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國分功一郎『手段からの解放』を読んで
もう、SNSを見ることをやめようと思っているのに、つい見てしまう。まえに、もう2か月SNS見ていないという人の話を聞いて、それが健康な姿だよなと思った。
今朝スマホを触っていて、なんで自分はスマホを触ってつい、SNSを見てしまうんだろうと考えた。
その時、先日読んだ、國分功一郎さんの、『手段からの解放』の内容と結びついてこういうことかもしれないと思うことがあった。
この本は、哲学の本で、自分には難しすぎて、ほとんど読めなくて、部分的にしか理解できなかった。しかしここでなされている議論は本当に重要な事であり、何か自分の人生にとっても今まで課題になってきたことが書かれていると思った。何度も読んで、少しでも理解したい。
書かれていることで覚えていることは、國分先生は、カントの著作から快、快適さの意味について丁寧にまとめている。そして、その中で言われているのは、快を享受することは人間にとってとても大切な事であり、快には目的がないのだと。享受するということは無目的な領域でそれが人間にとってとても大切なのだということだった。例えば嗜好品、たばこなんていうのは、今日では非常に嫌われて、確かに問題も多いのだけど、たばこを吸うのは何か目的があって吸うのではない、たばこを吸うこと自体が目的になっている。ここでタバコの良しあしの議論はしないが、そのこと自体が目的になっている快の領域がある。國分先生はその他に3つの快の領域をあげている。ここは複雑なので直接本書を読んでほしいのだが、その中で、「間接的に善いもの:設定された目的にとって手段として有用なもの。内容(生存、安楽な暮らしなど)。目的ー手段連関。」という領域があって、この領域の出来事は全てが手段化されてしまっている。例えば、勉強が好きで勉強するのではなくて、大学に行くためとか安楽な生活をするために、勉強するのはこの「目的ー手段」連関の領域である。ここの何が悪いのということなのだが、要は全てが手段化されていくということに問題がある。例えば、嗜好品も楽しむために飲むのであれば先に挙げた純粋な「享受・快」の領域に入るのだが、自己を忘れるためにアルコールを飲むとかだと、アルコールを飲むことが手段化していくのである。このように、現代は全領域が目的のための領域化しており、純粋な「享楽・快」の領域が人間世界から失われつつあるというのである。このことの何が問題かといえば、まさに目的のためにしか行動しない人間というのは、ナチスドイツ時代に目指された人間の理想像なのである。全体主義につながり、自由を失っていくあり方なのである。
そして、「享受・快」の領域も消費によって規定されてしまっていると國分は言う。消費とは、必要と思わされて際限なく手に入れるということである。意外なことに國分は浪費は良いことと述べる。浪費は、必要以上に何かを手にすることであるが、これは贅沢として人間がずっと持っていたことだと言うのである。例えば、スイーツを食べることも、栄養を得る事だけではなく、必要以上のものを得ることに喜びを感じることである。しかし、浪費は実は一定の量を摂取したら、もう必要を感じなくなる、つまり満足があるのである。スイーツも、一定まで食べることが出来たら満足がある。
しかし消費は違うと國分はいう。消費は、文化的に消費するのが良いと思わされた、作られたものだという。消費は際限なくほしくなる。そこには満足がない。人に良いと思われるために、文化的に手にすることが良いと思われているために自分もそれを欲しくなる。人の欲望の劣化コピーが消費だというのである。例としてインスタに撮影するために美味しい店に行くのも消費だとしてあげられていた。そして、この消費が純粋な「享受・快」の領域を汚染してくるのである。現代の私たちは、自分の喜びが消費にしむけられ、消費することが幸せだと思わされている。これは純粋な「享受・快」ということが、企業などに赤ちゃんの頃から作り替えられてしまっているということである。自分の願いというよりも、企業の設定した消費のレールに乗せられているのである。それは自由とは程遠い姿である。自分の喜びだとおもっていたものが、実は企業に教えられた「消費は幸せ」という形式でしかなかったのである。
