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三浦芳聖 著「神風串呂神伝」オンライン復刻版 編集 串呂哲学研究会

編集者ご挨拶

串呂哲学研究会

🟠なぜ神風串呂は構築されたのか

多くの方々にとって「神風串呂しんぷうかんろ」(「かみかぜくしろ」とも言う)という言葉にはなじみが無いと思いますので、「神風串呂とは何なのか、なぜ構築されたのか」について簡単に説明させて頂きます。

古代から、「神風かみかぜの伊勢の国は常世とこよなみの寄する国」と言われるように、神風といえば「伊勢」の枕詞で、この神風という言葉は、伊勢神宮の神々と密接な関係があるようです。

伊勢神宮の神々と云えば、皇大神宮内宮に鎮まります「天照あまてらす大御神おおみかみ」がその代表的な神様です。

この天照大御神が伊勢におしずまりになった事蹟は「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世記やまとひめのみことせいき」による元伊勢伝承で明らかになっていますが、天照大御神は、なぜ都を遠く離れた辺鄙へんぴな伊勢地方を選んでお鎮まりになったのかについては、これまで謎とされて来ました。

三輪義熈みわよしひろ著「神皇記じんのうき」や富士古文献には、第10代崇神すじん天皇の御代、富士山麓の「阿祖山あそやま太神宮だいじんぐう」で祭祀していた「天照大神の神霊と三品さんぴん大御宝おおみたから」を大和地方に移した事蹟が詳細に語られています。

この「天照大神の神霊と三品の大御宝」が大和地方に移された事蹟と、神風串呂が構築された理由とは密接な関係がありますので、この辺りの事情から述べてみたいと思います。


🔴天照大御神を表わす静岡県駿東郡小山町「大御神おおみか

天照大御神ゆかりの土地「大御神」、天照大御神の降誕地か住居地か?(国土地理院地図)

🟡崇神天皇、天照大神の遺勅を破る!

第10代崇神天皇は、日本書紀に「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と記されているように、大和地方を中心にした新国家建設に当たって、王権の源泉である祭祀権を掌中に納める必要性を痛感し、崇神5年3月、富士山麓の「高天原たかあまはら神都麻呂山しんとまろやま」でお祭りしていた皇祖・天照大神の神霊を大和地方へお移ししたと記録されています。(「神皇記じんのうき」)

この時の状況を、富士古文献の権威「加茂喜三氏」が、分かりやすく記述して下さっていますので、下記に引用させて頂きました。(以下同様)

崇神天皇の五年、天皇は無謀にも富士の天都(高天ヶ原)より天照大神の神霊を奪取し、皇居の近くの笠縫かさぬいの地(奈良県磯城しき大三輪おおみわ茅原ちはら)に新宮を建てて此処に奉遷ほうせんする。そして、これを「天照皇太神宮」と呼ばしめ、これまで富士高天ヶ原にあった皇祖の神廟しんびょうは、これを古宮ふるみやと称させてしまった。

   (加茂喜三著『富士王朝の滅亡』27頁)

崇神天皇は続いて、富士山麓の「高天原元宮七廟惣名阿祖山あそやま太神宮だいじんぐう」に納められていた「三品の大御宝」を大和地方に移し大御神の神霊として祀らせたのですが、その時の事情が「神皇記じんのうき」などの富士古文献には詳細に記述されています。

崇神天皇の5年3月3日、勅使ちょくしを富士高天ヶ原に派遣して神器を拝受し、大和国やまとのくに笠縫かさぬいの里に建てた天照大神あまてらすおおかみの新宮に納めたのが4月9日で、皇女豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命をして祀らせ、6月7日より神宮の庭前に祭壇を設け、天下の名工を召して阿祖山太神宮に伝わる「三品の大宝」にならい、新しい「三品の大宝」を作製させて皇城の奥殿に納め天皇代々守護の大御宝と定めた。神代より富士高天ヶ原に伝承されてきた「三品の大宝」は、笠縫の里の天照皇太神宮にその神霊として納められた。   

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』30~31頁要約)

神器の奉納について、「富士古文献」の記述は極めておだやかに大和朝廷の指示に従って進められたように記されているが、それは表面のことで実際には無事に済まされてはいなかった。「日本書紀」によると、崇神天皇の五年、「国の内に疾病しっぺい多く、民の死亡甚だ多し、六年百姓流離ひゃくせいりゅうり、或は背叛はいはんするものあり、その勢い仲々治め難し。」とある。明らかに反乱のあったことを明記している。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』31~32頁)

崇神天皇は天照大神あまてらすおおかみ大国魂神おおくにだまのかみの二神を天皇の大殿に祭ったが、その神の勢いを畏れて共に住みがたいといって、豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことをして笠縫かさぬいに祭る。また大国魂神を渟名城入媛命ぬなきいりひめのみことをして祭らせた。ところが、渟名城入媛命は髪が落ちせて、いわい祭ることが出来なくなってしまった。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』32頁)

加茂喜三氏が述べているように、崇神天皇が富士山麓で祭祀されていた天照大神の神霊を大和地方に移し、阿祖山太神宮に納められていた「三品の大宝」を大和地方に移し、天照大神あまてらすおおかみ倭大国魂神やまとおおくにだまのかみを宮中で祭祀した後、崇神天皇の御代がどのようになったかは、日本書紀に明記されています。

崇神天皇- Wikipedia』には下記の様に出ています。

即位5年、疫病えきびょうが流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神やまとおおくにだまのかみを宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して笠縫邑かさぬいむら(現在の檜原ひばら神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命ぬなきいりひめのみことに託し長岡岬ながおかみさきに祀らせた。しかし渟名城入媛は身体がせ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

即位7年、崇神天皇は、大田田根子おおたたねこ大物主神おおものぬしのかみ市磯長尾市いちしのながおちに倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせれば国は治まると云うお告げを受け、実行したところ、お告げ通りに国が治まった。(後半要約)

『ウィキペディア』崇神天皇

この「大物主神」「倭大国魂神」は、一体如何なる神かと云うと、富士高天ヶ原の阿祖山太神宮大宮司職だいぐうじしょくで、神皇じんのうともいうべき地位にいた大国主命の後裔こうえいであったのである。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』36頁要約)

