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三浦芳聖 著「神風串呂神伝」オンライン復刻版 編集 串呂哲学研究会

編集者ご挨拶

串呂哲学研究会

🟠なぜ神風串呂は構築されたのか

多くの方々にとって「神風串呂しんぷうかんろ」(「かみかぜくしろ」とも言う)という言葉にはなじみが無いと思いますので、「神風串呂とは何なのか、なぜ構築されたのか」について簡単に説明させて頂きます。

古代から、「神風かみかぜの伊勢の国は常世とこよなみの寄する国」と言われるように、神風といえば「伊勢」の枕詞で、この神風という言葉は、伊勢神宮の神々と密接な関係があるようです。

伊勢神宮の神々と云えば、皇大神宮内宮に鎮まります「天照あまてらす大御神おおみかみ」がその代表的な神様です。

この天照大御神が伊勢におしずまりになった事蹟は「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世記やまとひめのみことせいき」による元伊勢伝承で明らかになっていますが、天照大御神は、なぜ都を遠く離れた辺鄙へんぴな伊勢地方を選んでお鎮まりになったのかについては、これまで謎とされて来ました。

三輪義熈みわよしひろ著「神皇記じんのうき」や富士古文献には、第10代崇神すじん天皇の御代、富士山麓の「阿祖山あそやま太神宮だいじんぐう」で祭祀していた「天照大神の神霊と三品さんぴん大御宝おおみたから」を大和地方に移した事蹟が詳細に語られています。

この「天照大神の神霊と三品の大御宝」が大和地方に移された事蹟と、神風串呂が構築された理由とは密接な関係がありますので、この辺りの事情から述べてみたいと思います。


🔴天照大御神を表わす静岡県駿東郡小山町「大御神おおみか

天照大御神ゆかりの土地「大御神」、天照大御神の降誕地か住居地か?(国土地理院地図)

🟡崇神天皇、天照大神の遺勅を破る!

第10代崇神天皇は、日本書紀に「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と記されているように、大和地方を中心にした新国家建設に当たって、王権の源泉である祭祀権を掌中に納める必要性を痛感し、崇神5年3月、富士山麓の「高天原たかあまはら神都麻呂山しんとまろやま」でお祭りしていた皇祖・天照大神の神霊を大和地方へお移ししたと記録されています。(「神皇記じんのうき」)

この時の状況を、富士古文献の権威「加茂喜三氏」が、分かりやすく記述して下さっていますので、下記に引用させて頂きました。(以下同様)

崇神天皇の五年、天皇は無謀にも富士の天都(高天ヶ原)より天照大神の神霊を奪取し、皇居の近くの笠縫かさぬいの地(奈良県磯城しき大三輪おおみわ茅原ちはら)に新宮を建てて此処に奉遷ほうせんする。そして、これを「天照皇太神宮」と呼ばしめ、これまで富士高天ヶ原にあった皇祖の神廟しんびょうは、これを古宮ふるみやと称させてしまった。

   (加茂喜三著『富士王朝の滅亡』27頁)

崇神天皇は続いて、富士山麓の「高天原元宮七廟惣名阿祖山あそやま太神宮だいじんぐう」に納められていた「三品の大御宝」を大和地方に移し大御神の神霊として祀らせたのですが、その時の事情が「神皇記じんのうき」などの富士古文献には詳細に記述されています。

崇神天皇の5年3月3日、勅使ちょくしを富士高天ヶ原に派遣して神器を拝受し、大和国やまとのくに笠縫かさぬいの里に建てた天照大神あまてらすおおかみの新宮に納めたのが4月9日で、皇女豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)命をして祀らせ、6月7日より神宮の庭前に祭壇を設け、天下の名工を召して阿祖山太神宮に伝わる「三品の大宝」にならい、新しい「三品の大宝」を作製させて皇城の奥殿に納め天皇代々守護の大御宝と定めた。神代より富士高天ヶ原に伝承されてきた「三品の大宝」は、笠縫の里の天照皇太神宮にその神霊として納められた。   

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』30~31頁要約)

神器の奉納について、「富士古文献」の記述は極めておだやかに大和朝廷の指示に従って進められたように記されているが、それは表面のことで実際には無事に済まされてはいなかった。「日本書紀」によると、崇神天皇の五年、「国の内に疾病しっぺい多く、民の死亡甚だ多し、六年百姓流離ひゃくせいりゅうり、或は背叛はいはんするものあり、その勢い仲々治め難し。」とある。明らかに反乱のあったことを明記している。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』31~32頁)

崇神天皇は天照大神あまてらすおおかみ大国魂神おおくにだまのかみの二神を天皇の大殿に祭ったが、その神の勢いを畏れて共に住みがたいといって、豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことをして笠縫かさぬいに祭る。また大国魂神を渟名城入媛命ぬなきいりひめのみことをして祭らせた。ところが、渟名城入媛命は髪が落ちせて、いわい祭ることが出来なくなってしまった。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』32頁)

