三浦芳聖 著「神風串呂神伝」オンライン復刻版 編集 串呂哲学研究会
編集者ご挨拶
串呂哲学研究会
🟠なぜ神風串呂は構築されたのか
多くの方々にとって「神風串呂」(「かみかぜくしろ」とも言う)という言葉にはなじみが無いと思いますので、「神風串呂とは何なのか、なぜ構築されたのか」について簡単に説明させて頂きます。
古代から、「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国」と言われるように、神風といえば「伊勢」の枕詞で、この神風という言葉は、伊勢神宮の神々と密接な関係があるようです。
伊勢神宮の神々と云えば、皇大神宮内宮に鎮まります「天照大御神」がその代表的な神様です。
この天照大御神が伊勢にお鎮まりになった事蹟は「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世記」による元伊勢伝承で明らかになっていますが、天照大御神は、なぜ都を遠く離れた辺鄙な伊勢地方を選んでお鎮まりになったのかについては、これまで謎とされて来ました。
三輪義熈著「神皇記」や富士古文献には、第10代崇神天皇の御代、富士山麓の「阿祖山太神宮」で祭祀していた「天照大神の神霊と三品の大御宝」を大和地方に移した事蹟が詳細に語られています。
この「天照大神の神霊と三品の大御宝」が大和地方に移された事蹟と、神風串呂が構築された理由とは密接な関係がありますので、この辺りの事情から述べてみたいと思います。
🔴天照大御神を表わす静岡県駿東郡小山町「大御神」
🟡崇神天皇、天照大神の遺勅を破る!
第10代崇神天皇は、日本書紀に「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と記されているように、大和地方を中心にした新国家建設に当たって、王権の源泉である祭祀権を掌中に納める必要性を痛感し、崇神5年3月、富士山麓の「高天原神都麻呂山」でお祭りしていた皇祖・天照大神の神霊を大和地方へお移ししたと記録されています。(「神皇記」)
この時の状況を、富士古文献の権威「加茂喜三氏」が、分かりやすく記述して下さっていますので、下記に引用させて頂きました。(以下同様)
崇神天皇は続いて、富士山麓の「高天原元宮七廟惣名阿祖山太神宮」に納められていた「三品の大御宝」を大和地方に移し大御神の神霊として祀らせたのですが、その時の事情が「神皇記」などの富士古文献には詳細に記述されています。
加茂喜三氏が述べているように、崇神天皇が富士山麓で祭祀されていた天照大神の神霊を大和地方に移し、阿祖山太神宮に納められていた「三品の大宝」を大和地方に移し、天照大神と倭大国魂神を宮中で祭祀した後、崇神天皇の御代がどのようになったかは、日本書紀に明記されています。
『崇神天皇- Wikipedia』には下記の様に出ています。
以上の資料を総合して考察しますと、下記の様にまとめることが出来ます。
・・・・・
🟡「記紀」の記述だけでは、崇神天皇の御代になぜ疫病が発生して人口の半ばが失われたのか、なぜ天照大神と大国魂神を宮城外に出さねばならぬほどの畏怖すべき事象が起きたのか、その根本原因が分からないのですが、富士古文献には上記の様にその顛末が詳細に記録されていたのです。
こうした事蹟が「記紀」に記述されてなかったのは、大和朝廷(記紀を編集した後継者)に都合の悪い事だったからで、それを一言で云ったら
🔴天都・高天ヶ原(富士王朝)隠し
🔴富士王朝の祭祀権(神々と神宝)奪取事件の隠蔽
ということになるかと思います。
実際、「記紀」には「富士山」についての記述は全くないのです。記紀編集者にとって富士王朝の存在はタブーだったのです。
また、崇神天皇による「三種の神器」の大和地方への奉遷(移動)は、「三種の神器は、富士阿祖山太神宮でお祭りするように」という天照大御神の遺勅(神定憲法)を破る重大な違反行為でした。
日本書紀に明記されている崇神天皇の御代に起きた凶事の根本原因は、崇神天皇が富士山麓の天都・高天ヶ原で祭祀されていた「天照大神の神霊と三品の大御宝」を、天照大御神の遺勅を無視し、権力を行使して大和地方に移したため、皇祖神(天照大御神・大国魂神)がお怒りになって祟りをなしたからだ!と理解する事は、神風串呂とは何かを理解する上で極めて重要であります。
🔴茨城県鹿嶋市「高天原」
🟡元伊勢伝承は串呂構築の旅だった!