以上の資料を総合して考察しますと、下記の様にまとめることが出来ます。

🟡崇神天皇の御代(崇神五年)、富士山麓「天都高天ヶ原」で祭られていた「天照大神の神霊」と「三品の大御宝」を笠縫の里に移し、天照大神と大国魂神の二神を皇城内で祭祀し、宮中には模造品(形代・レプリカ)を作製して納めた。

その結果は、宮中で祭祀していた天照大神と大国魂神の二神の神威が強すぎて同床共殿にお祭りする事ができず、また疫病えきびょう飢饉ききんにより多くの死者が出たり農民が逃亡したり各地で反乱があったため、崇神天皇は崇神七年、「天照大神と大国魂神の二神を」を皇城外に出してお祭りすることにした。

天照大神は豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して笠縫邑かさぬいむら(現在の檜原ひばら神社)に祀らせ、大田田根子おおたたねこ大物主神おおものぬしのかみ市磯長尾市いちしのながおち倭大国魂神やまとおおくにだまのかみ(大和神社祭神)を祭らせたところ国は治まった。

大物主神、倭大国魂神は、阿祖山太神宮大宮司職で、天都高天ヶ原・富士王朝の神皇格じんのうかくの神であった。

・・・・・

🟡「記紀」の記述だけでは、崇神天皇の御代になぜ疫病が発生して人口の半ばが失われたのか、なぜ天照大神と大国魂神を宮城外に出さねばならぬほどの畏怖すべき事象が起きたのか、その根本原因が分からないのですが、富士古文献には上記の様にその顛末てんまつが詳細に記録されていたのです。

こうした事蹟が「記紀」に記述されてなかったのは、大和朝廷(記紀を編集した後継者)に都合の悪い事だったからで、それを一言で云ったら

🔴天都・高天ヶ原(富士王朝)隠し
🔴富士王朝の祭祀権(神々と神宝)奪取事件の隠蔽

ということになるかと思います。

実際、「記紀」には「富士山」についての記述は全くないのです。記紀編集者にとって富士王朝の存在はタブーだったのです。

また、崇神天皇による「三種の神器」の大和地方への奉遷ほうせん(移動)は、「三種の神器は、富士阿祖山太神宮でお祭りするように」という天照大御神あまてらすおおみかみ遺勅いちょく神定憲法しんていけんぽう)を破る重大な違反行為でした。

🔴崇神天皇は、天照大御神の遺勅に違反したのです!

日本書紀に明記されている崇神天皇の御代に起きた凶事の根本原因は、崇神天皇が富士山麓の天都・高天ヶ原で祭祀されていた「天照大神の神霊と三品の大御宝」を、天照大御神の遺勅を無視し、権力を行使して大和地方に移したため、皇祖神(天照大御神・大国魂神)がお怒りになってたたりをなしたからだ!と理解する事は、神風串呂とは何かを理解する上で極めて重要であります。


🔴茨城県鹿嶋市「高天原」


🟡元伊勢伝承は串呂構築の旅だった!

崇神天皇は、天照大神を皇女・豊鍬入姫とよすきいりひめに託して笠縫邑かさぬいむらに祭らせましたが、天照大神は笠縫邑の天照皇太神宮(現在の檜原神社)にお鎮まりにならず、

崇神39年、理想的な鎮座地を求めて豊鍬入姫命とともに笠縫邑を出発され、京都府福知山市大江町内宮の元伊勢内宮皇大神社に4年間駐屯されたのを皮切りに各地を巡行され、

元伊勢伝承による各地巡行の軌跡

のちに第11代垂仁すいにん天皇の皇女・倭姫命やまとひめのみことがこれ(御杖代みつえしろ)を引き継ぎ、およそ90年かけて垂仁天皇の25年3月、現在地の伊勢神宮にお鎮まりになられました。

🔴⛩伊勢神宮は、都を遠く離れた辺鄙な伊勢地方にある!

都から遠く離れた辺鄙な伊勢地方(YAHOO!JAPAN地図)

元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴氏によれば、天照大御神が、各地を巡行したのは、元伊勢神社による結界を張るためで、古神道では結界のことをクシロといい、「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べています。(『続・太陽の神人黒住宗忠』146頁、たま出版)
 
山田雅晴氏のいう「元伊勢クシロ」の「クシロ」は、正に串呂くしろ(かんろ)のことであります。

🔴元伊勢クシロ=カミカゼクシロ=神風串呂しんぷうかんろ

当時の人々に串呂くしろ(かんろ)と言っても理解させることが難しかったのと極秘で串呂を構築していた為、結界を張るためと言っていたのでしょう。

「クシロ」が串呂くしろ(かんろ)であることは、三浦芳聖によって解明された下記の神風串呂によって明らかとなりました。

🔴結論を先に述べますと、佐久久斯侶さくくしろ佐久串呂さくくしろなのです。

「この二柱ふたはしらの神は、佐久久斯侶さくくしろ伊須受いすずみやいつまつる」

(「古事記」天孫降臨てんそんこうりんの条)

🟡「⛩皇大神宮内宮」と「佐久」との神風串呂(本書10参照)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

天照大神の遺勅に反して大和地方に移された天照大神(三種の神器)は、将来、我が国に起きるであろう皇統の危機を予見して、戦争の勝者や時の権力者によって隠蔽いんぺい、破壊、偽造、改竄かいざんされることのない「真の皇統史」を地文に秘めておこうと考えられ、その後、およそ2000年という長期間を掛けて構築されたのが神風串呂しんぷうかんろなのです。

・・・・・

🟡⛩元伊勢内宮皇大神社を基点とする神風串呂の一例

⛩金崎神宮で自害された尊良親王(実は天皇・大君)は、三浦芳聖の遠祖で、串呂では「上村上天皇」と尊称申上げる。


🟡神風串呂神伝は、神風串呂解明物語である!

