成功本は観察眼を奪い、失敗本は観察眼を養う
このところ、「高学歴親という病」や「母という呪縛 娘という牢獄」など、いわば子育ての失敗事例ともいえる書籍を紹介してきた。実は、私が子育てについて学んできた書籍のほとんどは、失敗例から。成功例からはほとんど学べるものがないと考えている。
成功本は「私はこうしてうまくいった」という自慢話が並んでいるのだけれど、私にはさっぱりわからない。なぜなら「その親がどうふるまったかは見えるけれど、子どもが見えない」から。「親がこうふるまうと子どもはやる気を出します」なんて書いてあるけれど、ホンマ?と思う。
ところが失敗本は、子どもが「こうしてほしかった」という本音が書いてあることが多い。しかし親は子どもがそうしてほしかったようには振る舞えていない。別に親は悪かれと思ってそうしたのではない。子どもに良かれと思ってとった行動が、子どもの思いとは別だったということ。ズレている。
失敗事例にはこうした「ズレ」がたくさん書いてある。このズレを解消すればよいわけだけれど、親には不思議な思い込みがあって、「私が頑張れば子どももわかってくれる」というガンバリズムが起動しやすい。しかし子どもはそんなのを求めていないことがほとんど。結果、ズレてしまう。
なぜ親はしばしばガンバリズムに陥りやすいのだろう?それは恐らく、他人に認めてもらうには頑張るのが手っ取り早い、という成功体験があるからだろう。自分が頑張っていると「頑張っているね」とほめてくれる。親だけでなく周囲の大人たちも。だからついついガンバリズムは万能だと思うのかも。
でも、この成功体験は基本、「自分が子どもで周りが大人」という条件下でしか機能しない。あるいは目上の人たち。あるいは社会人たち。そうした場合、自分が頑張れば他人が認めてくれる、という成功体験は成立しやすい。それをついつい、子どもにも適用してしまう。
でも、子どもは親の親ではない。親の子どもなのだ。なのに、親はガンバリズムを発揮して子どもにその頑張りを認めてもらおうとする。でもこれ、子どもが大人で親が子どもの関係性。なんで子どもが大人の立場にならねばならないのか?これは逆ではないだろうか。
子どもは赤ちゃんの頃、親が自分の成長で驚き続けてきたことを記憶している。寝返りを打っただけで驚き、首がすわっただけで驚き、ハイハイしただけで驚き、お座りしただけで驚き。立って驚き、歩いて驚き、言葉を発して驚き。その過程で、子どもは自分の成長で親を驚かすのが大好きになる。
だから幼児の口癖は「ねえ、見て見て」なのだろう。自分が凝らした工夫、自分の力で見つけた発見、これまでに試したことのない挑戦をしたとき、親に見てもらい、それに驚いてほしい。自分の頑張りで親に驚いてほしい。それが子どもの学習意欲に火をつけるのだと思う。
ところが成功本は「親がこうふるまえば子どもはこう動く」と、親が主語になっていることが大変多い。子どもは親のガンバリズムに反応する反応器でしかなくなっている。これでは、親の承認欲求を満たしてくれるのは子どもの側。親子で立場が逆転している。子どもは親に驚いてほしい側なのに。
皮肉なことだけれど、成功本で勧められている親の行動は、失敗本で描かれている親と瓜二つなことが大変多い。だから、成功本の言うとおりにすることがいかに危険か、失敗本を読めば分かりそうなものなのに、中学受験に熱心な親などは失敗本をまず読まないらしい。
これまで、中学受験に熱心な親御さんの相談に乗ったことがあるのだけれど、ビックリするくらい失敗本を読んでおらず、「親はこうすべき」という親のガンバリズムを説いた成功本ばかり読んでいる。私がその危険性を伝えても「私の方が勉強している」と聞く耳もってもらえないことが多い。
いや、あんたなんかどうでもええねん、子ども見てみいや、あんたの子どもの顔、真っ青やないか!と私は思うのだけれど、「こうしている間にもライバルの子どもたちは勉強を進めている」と言って、さらなる受験勉強を子どもに強いる。歯止めが利かない。言葉が届かない。困った。
成功本で目がくらまされた親御さんは、「自分は十二分に研究している、なぜならあまたの成功本に目を通したから」と自信満々なのだけれど、確かに私はその親御さんと比べたらそれら成功本に目を通していないかもだけど、その成功本に目がくらんだ親がたどる失敗例を、それらの親御さんはご存じないことがほとんど。
そしてそれを翻せば、「本を見て子どもを見ていない」ことにも通じる。子どもが今どんな思いでいるのか見ていない。子どもが今どんな状態でいるのかが見えていない。ただ空想上のライバルを思い浮かべては恐怖し、自分のガンバリズムで子どもを動かそうとする。そのズレの恐ろしさ。
失敗本が痛切に教えてくれることがある。「僕を、私を見て!」親が「同級生の○○ちゃんには負けないように」と焦りたくって、我が子がいまどんな気持ちでどんな状態かを見ずに、ひたすら尻を叩く。子どもは「ちょっと待って!僕を、私を見てる?ねえ!」と内心叫んでいるのに。
私はこれまで部下育成や子育て本を書かせていただいているけれど、書く際に注意したことがある。部下が、子どもがこういう状態であるなら、こういうアプローチを試してみたら?というように、主語が部下や子どもであるようにしたこと。上司や親はその後で動きを決める受動的な存在。
部下を見ずに、子どもを見ずに上司や親が次の行動を決められるはずがない。部下や子どもの気持ちをおいてけぼりにした指示命令が部下や子どもに響くはずがない。まずは観察!観察!観察!それなしにうまくいくはずがない。