崇神天皇は、天照大神を皇女・豊鍬入姫に託して笠縫邑に祭らせましたが、天照大神は笠縫邑の天照皇太神宮(現在の檜原神社)にお鎮まりにならず、
崇神39年、理想的な鎮座地を求めて豊鍬入姫命とともに笠縫邑を出発され、京都府福知山市大江町内宮の元伊勢内宮皇大神社に4年間駐屯されたのを皮切りに各地を巡行され、
のちに第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命がこれ(御杖代)を引き継ぎ、およそ90年かけて垂仁天皇の25年3月、現在地の伊勢神宮にお鎮まりになられました。
🔴⛩伊勢神宮は、都を遠く離れた辺鄙な伊勢地方にある!
元伊勢伝承を長年研究した山田雅晴氏によれば、天照大御神が、各地を巡行したのは、元伊勢神社による結界を張るためで、古神道では結界のことをクシロといい、「元伊勢クシロ」という皇室守護の結界を張るためだったと述べています。(『続・太陽の神人黒住宗忠』146頁、たま出版)
山田雅晴氏のいう「元伊勢クシロ」の「クシロ」は、正に串呂(かんろ)のことであります。
当時の人々に串呂(かんろ)と言っても理解させることが難しかったのと極秘で串呂を構築していた為、結界を張るためと言っていたのでしょう。
「クシロ」が串呂(かんろ)であることは、三浦芳聖によって解明された下記の神風串呂によって明らかとなりました。
🔴結論を先に述べますと、佐久久斯侶=佐久串呂なのです。
🟡「⛩皇大神宮内宮」と「佐久」との神風串呂(本書10参照)
天照大神の遺勅に反して大和地方に移された天照大神(三種の神器)は、将来、我が国に起きるであろう皇統の危機を予見して、戦争の勝者や時の権力者によって隠蔽、破壊、偽造、改竄されることのない「真の皇統史」を地文に秘めておこうと考えられ、その後、およそ2000年という長期間を掛けて構築されたのが神風串呂なのです。
・・・・・
🟡⛩元伊勢内宮皇大神社を基点とする神風串呂の一例
⛩金崎神宮で自害された尊良親王(実は天皇・大君)は、三浦芳聖の遠祖で、串呂では「上村上天皇」と尊称申上げる。
🟡神風串呂神伝は、神風串呂解明物語である!
今回お届けする「神風串呂神伝」は、後醍醐天皇の嫡皇孫、神皇正統第百代「大宝天皇(美良)」と富士大宮司家の嫡女「三浦佐久姫」両者の血統を撚り合わせた三浦皇統家の嫡皇孫「三浦芳聖」が、幼年期に神風串呂を神伝されたあと、13年掛かってその要諦を解明するに至った「神風串呂解明物語」です。
三浦芳聖により解明された「神風串呂」によって、これまで謎とされていた、元伊勢伝承の各地巡行の目的や、天照大御神が辺鄙な伊勢地方にお鎮まりになった理由が初めて解明されたのです。
🔴元伊勢伝承=神風串呂構築の旅
🔴伊勢神宮=神風串呂の重要拠点
本書を最後までお読み下されば、串呂主宰神・天照大御神による「神風串呂神伝」、その結果解明された「神風串呂」、更には日本国の実相が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!
本書「神風串呂神伝」は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(1970年発行)の巻頭部分です。
難読漢字には読み仮名を付し、現代人になじみの無い漢字は平仮名に変換し分かりやすい「編注」や「解説」を加え、原著にはない画像やWEB地図を掲載するなど、どなたにも親しみやすく理解しやすいように編集いたしました。
2023年1月17日
串呂哲学研究会 鈴木超世志
目 次
はじめに
🟠なぜ神風串呂は構築されたのか
🟡崇神天皇、天照大神の遺勅を破る!
🟡元伊勢伝承は串呂構築の旅だった!
🟡神風串呂神伝は、神風串呂解明物語である!
神皇正統の皇統(系譜)
南朝副統の王統(系譜)
著者真影
凡例
神風串呂神伝
1、一子相伝の系譜の在処を秘伝される
2、奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!
