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彼の地を得る者は天下を制す

滋賀県東近江市政所

<天下人への足がかり「城の国」近江>
 琵琶湖の水運、そして東海道・中山道・北陸道など主要街道が交わる要衝の地近江(現在の滋賀県)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など名高い武将が天下取りに燃えた歴史の舞台として重要な役割を果たした時代がありました。それゆえ、織田信長が築いた安土城や秀吉ゆかりの長浜城を始めとして全国屈指1300以上の城跡を有する「城の国」となったのです。

 近江は茶文化に関しても重要な歴史舞台、入唐求法して天台宗を開いた最澄(767~822)が、中国の天台山から持ち帰った茶種を坂本に植えた歴史由来の日吉茶園が日本最古の茶園とされます。また、最澄よりも先に渡唐した崇福寺大僧都永忠には、茶の栽培と製法を試み、それを飲んで人にも伝えた、815年には嵯峨天皇が近江に行幸した際に茶を天皇と皇太子にすすめたことが『日本書記』に記されています。これが、日本史における最初の茶の記録です。

 東近江永源寺の茶産地は政所・九居瀬・黄和田・箕川・蛭谷・君が畑の六ヶ村、小椋谷六ヶ畑と総称されます。かつては木地師の里として知られ、地味が低く霜害もあって栗や黍などの雑穀しか作れない地域でした。政所の茶は南北朝から室町時代、退蔵寺開山越渓秀格(1340~1413)が、水田が乏しい山村ながら、その地質や寒暖差、川からたちのぼる霧など茶の栽培に適した条件を見て村人に移植を勧めたのが始まりと伝えられています。

5月の政所茶茶樹
政所の覆い下茶園

 政所の茶に光があてられたのは、まさに戦国武将が群雄割拠した時代、ひとつの偉人伝説によるものでした。近江長浜城主だった秀吉が鷹狩途中に領地の観音寺を訪れて茶を所望致したところ、寺小姓が持ってきた大きな茶碗にはぬるめの茶が入っていて、鷹狩で喉が渇ききっていた秀吉は一気に飲みきります。さらに一服所望したところ、やや熱めで半分量の茶。それを飲み干し、もう一服所望すると、三杯目の茶湯は舌が焼けるほど熱く量はほんの僅か、秀吉は寺小姓の気配りに感心してその少年を長浜城へ連れ帰ったと、『三献の茶』は石田治部少輔三成(1560~1600)の出世話です。後世に創作された話という説もありますが、このエピソードは意外と事実を伝えているとして、出会いの時期とその寺の所在について、時は天正2年(1574年)、秀吉39歳、三成15歳の時、場所は周辺が政所茶の大産地であった観音寺と考察されています。

 京都から北陸や東国に通じる交通の要地にあたり、室町時代になると市座行商による商業が発達、近江商人は集団で隊商を組み、駄馬を引き、または荷を背負って、美濃、伊勢、若狭、越前方面と京都を結んで行商して歩きました。江戸時代に入ると行商の商域は全国に拡大、その取扱品目は多岐に渡り、もちろん地元の茶も本居宣長(1730~1801)の『玉勝間』「此村は伊勢国員弁郡より越る堺に近き所にて、山深き里なりとぞ、此村人ども、夏は茶を多くつくりて、出羽の秋田へくだし、冬は炭を焼きて、国内にうるとぞ」に見られるように遠く秋田まで出荷されました。「三方良し」を貫いた近江商人は質素倹約の食事で通してきたと伝えられておりますが、その食事の献立を開いてみるといちいち「茶」の記載がみられます。

 政所の茶は風味に富み、江戸初期から生産量が増大、1618年から彦根藩は政所の茶に運上銭を課すようになり、幕末から明治にかけては飛躍的に生産が伸びました。「宇治は茶所、茶は政所、娘やるのは縁所‥‥宇治は茶所、茶は政所、味のよいのは九居瀬の茶」という茶摘み唄が伝わっています。
近年生産量を大きく減らし幻のお茶と言われるようになっても、品種改良の波にも呑まれず自然のままに育てているという山の斜面に広がる茶樹。時代の波に乗らなかったからこそ今在るのが政所茶。現在も廃藩置県が行われる直前に彦根藩が農民のために図入りで分かり易く茶業を解説した『製茶図解』のままお茶作りが行われている場所、それが政所です。初めてここを訪れた時は雪が残る年明け、政所のシンボル的存在である滋賀県指定自然記念物、樹齢300年を越える「政所の茶樹」は雪の中、たとえ1m以上の雪に埋もれても枝を地にうねらせて自然に身をまかせて生きる強さを持っています。