今回お届けする「神風串呂しんぷうかんろ神伝しんでん」は、後醍醐天皇の嫡皇孫、神皇正統第百代「大宝たいほう天皇(美良よしなが)」と富士大宮司家の嫡女「三浦佐久姫」両者の血統をり合わせた三浦皇統家の嫡皇孫「三浦芳聖みうらよしまさ」が、幼年期に神風串呂を神伝されたあと、13年掛かってその要諦ようていを解明するに至った「神風串呂解明物語」です。

後醍醐天皇から始まる「神皇正統家略系図」

三浦芳聖により解明された「神風串呂」によって、これまで謎とされていた、元伊勢伝承の各地巡行の目的や、天照大御神が辺鄙へんぴな伊勢地方にお鎮まりになった理由が初めて解明されたのです。

🔴元伊勢伝承=神風串呂構築の旅
🔴伊勢神宮=神風串呂の重要拠点

本書を最後までお読み下されば、串呂主宰神・天照大御神による「神風串呂神伝」、その結果解明された「神風串呂」、更には日本国の実相が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

本書「神風串呂神伝」は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬ごびゅうただす』(1970年発行)の巻頭部分です。

難読漢字には読み仮名を付し、現代人になじみの無い漢字は平仮名に変換し分かりやすい「編注」や「解説」を加え、原著にはない画像やWEB地図を掲載するなど、どなたにも親しみやすく理解しやすいように編集いたしました。

2023年1月17日
 串呂哲学研究会 鈴木超世志


目 次
はじめに
🟠なぜ神風串呂は構築されたのか
🟡崇神天皇、天照大神の遺勅を破る!
🟡元伊勢伝承は串呂構築の旅だった!
🟡神風串呂神伝は、神風串呂解明物語である!
神皇正統しんのうしょうとう皇統こうとう(系譜)
南朝副統なんちょうふくとう王統おうとう(系譜)
著者真影
凡例

神風串呂神伝
1、一子相伝の系譜の在処ありかを秘伝される
2、奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんから木曽の三浦山を見よ!
3、破産により一家離散、安楽寺の小僧となる
4、学生時代に三浦山まで行脚あんぎゃ
5、三浦山と蔵王山との神風串呂
6、一子相伝の系譜を掘り出す
7、系譜により串呂の要諦ようていが解明される
8、天子ヶ岳と牧平町大門との串呂
9、⛩皇大神宮内宮と藤太夫島との串呂
10、⛩皇大神宮内宮と天竜区佐久との串呂


神皇正統の皇統(系譜)


三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より

南朝副統の王統(系譜)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版より

著者真影

還暦の頃の著者「三浦芳聖」

凡 例

🟢旧漢字は固有名詞等の一部を除き新漢字に変換し、旧仮名遣づかいは新仮名遣いに変換しました。「寺野ちゝ薬師」以外の「ゝ、ゞ」は普通の文字で表記し、拾→十、壱→一、云→言、皈→返、米→メートルなどと表記し、本文中の引用箇所は、「 」『 』【 】で明確にしました。
🟢横書き用記述に合わせて「串呂地文連記」の東西・南北の方向を反転した場合もあります。
🟢改行で一行空けるようにし、さらに適宜てきぎ改行を補い、難読漢字にはルビを付し、句読点や括弧かっこ等を補い、見出しを付け、原著にはない串呂図や系図、写真・画像、WEB地図、記号(⛩)、絵文字(🟠)等を挿入し、資料先のサイトをリンクしました。頁数は本書独自の頁数で原著とは関連していません。
🟢明らかに誤字・脱字・誤記と判明している箇所は訂正し、個人情報保護の為に固有名詞などの関係個所を一部削除したり簡略化しました。
🟢只(ただ)、云(い)う、之(これ)、此(こ)の、尚(なお)、即(すなわ)ち、其(そ)の、其方(そなた)、只管(ひたすら)、然(しか)も、而(しか)も、若(も)し、乍(なが)ら、斯様→かよう、依(よ)る、などの漢字を平仮名に変換し、聖父、聖母は父、母と表記しました。
🟢旧住所は文意を損なわない限りにおいて最新住所に変換しました。
🟢理解を助けるため〔編注〕を付し、著者による(括弧書きの一部)を〔編注〕として別記し、必要に応じて〔三浦家〕極秘伝のように〔 〕で補いました。
🟢和暦の後に西暦を補いました。例、明治37年〔1904年〕。


神風串呂神伝

1、一子相伝の系譜の在処ありかを秘伝される

私が、神皇しんのう正統家しょうとうけ極秘伝ごくひでん神風しんぷう串呂かんろ及び三浦みうら皇統家こうとうけ系譜けいふと申しますのは、私の父・三浦市次郎みうらいちじろう宗心之命そうしんのみこと)〔編注1〕が、
 
どのように神風串呂の秘法を先祖代々から秘伝ひでんせられていたか全く不明でありますが、とにかく一子相伝いっしそうでんに系譜その他の記録をかめの中に納めて地下へ深く埋蔵まいぞうして伝承されたのでありますから、神風串呂の秘法も確かに一子相伝に秘伝されたものと想像致します。
 
何分なにぶん私が数え年十歳、満齢で八歳と九ヶ月で吾が父・三浦市次郎(宗心之命)が昇天されたのでありますから、全然生前に於いては、私はそのことをうけたまわっておりません。
 
ただ私は、母からは、一日に一度は必ず、そなたは「後醍醐ごだいご天皇」第一皇子「尊良たかなが親王」の再現うまれかわりであります。「尊良親王」と言う方は越前えちぜん金ヶ崎城かながさきじょうに於て云々うんぬん・・・・・と言い聞かされ、
 
母の里、河合家かわいけの菩提寺「宮崎山みやざきざん伝正院でんしょういん」〔編注2〕の太子堂たいしどうへ連れて行っては、あなたは此処ここにおまつりしている太子様たいしさまが生まれかわっておいでになったのだと、ひたすらに尊良精神たかながせいしん〔編注3〕を打込んで養育されていました。

〔編注1〕三浦市次郎(宗心之命)
明治七年九紫きゅうし火星かせい甲戌きのえいぬ年〔1874年〕四月七日降誕。事業家で今日のホームセンターのような店舗を構え荒物、金物、太物などを販売するほか、額田郡中に石灰や肥料などの配達販売もしていた。大正二年〔1913年〕六月三十日昇天、寿四十歳。妻元子との間に五男一女(長男は夭折)を儲けた。三浦芳聖は三男。

〔編注2〕宮崎山伝正院
愛知県岡崎市明見町田代にある浄土宗西山深草派の寺院「虎洞山ことうさん伝正院」のことで、聖徳太子をまつった「太子堂」があることで有名。三浦芳聖の母の里「河合家」(明見町田代)では、尊良親王(内伝の天皇)の第二皇子「基良もとなが親王」(良玄りょうげん和尚)が南北朝時代に都を逃れて当地に土着し住職した寺院で、「太子像」は良玄和尚が御父尊良親王を木像に刻んで隠祀いんししたものであると伝承されていた。