3、破産により一家離散、安楽寺の小僧となる
4、学生時代に三浦山まで行脚
5、三浦山と蔵王山との神風串呂
6、一子相伝の系譜を掘り出す
7、系譜により串呂の要諦が解明される
8、天子ヶ岳と牧平町大門との串呂
9、⛩皇大神宮内宮と藤太夫島との串呂
10、⛩皇大神宮内宮と天竜区佐久との串呂
神皇正統の皇統(系譜)
南朝副統の王統(系譜)
著者真影
凡 例
🟢旧漢字は固有名詞等の一部を除き新漢字に変換し、旧仮名遣づかいは新仮名遣いに変換しました。「寺野ちゝ薬師」以外の「ゝ、ゞ」は普通の文字で表記し、拾→十、壱→一、云→言、皈→返、米→メートルなどと表記し、本文中の引用箇所は、「 」『 』【 】で明確にしました。
🟢横書き用記述に合わせて「串呂地文連記」の東西・南北の方向を反転した場合もあります。
🟢改行で一行空けるようにし、さらに適宜改行を補い、難読漢字にはルビを付し、句読点や括弧等を補い、見出しを付け、原著にはない串呂図や系図、写真・画像、WEB地図、記号(⛩)、絵文字(🟠)等を挿入し、資料先のサイトをリンクしました。頁数は本書独自の頁数で原著とは関連していません。
🟢明らかに誤字・脱字・誤記と判明している箇所は訂正し、個人情報保護の為に固有名詞などの関係個所を一部削除したり簡略化しました。
🟢只(ただ)、云(い)う、之(これ)、此(こ)の、尚(なお)、即(すなわ)ち、其(そ)の、其方(そなた)、只管(ひたすら)、然(しか)も、而(しか)も、若(も)し、乍(なが)ら、斯様→かよう、依(よ)る、などの漢字を平仮名に変換し、聖父、聖母は父、母と表記しました。
🟢旧住所は文意を損なわない限りにおいて最新住所に変換しました。
🟢理解を助けるため〔編注〕を付し、著者による(括弧書きの一部)を〔編注〕として別記し、必要に応じて〔三浦家〕極秘伝のように〔 〕で補いました。
🟢和暦の後に西暦を補いました。例、明治37年〔1904年〕。
神風串呂神伝
1、一子相伝の系譜の在処を秘伝される
私が、神皇正統家極秘伝神風串呂及び三浦皇統家系譜と申しますのは、私の父・三浦市次郎(宗心之命)〔編注1〕が、
どのように神風串呂の秘法を先祖代々から秘伝せられていたか全く不明でありますが、とにかく一子相伝に系譜その他の記録を甕の中に納めて地下へ深く埋蔵して伝承されたのでありますから、神風串呂の秘法も確かに一子相伝に秘伝されたものと想像致します。
何分私が数え年十歳、満齢で八歳と九ヶ月で吾が父・三浦市次郎(宗心之命)が昇天されたのでありますから、全然生前に於いては、私はそのことを承っておりません。
ただ私は、母からは、一日に一度は必ず、そなたは「後醍醐天皇」第一皇子「尊良親王」の再現であります。「尊良親王」と言う方は越前金ヶ崎城に於て云々・・・・・と言い聞かされ、
母の里、河合家の菩提寺「宮崎山伝正院」〔編注2〕の太子堂へ連れて行っては、あなたは此処にお祀りしている太子様が生まれ替っておいでになったのだと、ひたすらに尊良精神〔編注3〕を打込んで養育されていました。
1頁
大正二年〔1913年〕六月三十日、父が昇天せられる日の朝、(当時は額田郡一手販売の肥料商を営んで居りましたから、丁度田植時で、三浦家累代の御出入の中西久次郎氏〔編注4〕が運送馬車十台も石灰を積んで差配して来たので、母はその振り分けに出ていられたので)、病床の父の枕元にて、私が唯一人で看護しておりました時に、父は
「この度は到底生き延びる事は出来ないであろう。もしも私が亡くなったならば、実は私は他で大変な事業を起して大失敗をしているから、まだお前のお母さんにも話をしていないけれども、先祖伝来の山林田地田畑のみならず、この家屋敷までも人手に渡り、そして一家は離散しなければならないようになるかも分からないが、どのようになろうとも、そなたは数え年二十一歳になって壮丁検査〔編注5〕が済んだならば、大門の屋敷(店は約五百メートル西南方にあった)のお蔵の南の所を三尺五寸〔132㎝〕程掘り下げると、大きな平石があって、その下に甕が埋けてあるから、此の甕を掘り出してみなさい。その中に三浦家の先祖代々一子相伝に秘伝されたものが入っている。但しこれを見たならば、また全然違う所に埋蔵して、この事は自分の母親にも兄弟にも、また成人して娶る妻にも吾子でも、この子に跡を取らせるという者以外には、絶対に語ることはならないという先祖伝来の固い掟になっている。だからそのことを固く守るように・・・・・」
と私に言い遺されました。
2頁
2、奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!