部下や子どもが今、何を感じ、どんな状況でいるのか。まずはそれを観察し、その観察の結果、どんなアプローチがあると心が動くのか、仮説を立てる。そして思考実験を繰り返す。そして「これならどうだろう」と思われるアプローチが見つかったら、それを試してみる。ダメだったら観察に戻る。
こうした、観察・推論・仮説・実験・考察という、科学の5段階法を繰り返すことで、徐々に部下や子どもの気持ちを探り当て、適切なアプローチに近づいていくという試行錯誤が必要。この試行錯誤によって、部下や子どもの気持ちに近づいていくことが可能になるのだと思う。
そうした「観察」の着眼点を知るうえで、失敗本は実に参考になる。親がどうふるまったとき、子どもは気持ちが離れていくのか、親のガンバリズムが空回りしていくのかが見えてくる。結局は子どもを見たいようにしか見ていないことが大きな原因のように思う。
「私はこの子の親、生まれた時からずっと一緒なのだから、この子のことは一番わかっている」と豪語する親御さんも少なくない。ただ、いくら一緒にいても「見たいものしか見ようとしない」という現象が人間には起きがち。どうも人間には、そうした困った性質がそもそも備わっているらしい。
ナイチンゲールは、観察に関して、次のように述べている。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
これは興味深い。50年看護しても、病人のことがわからないことが起き得る。
では、何十年も一緒にいても「観察できていない、経験を積み上げられていない」のはなぜだろう?それは恐らく、見たいものしか見ようとしないから。見たくないものには目を背けるから。それは観察ではなく、「見てるだけ」なのだろう。
観察とは、私の考えでは「自分の気づいていなかったこと、知らなかったことを探そうとすること」だと考えている。だから、自分がこれまで見えていなかった気に入らない事実も発見しようとすることが観察。見たくない現実も見つけようとするのが観察。
成功本はどうしたわけか、親の振る舞いチェックみたいなことばかり書いてあって、その結果、読者である親は視線を自分の振る舞いにしか向けられなくなる。そして子どもは「マニュアル通りに自分が動けば調理できる料理の材料」でしかなくなる。決まった時間焼けば火が通るパテくらいになってしまう。
でも、子どもの個性は様々。気分もその時によって異なる。マニュアル通りになんか反応してくれない。むしろマニュアルの存在に子どもは気がついて、「そうはイカの塩辛」とばかり、「意外」に出ようとする。なぜなら、子どもは親を驚かしたい生き物だから。
子どもは、「親がこう動けばあなたはこう動くよね?動くべきよね?」という押しつけがましさが大嫌い。親がそう想定していれば、その想定外の行動をとろうとするアマノジャク。だから面白い。親を驚かそうとするのが大好きな生き物。
ならば、親は子どもをよく観察し、驚かしてもらえばよいのだと思う。そして楽しませてもらえばよいのだと思う。「え?そんな風に動くの?」と。すると、子どもはさらに驚かそうと企む。
面白いことに、子どもに本を読んでほしい、と強く親が念じていると、子どもは驚くほどその本を読まない。「ま、読まなくても無理ないわな、小難しいもん」と思っていると、子どもはむさぼるように読んだりする。それに驚くと、子どもはさらに驚かそうとしてますます読んだりする。
子どもの気持ちをコントロールすることなんてできやしない、子どもが何にやる気を出すかなんてわかりやしない、そんな気持ちでいると、子どもは不思議とやる気を出す。まるでマーフィーの法則。願えばかなわず、願わなければかなう。子どもって本当にアマノジャク。
ならば、親としては、子どもにああしてほしい、こうしてほしいという願望をいかに抱かずに済むか、自分の心構えのデザインが重要。そのデザインを不自然でなく受け入れるには、そのさらに前段の心構えをデザインしておく必要がある。こうして、自分の思考の根源まで探っていく。
すると、「そうか、我が子と言えど他人。他人をどうこうできるはずがないよな。そして、誰もが自分のしたいようにしか動かないし、他人がこうしてほしいと願えば願うほど、それをしたくなくなるのが人間だよな」という諦念にたどりつく。その諦めの境地に達したうえで、
自分は観客であり、応援団でしかない、と腹をくくって子どもを観察していると、意外な行動をとってはこちらを楽しませてくれる。それに素直に驚かされ、面白がっていると、子どもはますます能動的になり、こちらを驚かそうとする。何をすれば驚くか、子どもは考えて動くようになる。
子どもが能動的にさえなれば、どれだけ余計なことをしていても、その余計なことの中から大切なことも拾い上げ、学んでしまう。子どもは、能動的に楽しんでしまえば、必要なことはその過程の中でついでに学んでしまう。子どもの成長は恐るべきもの。
だから、親は変にコントロールしようとせずに、子どもが見せてくれる変化、差分に気がつくように観察し、その差分に気がついたら驚き、面白がっていればよいのだと思う。すると、子どもはその差分をさらに大きなものにしようとする。その能動性で、「ついで」に学習も済ませてしまう。
親はどうしたって観客席から出られない存在だと考えたほうがよいように思う。なのに、コートまで出てきて「手はこう!足はこう!」と、一挙手一投足に至るまで細かく指示を出し、ロボットのように意のままに動かそうとする。このため、子どもは意欲を失ってしまうのだと思う。
親は観客として観察し、昨日との違いを見つけては驚き、面白がっていればよいのだと思う。子どもはそれでやる気を出す。やる気を出せば能力も自然と高まる。観察し、楽しませてもらうこと。これこそが、子どもを見る、ということだと思う。