「いい人にならねば」という呪い
私たちは、「いい人」であろうとする。人から受け入れられようとするために。コミュニティにとって、有益な人間であることを示すために。しかし、それは疲れる。それに、「いい人」って何?人によって好みは様々、価値観も様々。どの人にとってどんな人が「いい人」なのかわからない。
私は「いい人」になる必要はないと考えている。その代わり、目の前の人について、「この人にこんな面があったんだ」とかの発見があった時、驚き、面白がる。ただそれだけでよいのだと思う。自分の存在を前向きに受け止め、しかもちょっとしたことでも軽く驚き、しかも前向きに受けとめてもらえたら。
人は心開くものだと思う。「へえ!」「ほう!」「おもしろいねえ」と、その人から何か発見が得られた時、そのつど驚き、面白がっていれば、この人は自分のことを何でも前向きな意味で驚き、面白がってくれると思うと、人は心開くように思う。
みんな、初対面は不安だ。自分のことを受け入れてもらえるかどうか、心配だから。だからこそ、「テニスをやっていまして」といったときに「へえ、テニス!」と、軽く驚く体で、明るく笑ってくれると、もっと話していいかな、という気になる。何を話しても驚き、面白がってくれるなら。
この人には何を話しても大丈夫だな、と心開く。
もう一つ必要なことがある。「訊く」こと。あえて「聞く」ではなく「訊く」としたのには理由がある。「聞く」はどちらかというとただ聞いているだけで、積極的ではなく、受動的に聞いているだけ、というニュアンスも含まれる。しかし「訊く」は。
「テニスは何年やってらっしゃるんですか?」と質問して、その上で聞く。問いと組み合わせの聞く姿勢が、「訊く」。この場合、問いを発することで相手に一つの裏メッセージが伝わる。「あなたのことをもっと知りたいです」。そして口にしてくれたことに驚き、喜べば、嬉しくなる。
自分に関心を持ってくれたばかりでなく、何を話しても軽く驚き、面白がってくれたり、喜んでくれたりするから、「この人は受け入れてくれる」と感じる。
訊く、驚く、面白がる。これを続けていれば、自然、人とは仲良くなれるもののように思う(相性があるから全員ではない)。
自分の話すことに一つ一つ興味を持ってくれる(驚きが、関心の強さと感じるため)し、すべてを面白がってくれると、受け入れてもらえた、と感じる。すると不思議なもので、「私を面白がってくれるこの人のことを、もっと知りたい」という心理に変わる。その結果、今度は自分の話を聞いてくれる。
すると、これまた不思議なもので、何を話してもたいがい面白がってくれ、受け入れてくれる。おそらく、自分をこんなにも受け入れてくれた人を逃したくない、ずっとそばにいてほしい、という気持ちがあるから、少々の違いは許せるようになってしまうのだろう。
訊く、驚く、面白がる、という3つのコンボは、相手に同調する必要もなく、相手の個性をそのまま受け入れるという裏メッセージを伝えることができ、しかも相手に自分の個性をそのまま受け入れてもらえる、ということが起きる。相手に合わせる必要がない。
いまどきの「コミュニケーション能力」は、妙にハイテンションを維持し、明るくふるまい、面白いことを言い、相手に同調する、という、しんどいことをしなければならない。相手に合わせるこのやりかたを続けて、本当の自分が分からなくなり、つらくなる人もいる。
しかし、「訊く、驚く、面白がる」は、いわば文化人類学の人間になったつもりで、相手を観察し、相手の特徴を発見するという仕事というか、ゲームをしているつもりでよい。だから楽しい。相手のことを次々に発掘できて。また、みーつけた!という気持ちで。
私は、人間観察が好きだ。だから、いろいろ訊く。そしてその人の新たな情報、発見があると嬉しくて驚き、面白がる。すると、とても良好な関係になる可能性が高いことを知った。「いい人」になるというのは、私には抽象的でよくわからないが、この方法なら私は具体的で分かりやすい。
「驚く」といっても過度にオーバーリアクションしなくていい。目を軽く瞠(みは)り、興味深い、という目をすればよいだけ。それだけで相手は、自分に関心を持ってもらえた、しかも前向きに受け入れる形で、ということを感じ取る。
コミュニティに参加するのに、有益な人間にならなければ、とか、コミュニティに貢献せねば、とか、さまざまな「呪い」に私たちは囚われている。でも、そんなこと考えなくてよいように思う。訊く、驚く、面白がるのコンボを続けていたら、たいがい、あなたと一緒にいたい、という感じになってくれる。
家族でもない第三者の人間に、果たして自分は受け入れてもらえるのか、不安な人は多い。だから、「訊く、驚く、面白がる」だけで、受け入れてもらえた、という喜びは大きい。そんな貴重な人を手放したくない、と思うもの。
実は、「訊く、驚く、面白がる」ことで、相手を受け入れるどころか、面白がる、ということこそが、人間にとって最大のプレゼントなのかもしれない。何のメリットもなくても、自分を受け入れてもらえた、という経験は、なかなかに貴重。だから手放したくなくなる。
何のメリットをもたらさなくても、この人は受け入れてくれた、という現象は、自分がこの世に生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ、という重要な証拠のように感じるものだと思う。みんな、それを得たくて生きているような気もする。
日本では無視、無関心が広がっている。これを逆転させてみよう。全員にやる必要はない。自分がこの人ならいいか、と思える人だけでも構わない。「訊く、驚く、面白がる」を始めてみてほしい。すると、この世はもう少し、生きていてもいいかも、と思えるようになると感じている。