牧平の医者は結城周斉という方でありましたが、二三日前から「私一人ではどうも心細いから、本宿の富田医師を呼ばって頂きたい」と云う事で、富田医師も呼んで二人で立会って診察して居られましたが、
その日の午後には富田医師も「宇津野さん」を呼んでくれという事で、宇津野、結城、富田の三医師が百方手を尽して下さったが、午後五時頃、三人共「臨終」を告げられましたので、
全部障子をあけ拡げて大広間にしてしまって、親戚知人等全部集まりまして、皆それぞれ念仏をとなえながら、「かんじより」で父の口もとへ水をつけておりました。
そしていよいよ最期の断末魔の時、これは到底医学的にも、常識的にも考えられない(これこそ全く神秘的と云う以外に言葉は無い)、父は〝ガバッ〟と蒲団の上に座られて、
と絶叫せられてガクッと息を引取られたのであります。これが即ち
「神皇正統家極秘伝神風串呂」
の秘伝であったのであります。並み居る人々は皆「ワァワァワァ」と叫ばれたと言って居りましたが、私にはハッキリと
「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!」
と聞き取れたのであります。〔編注6〕
3頁
4頁
3、破産により一家離散、安楽寺の小僧となる
父が昇天されまして、葬儀を済ませ、三七、二十一日の三七日を済ませた夜、親族会議が開かれまして、先祖伝来の山林・田地・田畑・家屋敷・屋財家財に至るまで悉く売り払って借金の整理をするということに定りまして、そして父の満中陰を了って総てが人手に渡り、
兄の三浦延治〔編注7〕は大門の分家に預けられ、私は一時母の郷里の菩提寺(親戚)宮崎山伝正院に、二歳下の弟元一(僧名良俊)と一緒に預けられ、母は四歳になる妹と生まれて三ヶ月程の弟(三浦秀吉)〔編注8〕とを連れて里へ帰られるという状況になりました。
私は伝正院で見習をしましてから、現在の蒲郡市清田町の楠林山安楽寺の富永慶法〔編注9〕の弟子となり、弟は現在の西尾市寺津町妙光寺の弟子にやられ、かようにして一家悉く離散したのであります。
私は、この父が「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!」と云われたことが気になって、この事を師匠の富永慶法老師に申し上げまして、許しを受けて、
奥郡の蔵王山(愛知県田原市)へ参って木曽の三浦山(御嶽山の西方、長野県木曽郡王滝村にあります。)の方向を見ましたが、何やら神秘な感じは致しましたが、最初は何だかさっぱり分かりませんでした。
5頁
4、学生時代に三浦山まで行脚
私は数え年十五歳の春(大正七年〔1918年〕三月)、師匠より暇を頂きまして京都へ上洛致しまして、中学四年の編入試験に合格致しました。
私は幼少の頃より絶えず母から「尊良親王」〔編注10〕(この方は終戦後になってから「尊良天皇」であらせられる事が判明致しました。)の再現と聞かされていましたから、
東山永観堂(禅林寺)〔編注11〕三百メートル程前の「尊良親王」の墓の近くの〔京都市左京区〕若王子町の「藤田姓」の農家の二階に下宿して、働きながら中学を四年五年と修了し、
更に鹿ヶ谷の仏教専門学校に三年間学びましたが、その間におきましても絶えずこの事が苦になりまして、十年間に六回も蔵王山に参りました。一度は此処から木曽の三浦山に向って行脚をした事もあります。
6頁
5、三浦山と蔵王山との神風串呂
だんだんと成長致しまして、専門学校へ入るようになってからは、相当の知識も持って参りましたから、五万分の一や二万五千分の一、その他二十万分の一の地図等を購入して、その地図で木曽の三浦山と奥郡の蔵王山とを糸を以て引っぱってみますと、
その一直線上に、「三浦山」、岐阜県中津川市付知町の「大門」、岐阜県恵那市明智町の「吉良見」、それから〔愛知県岡崎市夏山町〕寺野の「ちゝ薬師」〔薬師寺堂〕を串りまして、
7頁