〔編注3〕尊良精神
延元2年〔1337年〕3月6日、金ヶ崎城落城に当り、尊良親王(実は上皇)が新田義顕にったよしあき藤原行房ふじわらゆきふさ気比氏治けひうじはるらの将兵とともに従容しょうようとして自刃じじんしたいさぎよい精神(日本魂)を言う。

1頁


大正二年〔1913年〕六月三十日、父が昇天せられる日の朝、(当時は額田ぬかた郡一手販売の肥料商を営んで居りましたから、丁度田植時たうえどきで、三浦家累代るいだい御出入おでいり中西久次郎なかにしきゅうじろう氏〔編注4〕が運送馬車十台も石灰せっかいを積んで差配さはいして来たので、母はその振り分けに出ていられたので)、病床の父の枕元にて、私が唯一人で看護しておりました時に、父は
 
「この度は到底生き延びる事は出来ないであろう。もしも私が亡くなったならば、実は私はほかで大変な事業を起して大失敗をしているから、まだお前のお母さんにも話をしていないけれども、先祖伝来の山林さんりん田地でんぢ田畑でんばたのみならず、この家屋敷いえやしきまでも人手に渡り、そして一家は離散りさんしなければならないようになるかも分からないが、どのようになろうとも、そなたは数え年二十一歳になって壮丁そうてい検査〔編注5〕が済んだならば、大門だいもんの屋敷(店は約五百メートル西南方にあった)のおくらの南の所を三尺五寸〔132㎝〕程掘り下げると、大きな平石ひらいしがあって、その下にかめけてあるから、此の甕を掘り出してみなさい。その中に三浦家の先祖代々一子相伝いっしそうでんに秘伝されたものが入っている。但しこれを見たならば、また全然違う所に埋蔵まいぞうして、この事は自分の母親にも兄弟にも、また成人してめとる妻にも吾子わがこでも、この子に跡を取らせるという者以外には、絶対に語ることはならないという先祖伝来の固いおきてになっている。だからそのことを固く守るように・・・・・」
 
と私に言いのこされました。

〔編注4〕中西久次郎
松良天皇に近侍した青木あおき和田尉わだのじょう盛勝もりかつの子孫で代々三浦家のお出入として仕えた。盛勝の一子「青木平馬あおきへいま」が書き記した「千種文献ちぐさぶんけん(青木文献)」を伝え「長慶天皇聖蹟と東三河の吉野朝臣」(1940年)を著わした。

〔編注5〕壮丁検査
徴兵検査の事。戦前、満令20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受けることが義務付けられていた。

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2、奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!

牧平の医者は結城周斉ゆうきしゅうさいという方でありましたが、二三日前から「私一人ではどうも心細いから、本宿もとじゅく富田とみた医師をばって頂きたい」と云う事で、富田医師も呼んで二人で立会って診察して居られましたが、
 
その日の午後には富田医師も「宇津野うつのさん」を呼んでくれという事で、宇津野、結城、富田の三医師が百方ひゃっぽう手を尽して下さったが、午後五時頃、三人共「臨終りんじゅう」を告げられましたので、
 
全部障子しょうじをあけひろげて大広間にしてしまって、親戚知人等全部集まりまして、皆それぞれ念仏をとなえながら、「かんじより」で父の口もとへ水をつけておりました。
 
そしていよいよ最期さいご断末魔だんまつまの時、これは到底医学的にも、常識的にも考えられない(これこそ全く神秘的と云う以外に言葉は無い)、父は〝ガバッ〟と蒲団ふとんの上にすわられて、

奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんから木曽きそ三浦山みうらやまを見よ!」

と絶叫せられてガクッと息を引取られたのであります。これが即ち

「神皇正統家極秘伝神風串呂」

の秘伝であったのであります。並み居る人々は皆「ワァワァワァ」と叫ばれたと言って居りましたが、私にはハッキリと

奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんから木曽きそ三浦山みうらやまを見よ!」

と聞き取れたのであります。〔編注6〕

〔編注6〕木曽の三浦山・奥郡の蔵王山
三浦山(長野県木曽郡王滝村)は、中央アルプス御嶽山おんたけさんの西南方に位置する標高2,393mの山岳信仰の山として有名。西南方に「三浦貯水池」「三浦ダム」などがあります。

奥郡の蔵王山(愛知県田原市)
奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんは豊橋の西南方10kmにある標高250メートルの山。平安朝末期、今の三重県熊野地方の一族が移住して山岳信仰の中心地とされ、江戸時代には田原藩の「狩り」の場所として利用された。奥郡おくごおりとは、田原市赤羽根あかばね町・渥美あつみ町近辺を指す。現在、蔵王山展望台は、360度の大パノラマを満喫できる渥美半島の東の玄関口として観光スポットになっている。

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🟠長野県木曽郡王滝村の三浦山(国土地理院地図)

🟠三浦貯水池(長野県木曽郡王滝村)

長野県木曽郡王滝村の「三浦貯水池」

🟠愛知県田原市の蔵王山

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3、破産により一家離散、安楽寺の小僧となる

父が昇天されまして、葬儀を済ませ、三七さんしち、二十一日の三七日みなぬかを済ませた夜、親族会議が開かれまして、先祖伝来の山林・田地・田畑・家屋敷・屋財家財に至るまでことごとく売り払って借金の整理をするということにきまりまして、そして父の満中陰まんちゅういんおわって総てが人手に渡り、
 
兄の三浦延治えんじ〔編注7〕は大門の分家に預けられ、私は一時母の郷里の菩提寺ぼだいじ(親戚)宮崎山伝正院みやざきざんでんしょういんに、二歳下の弟元一もとかず(僧名良俊りょうしゅん)と一緒に預けられ、母は四歳になる妹と生まれて三ヶ月程の弟(三浦秀吉みうらひできち)〔編注8〕とを連れて里へ帰られるという状況になりました。
 
私は伝正院で見習をしましてから、現在の蒲郡がまごおり清田せいだ町の楠林山安楽寺なんりんざんあんらくじ富永とみなが慶法けいほう〔編注9〕の弟子となり、弟は現在の西尾市寺津てらづ妙光寺みょうこうじの弟子にやられ、かようにして一家ことごとく離散したのであります。

