普遍的再現性と個別的再現性
体質によって効果が違う漢方なんか科学的ではない、という人がいたので、そのことについて考えてみたい。
漢方は、全部ではないのだけれど、腸内細菌による分解を経ることで初めて薬効成分に変わる「プロドラッグ」のものがあると分かり、体質によって効いたり効かなかったりすることは述べた。
ある人にはその性質が現れるけれど、別の人には現れない、という「科学」は、実際にはたくさんある。たとえば、白いご飯を食べると酔っぱらうという体質の人がまれにいる。腸内細菌の中にアルコール発酵する微生物がいて、ご飯を食べるとアルコールに変わってしまい、酔うのだという。
昔、その人の料理を食べるとチフスにかかってしまう、という人がいた。その人はチフス菌が腸内細菌の一種として共生していて、その人の料理を食べるとチフス菌が移って死んでしまったという。その人の腸内では毒素を出さないので、その人自身は平気、という極めてまれな事例。
このように、誰にでも見られる現象・症状ではないけれど、再現性よくそれが起きる、という個別的な事例というのがある。ご飯を食べれば再現性よく酔っぱらう、その人が料理を作ると食べる人がチフスで死んでしまう再現性が高い、などなど。非常に個別的だが、再現性が高い現象。
つまり、その人にはとても再現性よくそれが起きるけれど、みんなに起きるわけではない、という現象が世の中にはある。こうした「個別的再現性」も、私は立派に科学の対象だと考えている。そうでなければ、1万人に1人の珍しい病気でも「君の気のせいだ」で済まされてしまいかねない。
これをすれば誰にでも起きる、という「普遍的再現性」と、誰にでも起きるわけではない、というかこの人にしか起きないのだけれど、なぜかその人には非常に再現性高く起きる、という「個別的再現性」がある。そのどちらも、科学は対象としている。
なのに、なぜか、誰にでも起きる「普遍的再現性」しか科学ではない、と考える人がいる。これ、研究者でもたまにいる。でもそうした人って、新しい技術や現象を発見することがどうも苦手。「たまたまだ、偶然」と考え、無視してしまう傾向が強いためであるらしい。
私が開発した、水耕栽培で有機質肥料を使う技術(有機質肥料活用型養液栽培)は、150年以上前に水耕栽培の技術が開発されてから、多くの研究者がチャレンジして失敗した技術だった。ところが興味深いことに、過去にもまれにこれに成功した事例がある。でも、うまく再現できない問題があった。
たまたまうまくいった事例を「偶然だ」と考えたなら、それで終わってしまう。ただ、私はそうした偶然には何かある、と考えた。その偶然を「必然」に変える方法はないか、ということを考え、実験した結果、有機質肥料を最初の段階で少なめに入れれば必ずうまくいくことを発見した。
私は、偶然、たまたまと処理されていることの中に、「必然」が隠されていると考えている。それが再現性よく発生する条件を見つけることができれば、それは技術にも育てられるし、科学の一つの理論として成立させることも可能になる。
研究者は、それをすれば必ず予想通りの結果が出る「普遍的再現性」だけを相手にしていてはいけない人たちではないか、と私は考えている。むしろ「個別的再現性」にとどまっている現象、あるいは偶然として片付けられているものの中から、普遍性を見出す、こじ開ける力が求められるのでは。
みんなには起きないけれど特定の人、あるいは事柄では再現性よく起きるかもしれないけれど、それが「なぜ」なのかは分からない、というのは、確かにまだ「未科学」なのかもしれない。しかし、なぜそうなるかのメカニズムさえ明らかにできれば、「科学」に転化しうる。そこが研究者の腕の見せ所。
あるいは、偶然で片付けられてきた現象を、確実に再現性良く起こす方法、あるいはメカニズムを明らかにできれば、これも「未科学」を「科学」に変えられる。研究とは、こうした「未科学」を「科学」に変える営みなのではないか、と思う。
科学の正しさ(妥当性)は基本、「再現性」で支えられている。脳がなぜ思考したり体を操縦したりできるのか、実はメカニズムが本当のところは分かっていない。分かっていないけれど、脳が傷つくと人は動けなくなる、機能しなくなるものが出る、ということが再現性良く起きるから、
脳は思考などを支配している組織なのだろう、と「仮説」を立てている。そしてその仮説を妥当なものとして私たちは受け止めている。何のことはない、科学の理論のほとんどはまだ何一つ真に証明され切ったと言えるものはない。今のところ否定する必要が見当たらない、妥当な「仮説」の集合でしかない。
科学は、より妥当な仮説が見いだされれば、古い仮説と置き換えてしまう。その作業を延々と行うのが科学。現在信じられている理論も、今のところ置き換える必要が見当たらない「仮説」だということであって、未来永劫安泰だという保証は何もない。
科学とはそういうものだ、という理解はとても重要だと思う。科学は限界があるものだし、そんな科学をもって「個別的再現性しかないものは非科学である」と否定するのもまた非科学的。科学とは、常に未科学を科学に変える営みでもあるのだから、安易に否定してはいけない。
科学の限界、科学の可能性、こうしたものをほどよく把握する必要がある。科学をこき下ろす必要もないし、絶対的に信じる必要もない。科学は、仮説を常により妥当な仮説に置き換え続けようとする行為。そう、とらえるべきではないかと私は考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?