それが不思議にも私の降誕致しました、愛知県岡崎市牧平町(当時 額田郡豊富村)「大門」の、しかも二万五千分の一の地図だと大門は五軒しかありませんから、その点々の中の「私の降誕した箇所」を串呂して、「宮路山」を串呂して、蒲郡市大塚町の「大門」(当時は愛知県宝飯郡大塚村の大門)を串呂して、それが愛知県田原市の「蔵王山」に串呂しています。
すなわち「大門」という所が三ヶ所も串呂して、しかも「三浦山」と「蔵王山」の線上に「私の降誕した所」がピシンと串呂しています。
私が二十一歳になって徴兵検査が済んだならば「三浦家」の大切なものが、お蔵の南に埋めてあるからということを言われましたが、これを見れば何かこの意味が分るのではないかということを感じておりました。
8頁
6、一子相伝の系譜を掘り出す
しかして大正十三年〔1924年〕の六月、壮丁検査を受けまして私は甲種合格(歩兵)となりまして、六月三十日、父の第十一回目の御命日の日に、牧平大門の元屋敷のお蔵の南の位置から、父の遺言通りの「三浦皇統家系譜及び重要記録」の納められた甕を掘り出す事が出来まして、これを東京の下宿まで持ち返りまして、これを精読して実に吃驚致しました。
その系譜は大体に於て巻頭にかかげてある通りでありますが、本文の節々に述べてあります様に、詳細にあらゆる事が記録せられていました。
9頁
7、系譜により串呂の要諦が解明される
これに依りまして私は、これは重大なことであると感じて、更にこの串呂を上〔北方〕に延長して見ますと、富山県中新川郡立山町の「大日岳」に串呂しています。
すなわち次が長野県木曽郡王滝村の「三浦山」、それから岐阜県中津川市付知町の「大門」、仝県恵那市明智町の「吉良見」〔編注12〕、「吉良見」とは「よしながを見よ」ということである事をその時覚りました。
次が〔三浦家〕極秘伝の記録にある神皇正統第百代「大宝天皇(御名美良、後称三浦藤太夫)」が、御父神皇正統第九十九代「松良天皇(御名正良)」を
正平十九年甲辰年〔1364年〕八月八日の薬師如来の御正当日の御降誕なる故を以て「薬師如来」として隠祀せられ、「寺野ちゝ薬師」と名付けられたという、愛知県岡崎市夏山町(当時〔額田郡〕豊富村)寺野の「ちゝ薬師」〔編注13〕をピシンと串呂し、
それから私の「降誕地牧平大門」をピシンと串呂し、次は愛知県豊川市赤坂町の「宮路山」〔編注14〕をピシンと串呂しています。
この「宮路山」は「大宝天皇」が「炭焼」に扮装して隠棲されていた御座所の跡であります。
10頁
次は蒲郡市大塚町「大門」(当時宝飯郡大塚村)を串呂し、次が愛知県田原市の「蔵王山」であります。すなわち
「大日岳」―「三浦山」―「大門」―「吉良見」―「寺野ちゝ薬師」―「大門」―「宮路山」―「大門」―「蔵王山」
の「大門」と云う地名が三箇串呂(-🔴-🔴-🔴-)した、しかも私の降誕地の「大門」が真中に在るのですから、私は極秘伝された「三浦皇統家系譜」と照合して、これは神皇正統第百代「大宝天皇」は御名が「美良」で、
この「大宝天皇」が紀元二千百十四年(享徳三甲戌年)〔1454年〕掛巻も綾に畏き「天照大御神」の神命〔編注15〕を蒙られて、
牧平大門に移って「三浦藤太夫」と称されたのでありますから、この「美良を見よ」―(吉良見)、すなわち「天皇(大日)がこの線上に蔵れられ三浦と名乗られた」と漸く満十三年間もかかって、父御臨終の御遺言「奥郡の蔵王山から木曽の三浦山を見よ!」を解くことが出来ました。
11頁
🟡寺野薬師堂の大楠(愛知県岡崎市夏山町/樹高で愛知県一)
12頁
8、天子ヶ岳と牧平町大門との串呂
その頃は、まだ正真正銘の「天皇」という地名が日本中に三箇所在るという事〔編注16〕は全然知りませんでしたが、ただ静岡県富士宮市に「天子ヶ岳」の在る事は知っていましたから、
二十万分の一の地図をつないで、早速この「天子ヶ岳」と三浦皇統家四百六十年間蒙塵之地「牧平大門」と串呂して、ずっと延長すると
高知県高岡郡日高村の「猿田」を串呂し、更にこれを延長すると、天孫降臨発祥の地「⛩高千穂神社」にピシンと神風串呂しています。