楠林山安楽寺本堂(『安楽寺 (蒲郡市)- Wikipedia』)

私は、この父が「奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんから木曽きそ三浦山みうらやまを見よ!」と云われたことが気になって、この事を師匠ししょうの富永慶法老師に申し上げまして、許しを受けて、
 
奥郡の蔵王山(愛知県田原市)へ参って木曽の三浦山(御嶽山おんたけさんの西方、長野県木曽郡王滝おうたき村にあります。)の方向を見ましたが、何やら神秘な感じは致しましたが、最初は何だかさっぱり分かりませんでした。

〔編注7〕三浦延治(みうらえんじ)
三浦芳聖の次兄で、明治35年〔1902年〕壬寅みずのえとら年生まれ。三浦家破産後は牧平大門の分家(叔母)に預けられ三浦家の家督を相続した。妻帯したが子宝には恵まれなかった。後年、大森一声おおもりいっせい西郷隆秀さいごうたかひで等と共に昭和維新運動に邁進まいしんした。

〔編注8〕三浦秀吉(みうらひできち)
三浦芳聖の末弟で大正2年〔1913年〕癸丑みずのとうし年生まれ。大森一声の門下で昭和維新運動に邁進した。「昭和風雲録」に名前がっている。

〔編注9〕富永慶法(とみながけいほう)
大正2年〔1913年〕8月24日、三浦芳聖が得度した時の安楽寺の和尚おしょう。後に京都の浄土宗西山深草派の総本山誓願寺せいがんじ法主ほっす(管長)となる。

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4、学生時代に三浦山まで行脚

私は数え年十五歳の春(大正七年〔1918年〕三月)、師匠よりいとまを頂きまして京都へ上洛致しまして、中学四年の編入試験に合格致しました。
 
私は幼少の頃より絶えず母から「尊良たかなが親王」〔編注10〕(この方は終戦後になってから「尊良天皇◎◎」であらせられる事が判明致しました。)の再現と聞かされていましたから、
 
東山永観堂ひがしやまえいかんどう禅林寺ぜんりんじ)〔編注11〕三百メートル程前の「尊良親王」の墓の近くの〔京都市左京区〕若王子にゃこうじ町の「藤田姓」の農家の二階に下宿して、働きながら中学を四年五年と修了し、
 
更に鹿ヶ谷ししがたにの仏教専門学校に三年間学びましたが、その間におきましても絶えずこの事が苦になりまして、十年間に六回も蔵王山に参りました。一度は此処ここから木曽の三浦山に向って行脚あんぎゃをした事もあります。

〔編注10〕尊良親王(たかながしんのう)
後醍醐天皇第一皇子で三浦芳聖家の直系遠祖。戦後、神界からの霊示に基づき三浦芳聖が解明した串呂により、延元元年〔1336年〕10月9日、比叡山に於て後醍醐天皇から皇位を継承したことが判明した。
【参照】尊良(南朝東山)天皇

〔編注11〕東山永観堂(ひがしやまえいかんどう)
京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山せいざん禅林寺派の総本山「禅林寺」のこと。

6頁


5、三浦山と蔵王山との神風串呂

だんだんと成長致しまして、専門学校へ入るようになってからは、相当の知識も持って参りましたから、五万分の一や二万五千分の一、その他二十万分の一の地図等を購入して、その地図で木曽の三浦山と奥郡おくごおりの蔵王山とを糸を以て引っぱってみますと、
 
その一直線上に、「三浦山」、岐阜県中津川市付知つけち町の「大門だいもん」、岐阜県恵那えな明智あけち町の「吉良見きらみ」、それから〔愛知県岡崎市夏山町〕寺野の「ちゝ薬師」〔薬師寺堂〕をとおりまして、

🟠中津川市付知町の大門町(国土地理院地図)

🟠岐阜県恵那市明智町「吉良見」


🟠愛知県岡崎市夏山町寺野「薬師堂」(google.map)

7頁


それが不思議にも私の降誕致しました、愛知県岡崎市牧平町(当時 額田郡豊富村)「大門」の、しかも二万五千分の一の地図だと大門は五軒しかありませんから、その点々の中の「私の降誕した箇所」を串呂して、「宮路山みやじやま」を串呂して、蒲郡市大塚町の「大門だいもん」(当時は愛知県宝飯ほい郡大塚村の大門)を串呂して、それが愛知県田原市の「蔵王山」に串呂しています。

🟠岡崎市牧平町大門

🟠愛知県豊川市赤坂町「宮路山」


🟠愛知県蒲郡市大塚町大門


すなわち「大門」という所が三ヶ所も串呂して、しかも「三浦山」と「蔵王山」の線上に「私の降誕した所」がピシンと串呂しています。

「蔵王山」と「三浦山」とを結ぶ大門三串の串呂

私が二十一歳になって徴兵ちょうへい検査が済んだならば「三浦家」の大切なものが、お蔵の南に埋めてあるからということを言われましたが、これを見れば何かこの意味が分るのではないかということを感じておりました。

【串呂哲学の鉄則】
串呂は方角の正しいメルカトール図法で作成されている国土地理院発行の20万分の1の地勢図を使用します。細部は5万分の一の地図やWEB地図などで調べます。

8頁


6、一子相伝の系譜を掘り出す

しかして大正十三年〔1924年〕の六月、壮丁そうてい検査を受けまして私は甲種こうしゅ合格(歩兵)となりまして、六月三十日、父の第十一回目の御命日の日に、牧平大門の元屋敷のお蔵の南の位置から、父の遺言ゆいごん通りの「三浦皇統家系譜及び重要記録」の納められたかめを掘り出す事が出来まして、これを東京の下宿まで持ち返りまして、これを精読せいどくして実に吃驚びっくり致しました。
 
その系譜は大体に於て巻頭にかかげてある通りでありますが、本文の節々ふしぶしに述べてあります様に、詳細にあらゆる事が記録せられていました。

 

9頁


7、系譜により串呂の要諦が解明される

これに依りまして私は、これは重大なことであると感じて、更にこの串呂を上〔北方〕に延長して見ますと、富山県中新川なかにいかわ立山たてやま町の「大日岳だいにちだけ」に串呂しています。

