『私たちにはことばが必要だ』を通して考えたこと
一昨日の小田急線の無差別殺人事件の事を思うと辛すぎるし、その事に国のリーダーから何のメッセージも発せられない事にすごくモヤモヤする。
多くの人が、この事件に関連して言及していたが、私も以前読んだイ・ミンギョンさんの『私たちにはことばが必要だ』の事を思い出した。
2016年に韓国で『江南駅女性刺殺事件』があった。ミソジニーの男性による女性を狙った憎悪殺人事件があった。しかし、その事件をきっかけに、韓国では女性への暴力を許しちゃいけないって、皆が怒って大きな社会運動になり、韓国社会が変わったと学んだ。私は、ちゃんと皆がこの事件の時は、「女も男も関係なく怒った」という事に救いを感じた。もちろん被害者は戻ってこない、その点は本当に悲しみしかない。だけど、そのままうやむやにされるのではなく、「こんなの絶対おかしい!」って韓国中で皆が怒って社会が変わったということに何だか人間の希望を見た気がした。
しかし同時に、「日本で同じことが起こったら、運動になるのだろうか…」「私はちゃんと動けるだろうか…」と不安にも思った。そして、去年福岡市のマークももちで女性を狙ったと言われる無差別殺人が起きた、でも、国のリーダーは何も言わなかった。社会運動にもならなかった。今回小田急線で起きた事件は『江南駅女性刺殺事件』と同じだ。絶対に許されないことだし、こんなことあってはならない。女性であるというだけで命の危険を感じなければならない社会なんて間違っている。
でも、国のリーダーからは「こんなことは絶対許されない」「何が何でも女性を守ろう」「殺すな」というメッセージが聞こえてこない。
大変なヘイトクライムや差別があった時に、なぜ国のリーダーが「これは絶対に許されない事だ」とまずメッセージを発しないのだろうか?
まず傷ついた人を守らなければならないのではないのか?まずヘイトは許されない・絶対傷つけてはならないと伝えるべきではないのか。これはいのちの問題だ。そこに、「どういう社会構造の問題がある」とか、「犯人も大変だった」とか、「男性も大変だ」とか言う前に、まず「傷ついた人を守る」、「傷つけられた人を守る」となぜ言えないのだろう?不安で仕方ない。リーダーからそういうメッセージが出されないことが残念で仕方ない。
自分が殺される側に立ったら、このことが許されないと分かる。
ただ、情けないことに、自分はこの怖さを想像しようとしても、完全には分からない。それは、自分があまりマイノリティになったことがないからだ。そうした恐怖を感じたことが少ないということ自体が、男性である自分はそれだけですでに社会的に優遇された立場に立っているという証左だ。逆から言えば、これだけ女性達から色々な声を聞かれるということは、それほどまでに女性は理不尽な恐怖に遭う機会がある不公正な社会ということだと思う。
それでも何度かマイノリティが受ける恐怖を感じた場面がある。カナダに滞在していた時に、アジア人ということだけで、「帰れ日本人」と車から卵を投げられたときがあった。その時はものすごく恐ろしく、殺されると思った。変えられない属性に対してそのような憎悪が向けられることに身体から力が抜けるような悲しみと恐怖を感じた。しかし、それでも私は、日本に帰ればそのような理不尽な憎悪からは逃れられると思った。しかし、女性憎悪に関しては日常においてそうした恐怖がどこかに付きまとう事になる。逃げ場所がどこにあるのか?ただ生きているだけでそうした憎悪を向けられなければならないとはどういうことか?それは完全に社会が間違っているし、そんな社会に男性である私も生きていたくはない。人口の半分が、暴力に常におびえなければいけない社会は嫌だ、嫌すぎる。そう感じることに理由なんていらない。しかしあえて考えてみると、誰かがいきいきと生きることを阻害される社会ではもう半分の人がいきいきと生きることなど出来ないと思うのだ。誰かがいつも暴力の恐怖の下にある理不尽な世界で享受される喜びなど偽物だと思う。私と他はつながっている。
姉の幸せは私の幸せではないか?逆に姉の不幸は私の不幸そのものではないか?教え子の喜びは僕の喜びだし、教え子の不幸は僕の不幸だ。それはわかる。変えられない属性によって誰かがおとしめられ、恐怖におびえることが無いなんて当たり前のことだ。
その当たり前の事が当たり前に保障されることを誇れる社会であって欲しい。私は自分の国がメダルを何個とったとか、そんなことで誇るより、当たり前の権利が守られていること、暴力の恐怖におびえないでいい事、差別されずにいきいきと生きて行ける社会であること、そういうことで自分の国を誇りたい。
日本では問題があってもその問題を直視せず(社会問題化せず)に何となくうやむやにして終わることが多いと思う。だけど『私たちにはことばが必要だ』でイ・ミンギョンさんが言っていたのだが、ちゃんと問題に名前を付けることでその問題にみんなで取り組んでいけるのだ。だから名前を付けなくてはいけないと言われていた。社会問題化しなくてはならないと。
「フェミサイド」「女性憎悪」は許さないと声をあげていきたい。何ができるか分からないし、こういう発言自体がモテの作法だと批判されることも有るが、もう言い訳している場合ではないであろう。もちろん、同時に自分の加害性にも目を向ける必要がある。
(終)