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韓国の茶旅12ヶ月 順天・安東編

両班が愛した味を訪ねて

 「雀舌茶は順天(全羅南道)で産するものが最も良く、辺山(全羅北道)のものがこれに次ぐ。茶食は安東(慶尚北道)の人が作ったものが美味しい」
 韓国の著名な小説家である許筠(1569~1618)が記した言葉です。許筠は儒教と仏教に精通し、遣明使として何度も登用され、文才は当代随一と謳われた文人です。
 雀舌茶とは、雀の舌のような小さな新芽だけを摘んで作る緑茶で、お湯をさすと小さな芽が雀が嘴を開いたようになるのを形容して雀舌と呼ばれています。許筠が、お茶が最も良いと評価した順天は、韓国の八道(江原・京畿・忠清南・忠清北・慶尚南・慶尚北・全羅南・全羅北)中で、最も南に位置する全羅南道にあります。その順天周辺には曹渓山松広寺と太古叢林曹渓山仙厳寺があります。

両班が住んだ安東河回村。風水による村づくりがなされ、川が村全体を回るように流れる。
安東河回村
両班の屋敷
生活に困った人に一握り分の糧をほどこす

松広寺は1107年に仏教を立て直すために造られた韓国における三宝寺刹(仏舎利がある仏宝の霊鷲山通度寺、八万大蔵経がある法宝の伽耶山海印寺、修禅社がある僧宝の曹渓山松広寺)の一つです。高麗末期、朱子学普及に努めた李斉賢(1287~1367)が、松広寺の彗鑑禅師から贈られた雀舌茶に対する感動を伝えた茶詩が残っているそうです。

赤い実のなる松広寺

 仙厳寺は529年、百済時代に建てられた古刹です。李氏朝鮮の第22代国王正祖(1752~1800)に子どもができず、この寺の僧が百日間祈ったことで後に純祖となる息子が生まれたという伝説が語り継がれています。
 そして、野生茶樹で有名な場所でもあります。案内してくれたお坊さまの話では、昔こちらでは嫁入りする娘さんにお茶の種を贈ったのだそうです。茶樹は一度根を下ろすとほかに移ることを好みません。茶の種には「生涯添い遂げなさい」という意味が込められていました。

 仙巌寺境内の売店にあるお茶は、桐の箱に入っていて、これまで韓国で買ったお茶の中で一番高価なものでした。値段を聞いて一桁多い金額(80gで17万ウォンだったと記憶しています)に驚いて、買うのをためらってしまいました。悩んでいる時に背中を押してくれたのが一緒に旅についてきてくれた友人の「私が半分買う」という一言でした。
 韓国のお茶は日本のお茶に比べると全体的に薄いという印象ですが、お茶の淡さのなかに清らかな香気と滋味があるのだとお坊さまが教えてくださいました。

茶樹の前で話し込む僧

 歴史の古いお茶に比べて比較的最近の茶園ですが、順天のとなり光州の南には現在韓国で一番有名な宝城茶園もあります。『夏の香り』『太王四神記』などの韓国ドラマや『ラストプレゼント』『愛なんていらない』などの映画、コマーシャルのロケ地としても使われることが多く、茶畑の連なる曲線がとても美しい風景です。ここでは茶園を散策したり、お茶を使ったデザートや料理を食べたり、雀舌茶や雨前茶(二十四節気の穀雨にあたる4月20日頃より以前に作られた緑茶)を手頃な値段でお土産として購入することができます。ちなみに私は緑茶ソフトクリームとお茶が練りこまれたスジェビ(すいとん)をお昼にいただきました。

宝城茶園
韓国一美しい茶園と言われる宝城茶園

許筠が「安東のものが美味しい」と褒めた茶食とは、仏教と喫茶文化の隆盛に伴って作られた仏前や祭祀に供える菓子の一種です。貴重な胡麻油や蜂蜜などを大量に使う贅沢なものであることから蜂蜜使用禁止のおふれが出たこともあったようです。落雁に似て、松花粉(黄色)、栗粉(茶色)、茶(緑色)、胡麻(黒色)などの食材を茶食板という型で抜いて作ります。
 伝統文化が根づく安東には、両班(貴族)と庶民の文化それぞれが今なお残っています。例えば、「嘘祭礼飯」は、両班がいつも庶民には口にできないものを食べていることを妬まれないように祭礼だと偽った食事のことをいい、現在では安東の名物料理にもなっています。
 もう一つ、安東には現在では無形文化財となっている仮面劇があります。顔が分からないよう仮面をかぶって王族貴族の悪事を題材におもしろおかしく演じます。このような仮面劇を映画『王の男』で見ることができます。この映画に出てくる王は李氏朝鮮王の中でも史上最悪の暴君で残虐の限りをつくしたとされる第10代国王燕山君(1476~1506)です。

薬食、茶食と銭茶

 燕山君ほどでないにしても暴君として知られた第15代王光海君(1575~1641)に使えた許筠が残した、韓国人ならば誰でも知っている朝鮮時代の小説に『洪吉童伝』があります。映画やドラマ、アニメなどにたびたび採りあげられている有名な作品です。主人公である洪吉童は庶民を苦しめる貴族や役人を懲らしめ、奪った金品を貧しい人々に分け与える義賊であり、ついには身分差別のない理想郷を作り上げるという当時の庶民の夢や希望を描いたような人物です。許筠は両班でありながら自ら感じた社会の矛盾や腐敗、政治不信を小説に託したのでした。彼の『洪吉童伝』は両班が使う漢字ではなく、庶民が読めるハングルで書かれた最初の国民的小説となりました。許筠はその暴政を正そうとしたために何度も捕らわれ、ついには反逆罪に問われて刑に処されてしまいました。

 冒頭に述べた許筠の言葉は、捕らわれの身になって粗末な食物が喉を通らない時に、昔に食べた全国各地の美味しいものを思い出しては書きまとめた『屠門大嚼』という書物の中にある一節です。この書物のタイトルは許筠らしく中国の故事にちなんで名付けられたもので、肉が食べたいのに食べることができないため、屠殺場の門を眺めながら肉を食べるつもりになって口を動かし咀嚼する滑稽な自己満足を表しています。自身のことを皮肉ったものですが、この記録自体は当時の産物や料理などを知ることのできる貴重な資料となっています。

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