「動画」と「既得権益」・・・ルワンダ大虐殺が日本でも起きるのか?

今回の兵庫県知事選で、いろんな人が既にいろんなことを言っているので、そこは言及しないでおく。私が特に気になったのは2点。「動画」と「既得権益」。この二つについて、私なりに気がついたことを言語化してみたい。

今回、みなさんご存じの通り、新知事に対して私は否定的な立場をとってきた。それに対して、多くの人たちから反論を受けた。そしてその反論の多く(多分ほとんどすべて)が、動画を重要な情報源として捉えていた、という点が、私の気になったところ。

正直、私は動画に情報源としての価値を認めていない。「意見」ではあると思う。しかし動画で紹介されている内容は「事実」ではない。ところが、動画を見て「私は事実を知った」という人が大変多かったことが、今回気になった。

私は、「事実」という言葉を使うのは、かなり慎重になっている。今の時代、動画は誰にでも作れる。だから、誰でも「意見」としての動画は作れるけど、それは「事実」に基づいているとは限らない。どこかからの伝聞でしかない可能性が結構高い。なのに動画を見て「事実を知った」と感じる人多々。

一つの動画を見ると、それと似た内容の動画が紹介される。そうしたものを見ていくと、ある一つの「意見」を補強する動画ばかり見ることになり、結果的に「意見」を「事実」であると誤認してしまう。そうした人が非常に多いと感じた。

一つの動画を見ると、それに類する動画ばかり見る羽目になり、いつしか一つのものの見方しかできなくなってしまう。こうして、似たような情報にしか触れられなくなってしまうのをエコーチェンバーというそうだけれど、多くの人がこのエコーチャンバーに入ってしまったものと思われる。

でも、本人はエコーチェンバーの中に入って、偏ったものの見方しかしていないとは思わない。検索して自分から調べに行った、と思っている。けれど、検索してもその人が見たそうな、あるいは似たような人が見た動画を紹介するから、結局、似た意見の動画しか閲覧できないことになる。

今回、この現象が全年齢的に起きたらしい。高齢者もスマホで動画を見ることが普通になり、子どもから言われて動画を見て、そこから連続して動画を色々見て、「事実はこうだったのだ!」と思い込む人が続出したようだ。それは「意見」であって「事実」とは言えないのだけれど。

ネットで転がっている情報なんて、しょせん「事実」とはいいがたい。それは情報でしかなく、なんなら「意見」でしかない。事実の確認というのは、実際に現場にいる人に取材でもしない限り、肉薄することは難しい(取材しても騙されることがあったりするし)。ましてや、伝聞集めただけでは。

恐らくなのだけれど、私たちはまだ、「動画」を真実と思い込んでしまう価値観を、テレビ時代から引きずっているのかもしれない。今の人たちは、テレビはウソばかり、動画の世界には真実がある、と言う人が増えたのだけれど、その価値観は案外、テレビから引きずっているもののように思う。

恐らくだけど、動画編集するというのはそれなりに面倒で、難しいと思っている人が大半だろう。だから、「そんな面倒くさいことまでして動画を配信しているのなら、その動画は真実を含んでいるはずだ」という価値観を、テレビ時代から引きずっているのではないか、という気がする。

ただ、テレビと違っているのは、テレビはスポンサーがついていて、一般の人は「既得権益」とつながっている、とみなしやすくなっている。他方、動画を作る人は個人であり、「既得権益」とは無縁とみなしやすい。だから動画の方が信頼できる、と考えてしまうのだろう。

でも、「動画を編集するのは大変」「個人は既得権益とつながっていない可能性が高い」の二つとも、私は疑わしいと考えている。動画は今の時代、簡単に編集することができる。スマホでも撮れるんだから。まあ、上手に編集するのはそれなりに大変だけど。

で、そんな面倒くさいことをするのは、やはり利益をどこかで考えているから、という面も多々あるだろう。若い人の夢がユーチューバーだったりする時代だし。だから、利害がない人間が動画を作っている、という前提も疑問。

だから、現在のマスメディアが信頼できないというのなら、動画だって大して信頼はできない、というのが、私の考え。しかもまあ、玉石混交の海の中から珠玉の逸品を見つけるのも大変そう。だから、私は動画を情報源とする姿勢自体、大いに問題があると考えている。

でも、老若男女を問わず、今回の選挙では動画が力を持った。これは間違いないことだと思う。そして、危険だと思う。ナチスと同じ手法が使えることを、証明してしまった格好だからだ。

ナチスが台頭した時、ラジオという新しいメディアが生まれた。ナチスはこの手法を積極的に活用したことで知られる。そして、大衆は、同じ言葉を繰り返し訴えれば、ウソもマコトのように信じるものだ、ということを、ナチス(ゲッペルス)は上手く活用した。

YouTubeの動画は、ラジオよりも優れた最新の技術のように見える。しかし活用法としては、ナチスと同じ手法が使える。動画作成のスピードがやたら速い人間が手を貸せば、それまで信じられていた常識をひっくり返し、逆のことを信じさせることも可能であることを、今回の選挙は示したように思う。

既にこの兆候は表れていた。新型コロナのワクチンに反対する人は、私は一定の根拠を持っているとは思っているのだけれど、でも極端に否定的な人が多すぎると考えている。で、その人たちは何を情報源としていたかというと、動画。YouTube動画。

