誤解で動く世界
哲学や思想をやってる人はマジメな人が多い。しかも特定の哲学者や思想家を研究してる場合はその人物に心酔してるから、何を伝えようとしたのかを真摯に追求しようとする。
確かにその作業も大切。たとえばアダム・スミスなんかは「見えざる手(神の手)」の一言だけで理解されてる面がある。
しかし、スミスが樹立した経済学は、マルクス経済学の基礎にもなっている。単に市場経済に任せときゃ、つまり「見えざる手」に任せときゃうまくいく、なんて思想家ではない。もっと多様で複雑な思想家。こうしたことってあるから、その哲学者や思想家が何を言おうとしたのか、忠実になるのは大切。
でも忠実たろうとするあまり、その哲学者や思想家が歴史にどんな影響を与えたのかという点での考察がゆるい印象がある。世間一般の受け取り方をバカにし、哲学者や思想家はそんな庶民的なとらえ方から超絶してるのだ、という考え方をしがち。まあ、心酔してるのはわかるけど。
私は「多くの人たちがどう受け止めたか」の方を軽んじてはならないと考える。たとえばダーウィンは、環境に対応した生き物が生き残る「適者生存」と言ったのだけど、なぜか、強い者が弱い者を食い物にする「弱肉強食」と言った、と理解された時代が長かった。それには時代背景も影響している。
当時は産業革命が進み、資本家はどんどん儲けて、労働者は低賃金にあえぐ社会だった。キリスト教の教えから考えれば、当時のお金持ちの行動は非難されるべき行動。そんな中、「弱肉強食」という考え方は便利。弱い者は強い者に食べられる宿命、我々金持ちが金持ちなのも自然現象、と。
金持ちが貧乏人を搾取することの言い訳になる理論を求めていた時にダーウィンの進化論と出会い、「弱い者は食われ、強い者が生き残る」という弱肉強食の理論として理解された。このため、自由主義、新自由主義を補強するリクツとして歓迎された面があるように思う。
比較的近年でも、竹中平蔵氏が「自然界は競争社会」とよく発言していた。自然界は実際には単純な競争社会ではない。競争というエネルギーを浪費する生き方をなるべく避け、棲み分けすることが多い。竹中氏の自然界の理解は浅薄と言える。なのになぜそんな誤った言説が流行ったのかというと。
弱者を食い物にすることを肯定したいという人たちが当時主流にあったからだろう。自分たちの行動を肯定できるリクツを言ってくれる人として、竹中氏をもてはやしていたという面がある。しかし自然界は、新たな環境に適応するために、競争を避け、独自の生き方を探るというケースが非常に多い。
そしてその「棲み分け」の結果、進化が進むという面がある。競争に叩き込むのはムダなエネルギー浪費になり、単に食いつぶしてるだけに終わりかねない。
「ダーウィンは「適者生存」と言ったのであって、「弱肉強食」とは言ってない」と、正確忠実を目指すのは、この点で有効。
ただ、世界は誤解で動いている事実もある。正確に読むには時間がかかり、誤解の力で世界が変わっていく面があることも、歴史の事実。世界が誤解する形で読みたがっている、という環境も含めて、哲学や思想をとらえる必要があるように思う。