サッカーから考える新自由主義と社会主義
(新自由主義者の人から、ケインズも社会民主主義も社会主義にしか見えないという意見に対し)
新自由主義の人からすると、サッカーで手を使わないこと、武器の使用を禁ずること、暴力を禁ずること、審判の判断に従うこと、ってのも自由を束縛する社会主義に当たるんでしょうね。新自由主義では、審判もいなければ暴力もオーケーとなり、サッカーではなくなってしまう。
私は、本来の自由は「ほどよい束縛」があった方が「楽しい」と考えています。サッカーが独自の足技を開発できたのは、「手を使ってはダメ」という独特の束縛があったからです。バレーボールも野球も足を使って構わない「自由」がありますが、足技が発達しませんでした。発達は束縛のおかげです。
では、あらゆる束縛は自由を奪うものであり、楽しくなくしてしまうものか、というと、そうではありません。サッカーの「手を使ってはダメ」という束縛を、むしろ面白がって、世界中の人たちがサッカーを楽しんでいます。束縛があるからこそ、サッカーは楽しいと言えます。
ではなぜ楽しいのか。「手を使ってはダメ」という束縛、ルールの中なら、無限の自由が広がっているからです。どんなふうにボールを蹴ろうが、足を動かそうが、ルールにのっとっているなら自由。だからサッカー選手は新しい技術を開発し、マスターするのに余念がありません。制限、束縛があるからこそ生まれる自由です。
バレーボールや野球でも足を使って構わないのに(ボールを使う)足技が発達しないのは、「手を使ってはダメ」という束縛がないためです。サッカーはその束縛をあえて受け入れることで、足技を開発するという新たなテーマを生み出し、そこに好奇心と創造力をかきたてさせています。
では、社会主義とは何かをサッカーにたとえて考えてみると、「選手の一挙手一投足を細かく指示し、それ以外の行動を許さないこと」に似ていると思います。監督の指示通りに動かないことを許さない。これでは、選手たちは監督の好きなように動かせるロボット、コマでしかありません。これは楽しくない。
でもサッカーは、休憩時間などに選手たちに指示を与えられるだけで、プレイ中は監督は何の指示も与えることができません。選手たちに委ねるしかない。サッカーは、ルールこそ「手を使っちゃダメ」という束縛がありますけれど、その中には無限の自由が広がっています。だから楽しい。
私は、ルールで拘束することはアリだと思います。ただしそのルールの内部では無限の自由が確保されていることが大切です。すると、人間は結構楽しめます。他方、指示命令を細かく出したり、滅ぶ前の秦のようにルールを過剰に細かく設定すると、それは息の詰まるものになり、楽しくなくなります。
私は、参加者が楽しく過ごせるようにするためのルールが必要だと考えています。ただしルールの中に自由が担保されていることが大事。ルールを失っても、ルールが過剰であってもダメ。「楽しくなる程度のルール」が大切です。
2000年代に入ってから日本ではびこる新自由主義は、「楽しく過ごせないほどルールが緩和された状態」だと考えています。サッカーで言えば、拳や武器で殴られ、傷ついた人たちと、「合法だから」と強引な方法で人を打ちのめし、勝ち誇っている少数の人がいる、という悲惨な状況です。
私は、細かいルールや細かすぎる指示命令で人々を窒息させる社会主義のような「楽しくない」状況も嫌いです。ですから、程よいルールを設定し、無法者を懲らしめることができ、参加者が楽しめる自由を担保することが重要だと考えています。新自由主義も社会主義も願い下げ。
答えは中間にあります。なのに「ルール無用デスマッチ」を主張する、これまでの新自由主義から見たら「ルールあるやんけ、だから社会主義だ」と主張するのは、サッカーも成立させないような無法者の主張に私には見えます。極論中の極論。中庸を目指すのがとても大切。