大まかに上のような議論がなされていたが、だいぶ雑だし、正確でもない。自分が覚えている、そう読んだという範囲の話である。
さて、ではこの話とSNSをつい見てしまうことと、どう連関するのだろうか。
SNSを見てしまうのは、SNSには、役立つ情報があふれているからではないか。何か思わぬ形で自分に「役に立つかもしれない」様々な情報があふれている。例えば機能自分はSNSをスクロールしていて、「Microsoft word」には「校正」機能があり、そのなかに「読み上げ」機能があると知った。これは今まで知らなかったことで、SNSを見ていたからこそ知ることが出来た。昨晩実は、それを試してみて2時間くらいあっという間に立ってしまった。
確かに、SNSにはこのような「お役だち」「知らないと損」する情報が沢山あり、知識との出あいの宝庫である。
しかし最近きになるのは、SNSの投稿で「これを知らないと損する」「知っててよかった」とか「人生損する」というようなメッセージと共に、様々なTipsを流すアカウントが非常に多いということである。
しかし、すべての人間にとって知らないと損することなどあるのだろうか?そこには、そのことを知らないと、その人の人生がダメになるとか、無駄になるという見方というか、そういう決めつけの匂いを感じてしまう。そうした「損をする」という扇動的なメッセージでインプレッション数を稼ごうという目的も見えてしまう。そして、そのことを知らない人は「情弱である」という自己責任論ともマッチして、こうした投稿が非常にはやる。しかしそこには、「SNSを使えない人」のことは視界から抜け落ちている。確かにこれらの情報は役に立つ場合がある。しかしそれらは人生を「うまくいくかどうか」だけで見る場合だけであろう。こうした「これ見ないと人生損」という投稿の背景には人生を「うまくいくかどうか」だけで見る目線が垣間見える。これは國分がいう「目的ー手段」連関の中でのみ「人間の生」を捉える「人生観」である。ここには「SNSを使えない人」、例えば、お年寄りのことは忘れ去られている感じもする。そこに何かすごく浅薄な人生観がある。こうした、扇動的な投稿が受けるのは、周りから頭一つ抜け出した方が幸せという人生観の普遍化とつながっている。
そして、私がSNSを見るのも、やっぱり、こうした人生が少しでもうまく生きられるようになる情報が手に入るという経験があるからで、その願いを無意識のうちに持っているからSNSをつい見てしまう。もしかしたら、今日こそ何か大切な情報に出会えるかもしれないと思ってSNSを眺めるのであろう。
この辺りは、アンデッシュ・ハンセンの『スマホ脳』にも書かれていた。
そして、SNSというのは、こうした消費の欲求をうまく刺激して、情報を消費されているのである。その中で得するのは、SNSプラットフォーム企業と、インフルエンサー達である。この刺激は人の「損するかも」という恐怖心をうまくあおっているところもあると思う。こうした消費への扇動は「目的ー手段」連関そのものである。
そして、SNSの情報はまさに無限である。無限の情報が流れる。とても個人が消費できない、情報の海である。そこに満足はない。
情報の海でおぼれる形になってしまう。その人の人生はたしかに「うまくやるこつ」「上手になるTips」はたくさん手にしたものになるかもしれない。しかしその「上手くやるコツ」のTipsで満たされた人生は、その人の個性的な生き方とはもはや言えないのではないだろうか。その人の人生は、SNS企業やインフルエンサーから無限に支給される「うまくやるコツ」の選択と組み合わせでしかないのだろうか。
人生がうまくやるこつのTipsをかき集めるだけで終わっていくような感覚がある。そうならないためには、どこかで情報をシャットアウトし、自分の固有の人生の課題に向かい合っていかなければならないような気がする。
これは、以前書いた、「自分の言葉を造る・探す」ということという内容とつながっている。
自分は空しさを克服するために、様々な情報を無限に手に入れようとしていた。しかし、全く皮肉なことに、その無限に情報を手に入れるという営みそのものが、消費社会に煽られたものであり、その情報の入手のために生きることが逆に自分の人生を空しくしていたように思うのだ。
どのように、自己の人生の空しさ、空虚さを克服していけるのだろうか。
ここに、大事な課題があるように思う。
(終)