能動性には「相手」と「待つ」が必要

私は基本的に、人間は能動的な生き物だと考えている。動くことを宿命としている動物だし。ただ、その能動性を発揮する際、「相手」がとても重要であるらしい。
ルーマニアに、子どもたちを狭い空間に押し込め、食事を与えられるだけで放置された「チャウシェスクの子どもたち」がいた。

その子達の多くが同じ動作を繰り返していた。繰り返し頭をぶつける子、ウーウーうなり続ける子。「常同運動」という症状を示していた。脳を調べるとすき間だらけで発達していなかった。現地の医師は「生まれつき問題のある子どもたちだった」と言っていたが、ヨーロッパ各地に養子として育てられると、

脳が発達し、頭蓋骨いっぱいに充実していた。「相手」がいないために刺激がなく、仕方なく自分で動きを作り出し、自分の存在を確かめずにいられなかったけど、その刺激は単調であったため、脳の発達が止まってしまっていたらしい。養子としてそだてられ、愛情を感じながら育てられたとたん、

脳は膨大な刺激、情報を受けとめ、それが脳の発達を促したらしい。どうやら人間の脳の発達は、「相手」の存在を前提にして組み立てられているものらしい。しかし「相手」がいないと脳は手持ち無沙汰になり、かろうじて同じ動作を繰り返すことによって自分の存在を確かめるしか方法がなくなるらしい。

私達は、自分がいまどんな表情をしているのか、どんなメッセージを発したのか、自分一人では確かめられない。「相手」が必要。相手がこちらの言葉を受けとめて、表情が明るくなるのか、あるいは曇るのか、怒るのか、それらの反応を見て自分の振る舞いを振り返る。相手なしに自分を確認できない。

相手がなくなるのは、認知症を患う高齢者もそうであるらしい。コミュニケーションがうまくかみ合わないと、健常者は次第に高齢者をまともに相手にしようとしなくなる。すると、認知症患者は自分の発したメッセージがいつも素通りになり、相手からの反応で自分を確かめられなくなる。

相手がいないから、自分を認識できないから、認知症がよけいに進行する、ということが起きるらしい。
ユマニチュードという技術を私は学んでいるのだけど、認知症が進んだ方は、「相手」のいない状態を非常に長く続けて、もう相手はいないものだと諦め、一人、心の中に閉じこもってしまう場合が少なくないらしい。このため、もはや見れども見えず。聞けども聞こえず。

ケアする人の働きかけはもちろんあるけど、それらはどうせこちらの訴えることなんか耳も傾けてくれないもの。「すぐ終わりますからねー」で済まされてしまう。もう何を言っても自分の「相手」をしてもらえないなら、諦めて心を閉じこもらせてしまおう、となるらしい。

奇妙なことに、認知症の進んた高齢者は「チャウシェスクの子どもたち」と同じように「常同運動」を繰り返す。同じ動作を繰り返したり、唸り続けたり。「相手」がいないから、自分で同じ動作を繰り返すことで、その反作用で自分の存在を確かめずにいられないらしい。「相手」がいないと自分を確かめようがなくなる。

ユマニチュードは認知症が進み、 「相手」を認識することが難しくなっている患者にでも「相手」として認識してもらえるよう、アプローチする技術だと言えるかもしれない。
ユマニチュードでは患者にいきなり近づいたりしない。ドアをノックし、相手の反応を窺う。反応がなくてももう一度ノックする。

患者に近づく際も、患者の視野の正面から近づくようにする。認知症患者の視野は、目にトイレットペーパーの芯を押しあてたような狭さになっていて、正面でないと認識できなくなっているケースがあるから。もし視野の外から突然出現すると、患者を驚かすことになってしまう。

また、それでも見えていないことがあるから、大きく手を振って気づいてもらいやすくし、かつ、声をかけながら近づいていく。視覚と聴覚という二つの感覚に呼びかけながら、驚かないように、なるべく早く気づいてもらえるようにしながら近づく。それでも無反応のことが少なくない。