🟠富山県中新川郡立山町「大日岳」


すなわち次が長野県木曽郡王滝村の「三浦山」、それから岐阜県中津川市付知町の「大門だいもん」、仝県恵那市明智町の「吉良見きらみ」〔編注12〕、「吉良見」とは「よしながを見よ」ということである事をその時覚りました。
 
次が〔三浦家〕極秘伝の記録にある神皇正統しんのうしょうとう第百代「大宝たいほう天皇(御名おんな美良よしなが後称こうしょう三浦藤太夫みうらとうだゆう)」が、御父おんちち神皇正統第九十九代「松良まつなが天皇(御名正良まさよし)」を
 
正平しょうへい十九年甲辰きのえたつ年〔1364年〕八月八日の薬師如来やくしにょらい御正当日ごしょうとうびの御降誕なるゆえを以て「薬師如来」として隠祀いんしせられ、「寺野ちゝ薬師」と名付けられたという、愛知県岡崎市夏山町(当時〔額田郡〕豊富村)寺野の「ちゝ薬師」〔編注13〕をピシンと串呂し、
 
それから私の「降誕地牧平大門」をピシンと串呂し、次は愛知県豊川市赤坂町の「宮路山みやじやま」〔編注14〕をピシンと串呂しています。
 
この「宮路山」は「大宝天皇」が「炭焼すみやき」に扮装ふんそうして隠棲いんせいされていた御座所ござしょの跡であります。

〔編注12〕吉良見(きらみ、岐阜県恵那市明智町)
吉良見は「きらみ」と発音しますが、吉良は「よしなが」と読めますので「吉良見」は「よしながをみよ」と読み、「美良よしなが(大宝天皇)を見よ」という意味に解釈します。国内唯一の地名

〔編注13〕寺野ちゝ薬師(てらのちちやくし)
愛知県岡崎市夏山町寺野にある「薬師寺堂」で、樹高で愛知県一の大楠がこの御堂を守護するかのように生い茂っている。三浦家に伝承された系図には、寺野の薬師堂は大宝天皇の行在所あんざいしょで、大宝天皇の御父・松良天皇が陰暦8月8日(お薬師さんの正当日=縁日)の降誕ゆえ、薬師如来とし、その皇后を毘沙門天として隠祀したので「ちち薬師」と称したと記されてあった。【参照】薬師堂

〔編注14〕宮路山(みやじやま/みやじさん)
宮路山(愛知県豊川市赤坂町)は、標高362メートルの山岳で、大宝天皇の隠棲地いんせいち。宮路は「宮様(大宝天皇)のたどった路」を表わす。三浦家の系図には、大宝天皇が炭焼きに扮装ふんそうして隠棲していたと記されてありました。

宮路山には、大宝2年(702)持統天皇の御幸があったことを顕彰する「宮路山聖跡」の石碑があります。宮路山への持統天皇の御幸みゆきの真偽はとも角として、「持統天皇」「大宝2年」「御幸」「聖跡」は、「皇統(統)を辛くも継承(保持)した大宝天皇がこの地に隠棲していた聖跡」であると解読いたします。

三浦家の系図以外に、どこにも記録されていない大宝天皇に対する串呂主宰神(天地神明)の配慮(神経綸かみしくみ)だと拝察しています。

10頁


次は蒲郡市大塚町「大門だいもん」(当時宝飯郡大塚村)を串呂し、次が愛知県田原市の「蔵王山ざおうざん」であります。すなわち

蔵王山と三浦山とを結ぶ大門三串の串呂

大日岳だいにちだけ」―「三浦山みうらやま」―「大門🔴」―「吉良見きらみ」―「寺野ちゝ薬師」―「大門🔴」―「宮路山みやじやま」―「大門🔴」―「蔵王山ざおうざん
 
の「大門」と云う地名が三箇さんこ串呂(-🔴-🔴-🔴-)した、しかも私の降誕地の「大門」が真中まんなかに在るのですから、私は極秘伝された「三浦皇統家系譜」と照合して、これは神皇正統第百代「大宝たいほう天皇」は御名おんなが「美良よしなが」で、
 
この「大宝天皇」が紀元二千百十四年(享徳きょうとく甲戌きのえいぬ年)〔1454年〕掛巻かけまくあやかしこき「天照大御神あまてらすおおみかみ」の神命しんめい〔編注15〕をこうむられて、
 
牧平大門に移って「三浦藤太夫みうらとうだゆう」と称されたのでありますから、この「美良よしながを見よ」―(吉良見)、すなわち「天皇(大日)がこの線上にかくれられ三浦と名乗られた」とようやく満十三年間もかかって、父御臨終ごりんじゅう御遺言ごゆいごん奥郡おくごおり蔵王山ざおうざんから木曽きそ三浦山みうらやまを見よ!」を解くことが出来ました。

11頁 


〔編注15〕天照大御神の神命
神皇正統第百代・大宝天皇(いみな・美良=よしなが)は、無二心忠誠の臣らと共に、永享えいきょう10年(1438年)、愛知県岡崎市切越町に隠棲され、以後、大般若経600巻を念書され、後世こうせい直系皇孫ちょけいこうそん神武じんむ応神おうじん後嵯峨ごさが後村上ごむらかみ松良まつなが五皇一体ごこういったいの八幡大明神を降誕せしめて必ず天下を平定し給わん事をと、皇威こういの回復を熱祷祈願ねっとうきがんされました。

その後、満16年間にわたる大般若経600巻の写経の行が満願に達した享徳きょうとく3年(1454年)、その至誠が天照大御神の御心みこころに達し、はからずも天照大御神より

「後世直系皇孫に神武・応神・後嵯峨・後村上・松良五皇一体の八幡大明神を降誕せしめ、必ず天下を平定せしめるから、今は三種の神器を地下深く埋蔵してあめ岩戸篭いわとごもりとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗りて三浦藤太夫と称し、牧平大門に移住して、子々孫々天運循環てんうんじゅんかんの時を待て!」

という主旨の御神諭ごしんゆをこうむり、神命のまにまに、享徳きょうとく3年(1454年)岡崎市牧平町大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵まいぞうして、皇后三浦佐久姫(建武の中興で活躍した富士大宮司家、三浦氏の嫡女)の姓を名乗り、三浦藤太夫みうらとうだゆうと称し純然たる百姓となられました。

🟡寺野薬師堂の大楠(愛知県岡崎市夏山町/樹高で愛知県一)

寺野薬師堂の大楠(「オカトピ」より転載)