政所の旧茶工場
平番茶製茶桶

 政所に残る古民家には茶部屋があり、茶部屋のない家でも茶摘みの季節には部屋の畳をあげた板の間に摘んだ茶葉を置いて、家人は土間で寝たといいます。そう聞くとなるほど、板間は茶渋で黒光りしています。

 現在政所の平均年齢は73歳、それ以上のご年配の方々がお茶作りの主力となって牽引するなか、親の代が守っていたお茶作りを引き継ごうとする定年を迎える年齢層がでてきているそうです。

 どこよりも早くコモがかかっていた川沿いの茶畑は、かつてお茶作り名人だった女性が丹精込めた場所。楽しみにしていた茶摘み直前に突然彼女が亡くなった時、村中の人々が弔い合戦とばかりに、この茶畑にかけつけて茶葉を摘んだといいます。定年を迎える息子さんが第二の人生に選んだ道はそんなお母さんが作っていた玉露を復活させること。お母さんが編んだコモがかかる茶畑、光に向かって伸びる緑が美味しい玉露になるのを待っていました^_^
 
<麒麟がくる「時代を創った地」美濃>
 今年大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公明智光秀(1528~1582)生誕の地、美濃(岐阜県)。肥沃な濃尾平野を擁し、天下三関(伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、近江の逢坂関)と呼ばれた関の一つ不破関があったため交通の要所として繁栄、中世には京都と鎌倉を結ぶ一大拠点になりました。歴史舞台にもたびたび重要な場面となっています。木曽義仲は鎌倉軍が美濃不和関に入ったと聞くと狼狽し、近江美濃国境で敗死しました。南北朝では青野原の戦いにおいて足利軍は名将北畠顕家に対して不破関を通さじと背水の陣で望み勝利を勝ち取りました。そして戦国時代にピリオドを打った天下分け目の関ヶ原も。

岐阜県揖斐川町の「天空の茶畑」

 美濃国は、室町時代初期には軍事貴族美濃源氏の嫡流土岐氏が守護として治めていましたが、室町時代末期になると西美濃に進出した尾張の織田氏、三河の松平氏、信濃の武田氏、飛騨の三木氏といった戦国大名に囲まれた折衝地となりました。うつけ者と呼ばれていた時代の織田信長、一介の油商人から一国一城の主にまで登りつめた戦国時代下克上の象徴的人物蝮の斎藤道三、今川氏と織田氏の争いに巻き込まれた徳川家康、大垣市に一夜城を作った豊臣秀吉、天下の茶人となる古田織部、夭折の名軍師竹中半兵衛・・・、戦国時代のそうそうたる面々が群雄割拠した地です。

 かつて稲葉山城と称した戦国大名斎藤道三公の居城で、後に織田信長がこの城を攻略して天下布武の本拠地とした岐阜城を後にして茶の主産地揖斐へ向かえば、揖斐川と粕川を挟んで斜面に茶畑が広がります。現在は、美濃いび茶、地元の偉大な茶人古田織部にちなんで美濃おりべ茶などと呼ばれています。

 今回の旅の目的地はかつて春日村と呼ばれた揖斐川流域山間部、現在は揖斐川町の一部になっている、山茶産地。春日村は自然の要塞として山城建設する絶好の場所であり、村は複数の山にまたがっています。壬申の乱(672年、大化改新の中心人物であった天智天皇亡き後、天皇の弟大海人皇子と天智天皇の子大友皇子との間で皇位を争った古代日本最大の内乱)で敗れた大友皇子、平家の落ち武者、関ヶ原の合戦(1600年)では石田三成が春日村を通って長浜へ逃走、小西行長や宇喜多秀家公も春日村へ落ちのびると、多くの歴史人物がこの地に救いを求めました。車で山を走っていると、ここはだれそれがかくまわれた家、そんな話が今でも出てきます。