何しろ、何年も「相手」にしてもらえなかったから。いくら訴えても「相手」が反応してくれなかったことで絶望してしまっているから。でも、ユマニチュード創始者のジネスト氏はそれでも諦めずに、患者の視野の真ん中へ、目をのぞき込むような距離まで近づく。優しく声をかけながら。

すると、少なからずの患者が、気づいた反応を示してくれる。すると、ジネスト氏は「認識してもらえた!」と嬉しそうな顔をする。その表情を見て、患者は「自分に反応してもらえた!」と感じるらしい。もちろん、目をのぞき込んでも反応してくれない患者も少なくない。でもジネスト氏は諦めない。

目をのぞき込み、優しく声をかけ、肩を優しく撫でるなど、2つ以上の感覚に訴えかけながら、「手を触っていいですか?」などと声をかける。でもその際も、上から握るのではなく、下から支えるように。上からつかめば、患者の自由を奪うという裏メッセージを伝え、驚かしかねない。でも下から支えるなら。

患者は、いつでもその手を振り払える自由が担保されている。こうした接触の仕方から、「この人は私の意志を常に確かめようとしてくれている」という裏メッセージを受け取る。ジネスト氏は、「手を挙げてもらえますか?」「こちらを向いてもらえますか?」と常に頼む。そして相手の反応を待つ。

こうして患者は、ジネスト氏から、「この『相手』は、私を『相手』として捉えてくれている、私の働きかけを待ってくれている」ということに気がつき、やがて能動性が生まれてくるようだ。それまで何を呼び掛けても反応しなかった患者が、声を発したり、協力的に手を挙げたり。

そうした様子は報道特集でも取り上げられ、動画も公開されている。
https://youtu.be/C7V03-Mhkdw?si=R1VlFG961zdEf9LW
こうした様子を見ていると、人間が能動性を発揮するには、「相手」が非常に重要だということに気がつく。「相手」も何もいない空(くう)に向かって能動的になることほどむなしいことはないのだから。

認知症患者は、周囲から「ボケたから」という形で相手にしてもらえなくなり、それもあってどんどん心の中に閉じこもってしまった人が少なくないらしい。認知症になっても残っている能力はたくさんあるのに、相手にしてもらえないために、次第に能動的、協力的になることを諦める。

どうやら人間は、自分を相手にしてくれる「相手」が必要な生き物らしい。赤ちゃんは言葉も話せない、まだ何の技術もないのに、母親や父親が心を込めて「相手」にしてくれる。赤ちゃんはそれにより能動的に親という「相手」に働きかけようとする。言葉や「立つ」という能動性を示そうとする。

どうやら能動性というのは、「相手」があることがとても大切であるらしい。ジネスト氏は、「手を挙げてもらえますか?」と呼び掛ける。呼びかけられた患者は、問いかけられたという受動的な立場に置かれたように見えるけれど、同時にジネスト氏は「待つ」。患者が能動的に動き出すのを。

すると、患者は「自分を待ってくれている、自分を「相手」としてジネスト氏は認識してくれている」と感じて、なんとか能動的にそれに応えようとする。すると、ジネスト氏は自分の呼びかけに好意的に能動的に患者が反応してくれた「奇跡」に驚き、喜びの声を上げる。それが嬉しくて、患者は

ますます能動的になる。ジネスト氏のアプローチは、
①相手に呼びかけ、働きかける。ただし相手が能動的に動く余地を残して。
②相手が動き出すまで待つ。
③相手が能動的に動き出したら、その能動性の発生に驚き、喜ぶ。
と整理できるかもしれない。すると、患者はますます能動的になるようだ。

能動的になるには、相手になってくれる「相手」が必要。このことは、会話で考えてみるとよくわかる。こちらの語りかけに対し、相手が常に無関係な話を一方的にし続ける場合、こちらは話す気を失ってしまうだろう。相手が、こちらを相手にする気がないのを察して。