研究者としては、「いやそこまでになると、もはや非科学的」となるような意見にまでなってしまう人が続出した。これは、動画の魔力だと思う。映像が巧みで、ここまで作り込んだ動画の訴える内容がウソだと思えない、という人間心理をうまくついた動画がわんさかある。

動画は今や、「事実」とは無関係の「信念」を生み出すことに成功するようになっている。そして、それが世論として大きなうねりを生みかねない状況となっている。ナチスが誕生したのと同じ状況が、今の世界ですでに出現している。ウソをマコトにできる状況が、すでに動画にはそろっている。

ナチスまでさかのぼらなくても、比較的最近の時代に起きた惨劇がある。ルワンダの大虐殺。人気のラジオ番組が、ツチ族とフツ族の対立をあおり、虐殺するようにほのめかしたところ、人々が恐怖に囚われ、虐殺が実行されてしまった。

今のYouTube動画は、ルワンダと同じことを日本でも起こす力を備えている。現実を歪曲し、多くの人々を信じ込ませる力が、動画にある。しかも、動画を見た人たちは「自分たちはよく調べた」と思い込む。調べたから、自分たちは「事実」を知っているのだ、と思い込んでしまう。

これは、デカルトが後の時代に残した「副作用」とよく似ている。デカルトは「真に正しい思想を構築したければ、まずすべてを疑え」と提案した。この提案に、デカルト以降の思想家は魅了された。「なるほど!迷信を打ち破るには、まずすべて疑うところから始めないとな!」と。しかし。

自分が素朴に信じていたものまですべて疑いの目を向ける、という作業は、非常につらい。つらい作業だけに、「これをやり遂げたからには、自分の再構築した思想は正しいに違いない(そうでなければイヤだ)」という心理が働きやすい。このため、デカルトの提案に乗って「疑う」をやった人物は、

自分の再構築した思想を信じて疑わない、頑固な人間になる。これと同じ現象が、動画を見た人たちに起きているように思う。長時間、たくさんの動画を見て調べた苦労を考えれば、「その結果得られた知識は正しいに違いない」と思い込みたくなる。動画には、デカルトと同じ副作用があるように思う。

「意見」を発信する動画は、たいがい10分以上あったりする。文章だと1,2分で読めてしまうような内容を、えらく長くかけて説明する。派手な映像や音声で気持ちを引き立てながら。でもそれらは「事実」と関係ない。関係ないのに、10分もかけて動画を見ると、信じたくなってしまう。

この、「動画を信じ込んでしまう」という問題、真剣に考えないと、そう遠からず、ナチスのようなことを企む人間が登場するだろう。何らかの対策を考えなければならないが、間に合うだろうか。すでに「これは使える」と考えている人間がいるだろう。私たちは、ナチス登場に対抗する用意ができていない。

もう一つ。今回の選挙で目に付いたのが「既得権益」。これ、小泉旋風と同じやん。小泉氏は「抵抗勢力をぶっ飛ばす!」「既得権益層を破壊する!」と訴えて、人気を博した。これと同じ状況が生まれている。敵対する勢力を既得権益層とレッテル貼り、もはや敵は間違っているの一点張り。

でも、私はこの「既得権益」という言葉が大嫌い。
たとえば、私はできるなら原発をやめたほうがいい、という考えを持っているけれど、原発自治体の住民や、電力会社を「既得権益」として攻撃するのが嫌い。その人たちもまじめに生きている。マジメに働いている。それの何が悪いのか?

原発を本当にやめるためには、原発のある自治体の住民が、どうやって生きていけるかを考えなければならない。もし他に生活する手段があるならば、住民も原発にこだわらずに済むだろう。電力会社も、原発以外のエネルギーがあるならこだわらずに済むだろう。原発をやめるには、その人たちの生活が重要。

なのに、「既得権益」と呼んだとたん、相手は敵と認定され、「既得権益を失って生活手段を失ったとしても、それはこれまで甘い汁を吸ってきた報い、餓死でもなんでも勝手にすればよい」と打ち捨てようとする。何と薄情な、なんと酷薄な。人間を人間とも思わない非情さよ。

私は、原発に関係して働いてきた人たちも、まじめに働いてきた人たちであり、その人たちの生活は今後も守られるべきだと考えている。それを前提として、原発をやめるにはどうしたらいいか、という順序で考えねばならないと考えている。なのに、「既得権益」はそれらの思考を省略してしまう。

ルワンダ大虐殺が起きた時も、相手の民族を「敵」認定していた。人間は恐ろしいことに、「敵」認定すると、相手がどんなに困り果てようと知ったことか、と、同じ人間として思考できなくなってしまう。死んでも構わない、という酷薄な思考になってしまう。つまり「人間」ではなくなってしまう。

私は、「既得権益」という言葉を使った途端、人間でなくなる道をすでに歩み始めてしまう、と考えている。相手を人間としてみなさない。なんと危険な道だろう。なんと酷薄な道だろう。相手も人間であり、生活があるということを、なぜ認めないのか?

「動画」と「既得権益」。今回、この二つが明らかに力を示したことで、日本でもルワンダ大虐殺や、ナチスによる大虐殺のようなことが起きる素地がすでに出来上がっていることを私は痛感している。非常に危険な兆候。人間が相手を人間と認めない社会、それは「鬼」や「修羅」の世界だ。

自分の信じるもの以外を見ようとせず、異なる考え方をすれば「既得権益」とみなす。これが老若男女を問わず起きたことを、私たちはもっと戦慄しなければならないように思う。

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