🟠「天子ヶ岳」と「牧平町大門」との串呂
この串呂によってこれは確かに「三浦皇統家系譜」は正真正銘のものではないかと、秘かに考える様になりました。
13頁
🟠新見市哲西町天王を中心とする十文字串呂
各地文⭕の間隔がほぼ等距離に構築されている。
・・・・・
又〔三浦系譜には〕「大宝天皇」が「応神天皇」の第二皇子「大山守皇子」第六十一世の嫡女「三浦佐久姫」(元富士大宮司家)を皇后とせられ、牧平大門に移住して「三浦藤太夫」と称されたとありますから、
14頁
当時「藤太夫島」と云う地名が静岡県藤枝市本郷にあり、「佐久」と云う地名が仝県浜松市天竜区にあることを知りましたから、
この「藤太夫島」と「佐久」とを串呂して、両方へ延長して見ますと、東方は千葉県館山市の「⛩安房大神宮(元官幣大社)」にピシンと串呂して居り、
15頁
「佐久」―「藤太夫島」―「⛩安房大神宮」の神風串呂を西方へ延長して見た時、之がピシンと「三浦皇統家四百六十年間蒙塵の地・牧平町大門」を神風串呂しています。全く〔三浦家の〕系譜とピッタリ一致しているのに深く深く感銘致しました。
しかして、この神風串呂を西方へ延長するとピシンと京都府八幡市の「⛩石清水八幡宮」に神風串呂しています。
三浦家極秘伝の記録に「大宝天皇」が「白鬚大明神」を勧請して「天照大御神」「豊受大神」「猿田彦神」を隠祀され、脇殿に「石清水八幡宮」を勧請して祀ったとあることが、全く神風串呂に彰示されている。〔編注17〕
🟠「牧平大門」と「佐久」「藤太夫島」との串呂
16頁
9、皇大神宮内宮と藤太夫島との串呂
古来より皇室に於て二所の宗廟と称して深く深く尊崇されたのは、「⛩皇大神宮内宮」と「⛩石清水八幡宮」でありますから、
「藤太夫島」と「佐久」を串呂した神風串呂が「⛩石清水八幡宮」に神風串呂しているのですから、早速「⛩皇大神宮内宮」と静岡県藤枝市本郷の「藤太夫島」と串呂して見ますと、
🟠三重県伊勢市宇治館町「⛩皇大神宮内宮」
線上、愛知県田原市の「高松町」を串呂し、仝県豊橋市の「小松原町」を串呂し、静岡県浜松市西区庄和町の「和田地区」を串呂し、仝県仝市浜北区の「小松」を串呂し、
🟠愛知県田原市「高松町」
17頁
🟠愛知県豊橋市「小松原町」
🟠静岡県浜松市西区庄和町「和田地区」
🟠静岡県浜松市浜北区「小松」
18頁
次に〔三浦家〕極秘伝の記録に銘記されている「小松上皇」(松良天皇御父)〔御名興良〕が、秋葉城〔静岡県浜松市天竜区春野町領家〕の戦に敗れて足利逆賊の分家一方の旗頭今川逆賊に捕われ、京都へ送られ、拷問の為、遂に牢死の崩御遊ばされ、
この報が伝聞さるるや、「松良天皇」側近の忠臣等が「松良天皇」の御裁可を仰いで「小松天皇」の御遺品を納めて築造された、静岡県磐田市神増原台上の「小松天皇御陵」の位置をピシンと神風串呂しています。
この次が「藤太夫島」で、これを延長すると沼津市の「松長」(松良の諺文)〔編注18〕をピシンと串呂し、なお延長すれば神奈川県小田原市の「聖岳」へピシンと串呂しています。
🟠神奈川県小田原市「聖岳」
19頁
「聖岳」は「大日岳」同様「天皇」の御事であります。即ち
「⛩皇大神宮内宮」—「高松町」―「小松原町」—「和田地区」―「小松」―「小松天皇御陵」—「藤太夫島」―「松長」―「聖岳」
の神風串呂で、全く「三浦皇統家系譜」の「興国天皇」「小松天皇」「松良天皇」「大宝天皇」(後称「三浦藤太夫」)の内の三代の「天皇」の系譜を実証されているごとくであります。
🟠「⛩皇大神宮内宮」と「藤太夫島」との神風串呂
20頁
10、皇大神宮内宮と天竜区佐久との串呂
次に静岡県浜松市天竜区の「佐久」と「⛩皇大神宮内宮」と串呂して、之を上方に延長すると静岡県駿東郡小山町の「大御神」の地名にピシンと神風串呂しています。
🔴静岡県駿東郡小山町「大御神」
「古事記」(上巻)天孫降臨の章に『此の鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如く、拝き奉れ、次に思金神は、前の事を取り持ちて政を為たまへとのりたまひき。此の二柱の神は、佐久久斯侶伊須受能宮に拝き祭る。』とあります。