あるいはダンスでもそうだろう。たとえ相手がダンスの名手であっても、「ここではこのステップを踏むものだ」と、こちらのヘタクソさにまったく合わせる気がないなら、とてもじゃないけれど一緒に踊ることはできないだろう。でももし、こちらの「相手」になってくれるのだとしたら。

相手がステップを踏み、こちらがステップを踏むのを待ってくれる。そしてステップを踏んでみたら、次のステップを踏み、また待ってくれる。こうした対応をしてくれれば、だんだんとどんなステップを踏めばよいのか要領がわかって、一緒にダンスを踊ることができるようになるだろう。

つまり、こちらが能動的になるには、「相手」が必要なだけでなく、相手側がこちらを「相手」として認め、「待つ」ことをしてくれないといけない。もし待ってくれないならば、こちらは無視された、相手にされていないと感じ、能動的な反応をやめてしまうだろう。

これは恋人同士のやり取りでも大切ではないか。いくら相手のことが好きだからといって、一方的にまくしたてるばかりで相手の反応を見ず、待たずの対応であれば、相手は「私を見ていない」と感じて、心が離れるだろう。「相手にする」とは、自分の反応を待ってくれることなのかもしれない。

ユマニチュードでは、患者に対して能動的に働きかける。しかしそれは、患者からの能動的な働きかけを促すためのもの。いわば、刺激。その刺激を与えたうえで、患者からの能動的な反応を待つ。もし反応がなくても、相手を驚かさない程度の働きかけを諦めずに続ける。そしてそのつど、待つ。

すると、いつか、患者から反応がある。能動的な反応が現れる。その「奇跡」が起きた時、こちらは驚き、喜ばずにいられない。するとその反応を見て「私を「相手」として認めてくれる人が現れた、私の「相手」が見つかった」と感じ、再び能動性が復活し始めるらしい。

どうやら、能動性が生まれるには、次のような条件が必要であるらしい。
1)自分を「相手」として認めてくれる「相手」がいること。
2)自分を相手として認め、働きかけてくれること。
3)その後、自分の反応、能動的な働きかけが現れることを「待つ」こと。
4)能動的になったとき、相手が驚き、喜ぶこと。

相手が存在し、相手からの働きかけがあるということは、常に自分が能動的であるわけではない。相手からの働きかけがある間は、自分は受動的になる。でも、相手が働きかけを終えた後、自分の反応を好意的に「待つ」姿勢でいてくれれば、こちらも能動的になろう、という気になる。

私は、子育てでも部下育成でも、相手の能動性を最大限にするアプローチを勧めてきた。一言で言えば「相手の能動性を最大化するためのアシスト」と言えるかも。アシストすれば相手はその瞬間は受動的になるのかもしれないが、そのアシストは、その後、相手が能動性を最大限に発揮するための「刺激」。

そして、「待つ」。すると、相手は「あ、待ってくれている」と気がつき、こちらのアプローチが適切であれば、能動的になることで応えようとしてくれる。その能動性の発生に驚き、喜べば、ますます相手は能動的になり、こちらを驚かそうと企んでくれるようになる。

互いに能動的になる関係性とは、相手の能動性が現れるのを「待つ」ことが重要な要件なのかもしれない。相手が能動的な存在であることを認め、相手が能動的に動き出すのを待つ。そして、相手もこちらの能動的な反応を待ってくれる。こうした「待つ」の関係性が、心地よいのかもしれない。

私たちは「教える」立場になったと考えた時、ついつい教える一方通行になり、相手の反応を「待つ」ことをサボるようになる。けれどこれは、相手の能動性を奪うアプローチ、関係性ではなかろうか。「待つ」ことをなくした関係性は、相手から能動性を強奪してしまう。

私たち人類は、人との関係性の中で生きてきた。その割には、その関係性をどうやって良好なものにしていけばよいのか、言語化が十分にできていない気がする。ユマニチュードは、技術化することでその言語化を相当程度進めることができているように思う。

いいなと思ったら応援しよう!