと考えていると捉えられても仕方ないのでは。
大学というのは、ルネサンスの頃から学生が運営に強く関与してきた歴史がある。講義をまともにしようとしない大学教授をボイコットした話もある。大学は、学ぼうとする若者たちの滋養熱で支えられてきた歴史を持つ。そして、そうした自立した人間を育てるのが大学という場でもある。
しかし、今の京大の運営は、トップダウンで「上のいうことを聞かないやつは切る」という、木で鼻をくくったような運営が目立つという。もし京大が、今後は従順で人の上に立つ資格もない人間を輩出したいのならそれでもよいかもしれない。しかし。
自分の頭で考え、行動できる人間を育てたいなら、「学生風情が」みたいな運営はよろしくない。
昔、プロ野球の球団数を減らそうか、という話になったとき、プロ野球選手たちが球団運営側に意見を述べたことがある。その時、プロ野球のドンだった読売新聞社主、渡辺恒雄が「選手風情が」と発言。
これを境に、巨人軍は常勝軍団ではなくなった。それまでは、「巨人あっての読売、読売あっての巨人」という持ちつ持たれつの関係があり、高校球児は巨人に入ることを夢見、もし巨人入団でないと分かれば顔を青ざめさせるような時代が続いた。巨人は野球界の東大だった。そして常勝軍団だった。
ところが、渡辺恒雄の「選手風情が」と、プロ野球選手を見下す発言で、全てが崩れた。高校球児は巨人を必ずしも希望しなくなり、巨人は常勝軍団ではなくなった。渡辺氏の、選手を見下す発言が、巨人の価値を一気に下げたのだと私は考えている。
そうした事例を考えると、今の京大学長の、学生の意見を聞こうとしない姿勢というのはいろいろまずいと思う。学生の意見を聞くどころかはねつけ、あまつさえ警察に売り渡して逮捕させるというのも、どうも京大をダメにしたいのかな?と私は心配になる。
京大の価値は学長の権力の強さにあるのではない。学生の生きのよさにある。学生が生き生きとしているから高校生は京大に行きたがり、優れた学生が大学で生き生きするから、魅力的な大学でいられる力となるのではないか。
私が学生の頃、「折田先生七変化」というのがあった。教養部に折田先生の銅像があり、月替わりでいろんな仮装をさせられていた。ある時は日清焼そばヤキソバンに、ある時はモアイ像に。一夜にして変身してるのに驚いた。
https://sites.google.com/site/freedomorita/sono2
まあ、銅像を管理してる人達からしたらたまらんかったろう。ペンキをはがさなきゃだし、銅像にもなってるえらい人をバカにしてると怒っていたかもしれないし。でも他方、愛されていたなあ、とも思う。
柳田国男「遠野物語」に、お地蔵さんの話が出てくる。子どもたちはお地蔵さんを持ち出し、
一緒に川遊びをしたり、坂を転がったり。で、大人が「なんてことする!」って怒ってやめさせたら、かえってたたりがあった、という話だったと記憶する。お地蔵さんは子どもたちと戯れるのが好きだったのだろう。
以前、京大近くの交差点、百萬遍の真ん中で京大生がコタツを広げていた、という話が話題になった。確か、京大で立て看板が禁じられたという話の前後だったと思う。
まあ、なにより危ないし、交通の迷惑になるし、何の役にも立たないパフォーマンスのように思える。しかし。
そんなアホなことをする学生のいる大学に行きたい、ってのが京大の大きな魅力になっているように思う。卒業式には、私の時でもスキューバダイビングの格好をしていた学生がいた。ほかにもいろんな仮装をしていた学生も。そうしたアホなことができる自由な空気が京大にはある。
それを窒息させてしまうと、京大自体が窒息し、魅力のない大学になってしまうだろう。
京都大学の圧倒的な魅力、それは「変であることが平気」なことだろう。もちろん、ごくふつうの学生も多い。自分が変人奇人になるのは勘弁、という学生も。そうした学生でも、変人奇人を否定しないのが京大の特徴。
変であること、独特であることが魅力の大学!素晴らしいではないか!私の同級生は、東大だろうが医学部だろうが好きなところに入学できる優秀な成績の学生が複数いたが、京大に来たかったから来たという。恐らく、そうした変な魅力にとりつかれてだろう。
京大のそうした魅力を維持するには、変であることを拒否しない、という伝統を守ることがとても大切だと思う。しかし今の学長は、どうも生意気な学生を潰すという強権的ニオイがあるらしい。でもこれ、実は少しわかる気がする。
第二次安倍政権、そして菅政権の間、「上にたてつくやつは許さねえ」政治が続いた。そんな中で山極氏が京大学長(総長やったね)となり、学術会議のトップになった。そんな時に菅元首相による任命拒否問題があった。菅氏の性格を考えると、京大そのものが目をつけられた可能性がある。
で、大学の生存戦略のため、管理を強化する運営に切り替えざるを得なかったのだろう。しかし、それは京大の特徴を窒息死させることにつながりかねない。
もう一度、京大は、アホであり変であることが許される大学であることに立ち戻るとよいように思う。そのためには、学生の意見に耳を傾け、
面白がることが大切なように思う。自ら考え、行動できる、学生たちが生き生きとした大学。そういう大学であることを、今後も切に願う。