【参照】正統天皇が天の岩戸篭りし三浦と名乗った!(№3)

12頁


8、天子ヶ岳と牧平町大門との串呂

その頃は、まだ正真正銘しょうしんしょうめいの「天皇」という地名が日本中に三箇所さんかしょ在るという事〔編注16〕は全然知りませんでしたが、ただ静岡県富士宮ふじのみや市に「天子ヶ岳てんしがだけ」の在る事は知っていましたから、
 
二十万分の一の地図をつないで、早速この「天子ヶ岳」と三浦皇統家みうらこうとうけ四百六十年間蒙塵之地もうじんのち「牧平大門」と串呂して、ずっと延長すると

🟠静岡県富士宮市「天子ヶ岳」

高知県高岡たかおか日高ひだか村の「猿田さるだ」を串呂し、更にこれを延長すると、天孫降臨てんそんこうりん発祥はっしょうの地「⛩高千穂たかちほ神社」にピシンと神風串呂しています。

🟠「天子ヶ岳」と「牧平町大門」との串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

この串呂によってこれは確かに「三浦皇統家系譜」は正真正銘のものではないかと、ひそかに考える様になりました。

🟠高知県高岡郡日高村沖名猿田


🟠宮崎県西臼杵郡高千穂町「高千穂神社」

13頁


〔編注16〕三浦芳聖の主な串呂研究期間(1924年~1954年頃)には、岡山県新見にいみ哲西てっせい町の「天皇」、香川県坂出さかいで西庄にしじょう町の「天皇」、広島市安佐南区沼田町の「天皇原てんのうばら」の三ヶ所が地図上で確認できた。その後、哲西町「天皇」は地図作成時の誤記で、正しくは「天王てんのう」であることが判明した。参考の為、新見市哲西町の「天王てんのう」を中心とした十文字串呂を掲げます。

🟠新見市哲西町天王を中心とする十文字串呂
各地文⭕の間隔がほぼ等距離に構築されている。

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

・・・・・

又〔三浦系譜には〕「大宝たいほう天皇」が「応神おうじん天皇」の第二皇子「大山守皇子おおやまもりおうじ」第六十一世の嫡女ちゃくじょ三浦佐久姫みうらさくひめ」(元富士大宮司家ふじだいぐうじけ)を皇后とせられ、牧平大門に移住して「三浦藤太夫みうらとうだゆう」と称されたとありますから、

富士大宮司家嫡女・三浦佐久姫の系譜

14頁


当時「藤太夫島とうだゆうじま」と云う地名が静岡県藤枝ふじえだ市本郷にあり、「佐久さく」と云う地名が仝県浜松市天竜区にあることを知りましたから、

🟠静岡県藤枝市本郷「藤太夫島」

🟠静岡県浜松市天竜区「佐久」

この「藤太夫島」と「佐久」とを串呂して、両方へ延長して見ますと、東方は千葉県館山たてやま市の「⛩安房大神宮あわだいじんぐう(元官幣大社かんぺいたいしゃ)」にピシンと串呂して居り、

🟠千葉県館山市大神宮「安房神社」

15頁


佐久さく」―「藤太夫島とうだゆうじま」―「⛩安房大神宮あわだいじんぐう」の神風串呂を西方へ延長して見た時、之がピシンと「三浦皇統家四百六十年間蒙塵もうじんの地・牧平町大門」を神風串呂しんぷうかんろしています。全く〔三浦家の〕系譜とピッタリ一致しているのに深く深く感銘かんめい致しました。

⛩豊富神社(グーグル地図「岡崎市牧平町大門」)より

しかして、この神風串呂を西方へ延長するとピシンと京都府八幡市の「⛩石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう」に神風串呂しています。

🟠京都府八幡市「石清水八幡宮」

三浦家極秘伝の記録に「大宝天皇」が「白鬚しらひげ大明神」を勧請かんじょうして「天照大御神」「豊受大神とようけのおおかみ」「猿田彦神さるたひこのかみ」を隠祀いんしされ、脇殿わきどのに「石清水八幡宮」を勧請かんじょうしてまつったとあることが、全く神風串呂に彰示されている。〔編注17〕

🟠「牧平大門」と「佐久」「藤太夫島」との串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

〔編注17〕白鬚大明神(滋賀県高島市鵜川)
この白鬚大明神の串呂の中に、下記の神風串呂が解明されている。

「⛩白鬚大明神」ー「⛩外宮」ー「⛩内宮」ー「*竜巻現場」

🔴白鬚大明神(猿田彦神)=⛩外宮(豊受大神)+⛩内宮(天照大御神)

*竜巻現場・・・昭和31年1月18日、三重県志摩市大王崎東南方海上で発生した高さ400メートルの竜巻のこと。

16頁


9、皇大神宮内宮と藤太夫島との串呂

古来より皇室に於て二所の宗廟にしょのそうびょうと称して深く深く尊崇そんすうされたのは、「⛩皇大神宮内宮こうたいじんぐうないくう」と「⛩石清水いわしみず八幡宮」でありますから、
 
藤太夫島とうだゆうじま」と「佐久」を串呂した神風串呂が「⛩石清水八幡宮」に神風串呂しているのですから、早速「⛩皇大神宮内宮」と静岡県藤枝市本郷の「藤太夫島」と串呂して見ますと、

🟠三重県伊勢市宇治館町「⛩皇大神宮内宮」

線上、愛知県田原市の「高松たかまつ町」を串呂し、仝県豊橋市の「小松原こまつばら町」を串呂し、静岡県浜松市西区庄和町の「和田わだ地区」を串呂し、仝県仝市浜北区の「小松こまつ」を串呂し、

🟠愛知県田原市「高松町」

17頁


🟠愛知県豊橋市「小松原町」

🟠静岡県浜松市西区庄和町「和田地区」

🟠静岡県浜松市浜北区「小松」

18頁


次に〔三浦家〕極秘伝の記録に銘記めいきされている「小松こまつ上皇」(松良天皇御父)〔御名興良おきよし〕が、秋葉城〔静岡県浜松市天竜区春野町領家りょうけ〕の戦に敗れて足利逆賊の分家一方いっぽう旗頭はたがしら今川逆賊に捕われ、京都へ送られ、拷問ごうもんの為、遂に牢死ろうし崩御ほうぎょ遊ばされ、
 