加茂喜三氏が述べているように、崇神天皇が富士山麓で祭祀されていた天照大神の神霊を大和地方に移し、阿祖山太神宮に納められていた「三品の大宝」を大和地方に移し、天照大神あまてらすおおかみ倭大国魂神やまとおおくにだまのかみを宮中で祭祀した後、崇神天皇の御代がどのようになったかは、日本書紀に明記されています。

崇神天皇- Wikipedia』には下記の様に出ています。

即位5年、疫病えきびょうが流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神やまとおおくにだまのかみを宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して笠縫邑かさぬいむら(現在の檜原ひばら神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命ぬなきいりひめのみことに託し長岡岬ながおかみさきに祀らせた。しかし渟名城入媛は身体がせ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

即位7年、崇神天皇は、大田田根子おおたたねこ大物主神おおものぬしのかみ市磯長尾市いちしのながおちに倭大国魂神(大和神社祭神)を祭らせれば国は治まると云うお告げを受け、実行したところ、お告げ通りに国が治まった。(後半要約)

『ウィキペディア』崇神天皇

この「大物主神」「倭大国魂神」は、一体如何なる神かと云うと、富士高天ヶ原の阿祖山太神宮大宮司職だいぐうじしょくで、神皇じんのうともいうべき地位にいた大国主命の後裔こうえいであったのである。

(加茂喜三著『富士王朝の滅亡』36頁要約)

以上の資料を総合して考察しますと、下記の様にまとめることが出来ます。

🟡崇神天皇の御代(崇神五年)、富士山麓「天都高天ヶ原」で祭られていた「天照大神の神霊」と「三品の大御宝」を笠縫の里に移し、天照大神と大国魂神の二神を皇城内で祭祀し、宮中には模造品(形代・レプリカ)を作製して納めた。

その結果は、宮中で祭祀していた天照大神と大国魂神の二神の神威が強すぎて同床共殿にお祭りする事ができず、また疫病えきびょう飢饉ききんにより多くの死者が出たり農民が逃亡したり各地で反乱があったため、崇神天皇は崇神七年、「天照大神と大国魂神の二神を」を皇城外に出してお祭りすることにした。

天照大神は豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに託して笠縫邑かさぬいむら(現在の檜原ひばら神社)に祀らせ、大田田根子おおたたねこ大物主神おおものぬしのかみ市磯長尾市いちしのながおち倭大国魂神やまとおおくにだまのかみ(大和神社祭神)を祭らせたところ国は治まった。

大物主神、倭大国魂神は、阿祖山太神宮大宮司職で、天都高天ヶ原・富士王朝の神皇格じんのうかくの神であった。

・・・・・

🟡「記紀」の記述だけでは、崇神天皇の御代になぜ疫病が発生して人口の半ばが失われたのか、なぜ天照大神と大国魂神を宮城外に出さねばならぬほどの畏怖すべき事象が起きたのか、その根本原因が分からないのですが、富士古文献には上記の様にその顛末てんまつが詳細に記録されていたのです。

こうした事蹟が「記紀」に記述されてなかったのは、大和朝廷(記紀を編集した後継者)に都合の悪い事だったからで、それを一言で云ったら

🔴天都・高天ヶ原(富士王朝)隠し
🔴富士王朝の祭祀権(神々と神宝)奪取事件の隠蔽

ということになるかと思います。

実際、「記紀」には「富士山」についての記述は全くないのです。記紀編集者にとって富士王朝の存在はタブーだったのです。

また、崇神天皇による「三種の神器」の大和地方への奉遷ほうせん(移動)は、「三種の神器は、富士阿祖山太神宮でお祭りするように」という天照大御神あまてらすおおみかみ遺勅いちょく神定憲法しんていけんぽう)を破る重大な違反行為でした。

🔴崇神天皇は、天照大御神の遺勅に違反したのです!

日本書紀に明記されている崇神天皇の御代に起きた凶事の根本原因は、崇神天皇が富士山麓の天都・高天ヶ原で祭祀されていた「天照大神の神霊と三品の大御宝」を、天照大御神の遺勅を無視し、権力を行使して大和地方に移したため、皇祖神(天照大御神・大国魂神)がお怒りになってたたりをなしたからだ!と理解する事は、神風串呂とは何かを理解する上で極めて重要であります。


🔴茨城県鹿嶋市「高天原」

🔴日本の起源は日高見国にあった 縄文・弥生時代の歴史的復元
🔴謎の宮下文書 富士高天原王朝の栄光と悲惨 日本人のルーツを明かす

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