尚この「⛩皇大神宮内宮」―「佐久」―「大御神」の神風串呂を西南方に延長すると、奈良県吉野郡の「大日岳」をピシンと串呂し、更に延長すれば仝県仝郡十津川村の「三浦峠」に串呂しています。
21頁
即ち〔南西から〕「三浦峠」―「大日岳」―「⛩皇大神宮内宮」—「佐久」―「大御神」の神風串呂であります。
🟠「皇大神宮内宮」と「佐久」との神風串呂
この神風串呂の関連性を以て、かくの如く神風串呂の地文の上に昭示あらせ給う上は、我が極秘伝の「三浦皇統家の系譜」は正真正銘のものに間違いないと確信する様になりました。
🟠二所の宗廟から「佐久」「藤太夫島」への串呂
22頁
おわりに
明治維新150年余の今日、明治維新は、長州が室町時代以後、長期間にわたってご守護申上げてきた南朝の王孫を奉じての王政復古であったという「明治維新南朝革命説」が唱えられ、その関係の書籍も出版され、巷では、ほぼ定説化しつつあります。
南朝の王孫を奉じての明治維新・王政復古が成功した遠因(思想的源流)は、江戸時代に皇統の正閏を糺した水戸光圀の「大日本史」の南朝正統論に遡るようですが、日本の神々ことに伊勢神宮の神々が、この「南朝正統論」を強力に支持され、明治維新・王政復古を応援して下さったようであります。
その証拠には、それまで歴代大王・天皇が誰一人正式参拝して来なかった伊勢神宮に、明治維新以後、皇室が伊勢神宮の神々を最も崇敬し、正式参拝している現状から推し量ることが出来ます。
この辺りの消息は、国民には知らされていないだけで、これは紛れもない状況証拠であると言えます。
すなわち、本書11頁に記載されている「天照大御神の神命」に明瞭に述べられているように、後醍醐天皇の嫡皇孫「大宝天皇(美良)」の満16年間にわたる写経による熱祷祈願(1454年)が、天照大御神の御心に叶い、その414年後に明治維新・王政復古(1868年)となったのであります。
このように、我が日本国に於ては、皇統の正閏を糺すことが、皇祖神を動かし、時代を進展させ、国家を繁栄させる上に、如何に重要であるかがここから窺われます。
本書「神風串呂神伝」は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(復刻版)の序文の冒頭部分であることは、すでに「はじめに」でお知らせした通りでありますが、この『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は三浦芳聖が解明した神風串呂の集大成ともいうべき著書で、書名のごとく「神風串呂」によって、我が国の歴史(南北朝以降の皇統の正閏)を根本的に糺す書であります。
「神風串呂」の主宰神は、元伊勢クシロを構築された伊勢神宮の神々でありますので、いずれの日にか皇政復古が実現することは火を見るよりも明らかでありますが、その日が何時になるかは、私ども日本国民の真実への覚醒次第であるのです。
編集者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ74才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
「神風串呂入門」
「ここまで解った元伊勢伝承」
「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
など多数
ブログ
串呂哲学研究ノート
23頁
神風串呂神伝
著 者 三 浦 芳 聖
編集発行 鈴木 超世志
発 行 所 串呂哲学研究会
発 行 日 2023年1月17日
ブ ロ グ 串呂哲学研究ノート
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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