この報が伝聞さるるや、「松良天皇」側近の忠臣等が「松良天皇」の御裁可ごさいかを仰いで「小松天皇」の御遺品を納めて築造された、静岡県磐田市神増原かんぞばら台上の「小松天皇御陵」の位置をピシンと神風串呂しています。

静岡県磐田市神増原(国土地理院地図)

この次が「藤太夫島」で、これを延長すると沼津市の「松長まつなが」(松良まつなが諺文おんぶん)〔編注18〕をピシンと串呂し、なお延長すれば神奈川県小田原市の「聖岳ひじりだけ」へピシンと串呂しています。

🟠神奈川県小田原市「聖岳」

19頁


「聖岳」は「大日岳」同様「天皇」の御事であります。即ち
 
「⛩皇大神宮内宮こうたいじんぐうないくう」—「高松たかまつ町」―「小松原こまつばら町」—「和田わだ地区」―「小松こまつ」―「小松こまつ天皇御陵」—「藤太夫島とうだゆうじま」―「松長まつなが」―「聖岳ひじりだけ
 
の神風串呂で、全く「三浦皇統家系譜」の「興国こうこく天皇」「小松こまつ天皇」「松良まつなが天皇」「大宝たいほう天皇」(後称「三浦藤太夫」)の内の三代の「天皇」の系譜を実証されているごとくであります。

🟠「⛩皇大神宮内宮」と「藤太夫島」との神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 序文

〔編注18〕諺文(おんぶん/おんもん)
諺文おんぶんとは地名の読み方や意味を転化させて地文ちもんを解読する技法「諺文学おんぶんがく」のこと。「おんもん」とも云う。符号・代名詞と解読すると理解しやすい。詳細は下記を参照下さい。
【参照】串呂哲学とは(2)串呂哲学の解読法

20頁


10、皇大神宮内宮と天竜区佐久との串呂

次に静岡県浜松市天竜区の「佐久さく」と「⛩皇大神宮内宮こうたいじんぐうないくう」と串呂して、之を上方に延長すると静岡県駿東郡すんとうぐん小山おやま町の「大御神おおみか」の地名にピシンと神風串呂しています。

🔴静岡県駿東郡小山町「大御神」

静岡県駿東郡小山町大御神(地図マピオン)

「古事記」(上巻)天孫降臨てんそんこうりんの章に『これみかがみは、もは御魂みたまとして、みまえいつくが如く、いつまつれ、次に思金神おもいかねのかみは、みまえの事を取り持ちてまつりごとたまへとのりたまひき。此の二柱ふたはしらの神は、佐久久斯侶さくくしろ伊須受能宮いすずのみやいつき祭る。』とあります。
 
尚この「⛩皇大神宮内宮」―「佐久さく」―「大御神おおみか」の神風串呂を西南方に延長すると、奈良県吉野郡の「大日岳だいにちだけ」をピシンと串呂し、更に延長すれば仝県仝郡十津川村の「三浦峠みうらとうげ」に串呂しています。

🟠奈良県吉野郡下北山村「大日岳」


🟠奈良県吉野郡十津川村「三浦峠」

21頁


即ち〔南西から〕「三浦峠みうらとうげ」―「大日岳だいにちだけ」―「⛩皇大神宮内宮こうたいじんぐうないくう」—「佐久さく」―「大御神おおみか」の神風串呂であります。

🟠「皇大神宮内宮」と「佐久」との神風串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

この神風串呂の関連性を以て、かくの如く神風串呂の地文の上に昭示あらせ給う上は、我が極秘伝の「三浦皇統家の系譜」は正真正銘しょうしんしょうめいのものに間違いないと確信する様になりました。

🟠二所の宗廟から「佐久」「藤太夫島」への串呂

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 第七章

22頁


おわりに

明治維新150年余の今日、明治維新は、長州が室町時代以後、長期間にわたってご守護申上げてきた南朝の王孫を奉じての王政復古であったという「明治維新南朝革命説」が唱えられ、その関係の書籍も出版され、ちまたでは、ほぼ定説化しつつあります。

皇居前に建立された南朝大忠臣「楠木正成」の銅像

南朝の王孫を奉じての明治維新・王政復古が成功した遠因(思想的源流)は、江戸時代に皇統の正閏せいじゅんただした水戸光圀みとみつくにの「大日本史」の南朝正統論にさかのぼるようですが、日本の神々ことに伊勢神宮の神々が、この「南朝正統論」を強力に支持され、明治維新・王政復古を応援して下さったようであります。
 
その証拠には、それまで歴代大王・天皇が誰一人正式参拝して来なかった伊勢神宮に、明治維新以後、皇室が伊勢神宮の神々を最も崇敬すうけいし、正式参拝している現状から推し量ることが出来ます。

この辺りの消息は、国民には知らされていないだけで、これは紛れもない状況証拠であると言えます。

すなわち、本書11頁に記載されている「天照大御神の神命」に明瞭に述べられているように、後醍醐天皇の嫡皇孫「大宝天皇(美良)」の満16年間にわたる写経による熱祷祈願(1454年)が、天照大御神の御心に叶い、その414年後に明治維新・王政復古(1868年)となったのであります。

このように、我が日本国に於ては、皇統の正閏せいじゅんただすことが、皇祖神を動かし、時代を進展させ、国家を繁栄させる上に、如何に重要であるかがここからうかがわれます。
 
本書「神風串呂神伝」は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(復刻版)の序文の冒頭部分であることは、すでに「はじめに」でお知らせした通りでありますが、この『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は三浦芳聖が解明した神風串呂の集大成ともいうべき著書で、書名のごとく「神風串呂」によって、我が国の歴史(南北朝以降の皇統の正閏)を根本的に糺す書であります。
 
「神風串呂」の主宰神は、元伊勢クシロを構築された伊勢神宮の神々でありますので、いずれの日にか皇政復古が実現することは火を見るよりも明らかでありますが、その日が何時になるかは、私ども日本国民の真実への覚醒次第であるのです。

編集者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。

著 書
神風串呂入門
ここまで解った元伊勢伝承
開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道
天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編
など多数

ブログ
串呂哲学研究ノート

23頁


神風串呂神伝

著     者 三 浦  芳 聖
編集発行  鈴木 超世志
発  行  所 串呂哲学研究会
発  行  日 2023年1月17日
ブ ロ グ 串呂哲学研究ノート
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)


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