 岐阜県の揖斐川町のお茶栽培の始まりを検索すると、700年以上前とされ、その起源は不明ですが、土地がら山の民木地師が換金作物として栽培した可能性が高いと考えられます。春日村上ヶ流(かみがれ)地区には天空の茶畑があります。「天空の茶畑」「岐阜のマチュピチュ」と称されるこの絶景を形成する茶園風景は、地元有志が標高440m地点まで天空の遊歩道を作ったことによって目の当たりにすることが可能になりました。鎌倉時代まで遡るとされるこの春日六合の上ヶ流地区茶畑、今ではあまり日本で見られることのない昔ながらの在来茶畑で、農薬を使わず、自然のまま作る素朴なお茶です。

揖斐川町上ヶ流地区の茶畑
「天空の地」「小島城主土岐頼康居宅跡」と刻まれた石碑

 春日村から茶畑が見渡せる地点に立てば、岐阜城とその先愛知のほうまで見渡すことができ、要塞として存在した場所だったと体感できます。日本百名山伊吹山の向こうは米原、その手前は関ヶ原、東西文化が交錯しました。見渡せる山ぜんぶが春日茶産地です。 

 揖斐川流域山間部に点在する集落は木地師・採薬師の村、炭焼き・茶栽培で生計をたてていました。なかでも伊吹山は、織田信長がポルトガル宣教師に命じて開いた薬草園があった場所として知られています。現在、薬草園のあった正確な場所はわからなくなってしまっていますが、宣教師はヨーロッパから薬草を3000種類も移植したとされ、その記録は江戸時代に出版された通俗書『切支丹宗門朝記』『南蛮寺興廃記』にあります。持ち込まれた薬草は伊吹山の自然の中に紛れてしまっていますが、伊吹山だけにしか見られないキバナノレンリソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジグサ等の雑草類が薬草園の信憑性を高めています。そんなわけで、信長公の薬草園復活プロジェクトから誕生した和菓子は、話のネタとしてお土産におススメです。

伊吹山の炭焼き窯
垂井町の豪商屋敷

 山の中には立派な炭焼き小屋もありました。昔、炭焼きは30kgの炭を担いで、山を越えて関ヶ原や垂井の豪商に炭を納めました。かわりに炭札を受け取り、それで米や生活必需品を買いました。炭焼きが歩いた山道も今では車に乗せてもらって下の平野に下りれば、中山道57番目の宿場(垂井宿)があった垂井町にさっと着いてしまいます。垂井町と言えば、秀吉を支え黒田官兵衛を導いた天才軍師竹中半兵衛が、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に三顧の礼を以て軍師として迎えられる前に居を構えていた地です。

 美濃では、垂井町岩手の竹中氏や大垣市上石津の高木氏が炭札を発行していました。西美濃地方の両氏が発行した炭札は、生活必需品であった木炭を売買する際に用いることによって流通を図るべく炭会所が発行したものでした。垂井の竹中半兵衛陣屋跡の近所に春日村の炭焼きと取引のあった豪商屋敷には今も末裔が生活しています。

 垂井で栽培されているお茶は不帰茶(美濃いび茶)と呼ばれます。昔、嫁に行く娘に両親が『女は口を慎むべし』と心得を諭したところ、娘は忠実に守り口を利かなかったけれど、嫁ぎ先では不都合と離縁させられ、婿さんに送られ里に返されます。途中、垂井で狩人が鉄砲で雉を打つのを見て、「雉も鳴かずば撃たれまい」と詩を詠みました。その詩に婿さんは「これは帰すことは出来ない」と引き返したことから「不帰」の地名がつけられたといいます。聡明な施政者がおさめる地ではその姿勢は庶民にまで波及することが暗示されています。

 仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖獣麒麟。戦国の世、誰のもとに現れ、時代を変えるきっかけとなったのでしょうか?岐阜を訪れる際には是非、彼の時代、美濃の天空を走った麒麟の影を探してみて下さい^^

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