シツケようとすると躾を失い、シツケなければ躾が身につく皮肉
「しつけ」考。
戦前賛美の人の話を聞くと、「昔は子どもを厳しく訓育し、そのおかげでしつけが行き届いていた。今の子どもは甘やかされてダメだ」と聞かされることが多い。
しかし渡辺京二「逝きし世の面影」なんかを読むと、大人は子どもをしつけようとしてるように思えない。ものすごく可愛がる。
叱ることもほぼない。なのに子どもは大人をよく尊敬し、知らぬ間に大人の立ち居振る舞いを覚え、美しくなっていく。まさに「身が美しい=躾」となっていく。
むしろ戦前、軍国主義が始まるあたりから鉄拳制裁が始まり、妙に厳格な教育が施されるようになってから、屈折した人間が増えてるように思う。
幕末から明治初期あたりまでは西洋文明に汚染されることなく、子どもをよく可愛がる文化であったらしい。その頃は「躾=立ち居振る舞いが美しい」が自然と身についたようだ。しかし時代が下るにつれて西洋文明に影響され、ムチと道徳による指導が入ってくると。
抑圧された、表面上は厳格だが内実はヘナチョコな人間を増産するようになったと感じる。
シツケようとしない時代には「躾=立ち居振る舞いが美しい」が成立し、シツケようとしてからは表面的で、しかし内実は醜い人間像を生み出してしまったのでは?という気がする。シツケようとすると躾を失う皮肉。
欧米では、中世キリスト教の厳格な教育(人間は生まれながらにして罪を背負っているから、自分にムチ打ってそれを償わねばならぬ)の影響を長らく引きずって、大人が「外から」子どもを枠にはめようとする伝統を持っていた。それが変化し始めたのはルソーが「エミール」を著したあたりから。
ルソーが現れる前は、人間は放置しておくと野蛮で凶暴だから、教育によって洗練された教養を授けねばならぬ、と考えていた。しかしルソーは、むしろ子どもは生まれもって善良であり、文明に汚されることによって悪徳を身につける、と考えた。
ルソーの「新説」は、それまでの西洋人が子どもを「小さな大人」とみなし、未熟で愚かな子どもをムチでシバいて立派な大人に教育せねばならぬ、という考えていたのを逆転させ、子どもはありのままで素晴らしく、それをなるべく損なわないまま育てた方がよい、という新たな考え方を生んだ。
しかし、ルソーのこの考え方はなかなか広がりを見せなかったらしい。A.S.ニイル「問題の子ども」は1925年の出版だそうだが、当時の西洋人が、キリスト教の厳格な人間観(人間は生まれつき罪人)に影響され、子どもを厳しく規制するのが普通だったことをうかがわせる。
しかしニイルらの考えが次第に普及し、欧米では子どもをありのまま肯定し、そこから出発して子育てを考えるように再構築が進んだ。幕末の日本に遅れること100年ほどかけて、ようやく西洋は「シツケない方が躾が身につく」ことを知るようになったと言える。
ところが日本では、逆転現象が起きてしまったように思う。なんでも西洋のものはありがたがる戦前戦後の風潮で、子どもを厳格に指導する中世キリスト教のような子育て観を輸入し、取り入れてしまった感じがある。子どもをのびのびと育てていたのが、親の監視下に置く感じが濃厚となってしまった。
戦前賛美派の「躾の行き届いた日本人」は、幕末の、変にシツケようとしていなかった時代の遺産で育てられていた世代の人達のような気がする。その後の、厳しくシツケようと育てられた世代は、むしろ表面だけ取り繕い、内心は屈折してねじ曲がった心を育てていたのではないかと思う。
「躾=立ち居振る舞いが自然に美しい」は、シツケでは生まれないもののように思う。ニイルが指摘するように、是非善悪という価値観でほめたりけなしたりすることが、かえって子どもの心を屈折させ、表面だけを取り繕う人間に仕立ててしまうもののように思う。
幕末の頃の子育ては、ルソーが「エミール」で描いたように、子どもが自然とそれを望むように仕向けられる構造があったように思う。子どもは無邪気に遊んでいるうちに、大人たちの立ち居振る舞いを観察し、それをマネしたくなり、いつしか身につけてしまう。そうしたいからそうするようになる。
しかし「シツケ=本人が望まないうちから強制させられる」はそうはならない。本人が望む前から強制される。さんざんいろんな試行錯誤を楽しんでから、それを望むようになるまでの過程を経るの待ってもらえない。いきなりそれを実行せよと強制させられる。
いろんなことを試した上で、自ら選ぶという道を残してもらえず、大人が勧める道以外は禁じられてしまう。子どもはそれだと、禁じられた道への興味がむしろ失われずに保存されてしまう。そうしたくて仕方なくなる。屈折した願望が残り、それが「躾」を損なう結果となるように思う。
シツケようとするから躾を失う。シツケようとせず、危険のない限り、子どもが試行錯誤するのをできるだけニコニコ観察し、自ら選び取っていくのを見守ると、自然と「躾」ができあがっていく。シツケでは躾は生まれない。躾はシツケないことを前提にしないと生まれないもののように思う。
このように書くと、「大人が自ら見本を見せていなければ、子どもが見習うはずがない」という話が出てくる。それはその通りなのだけど、大人が内心イヤイヤやっているのだと、それは子どもに間違いなくバレる。大人が楽しんでやってる必要がある。
楽しんで取り組むには、「ねばならぬ」「べきである」という、「ねば・べき」という思考から、大人自身が解放されている必要がある。人間は「ねば・べき」という強制が入ったとたん、楽しめなくなる生き物だから。むしろその逆を試したくなるアマノジャクな生き物だから。
「ねば・べき」という、禁止や強制から、大人は自身を解放してやった方がよい。人を憎んでも構わない。バカにしたくなっても構わない。サボりたくなっても構わない。自堕落になっても構わない。自分から禁止事項を全部取り払ってしまう。何をしても構わない。
その上で、楽しそうなことから未来をチョイスしていく。嫌なことからは逃げ、楽しいことばかり選ぶようにする。すると不思議なことに、案外、他者から見ても望ましい行動に落ち着く。他者の目を気にしないようにしたほうがそうした行動を自然にとれるようになる。
他者の目を気にして、「ねば・べき」を理由にして行動を決めると心が屈折するのに、変に自分に禁ずることなく、楽しいことを選択するようにすると、自ら望んで、他者も楽しい選択肢を選ぶようになる。シツケない方が躾になるのは、そうしたメカニズムのように思う。