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行基と空海 ~時空を超えて足跡が交錯する地阿波国の不思議なお茶作り~

舎心ヶ嶽空海坐像

<国生み神話の粟国>
 古事記では、伊予之二名島(四国)の剣山一帯は粟国(あわのくに)と呼ばれました。剣山一帯の焼畑農耕の歴史は、さかのぼることなんと4500年以上、縄文時代から営まれてきたとされています。

 粟は日本最古の穀物で、稲が伝来する前の主食です。『古事記』に記された粟国(阿波国)の国神「大宜都比売神(オオゲツヒメ)」は日本の養蚕・五穀の起源神、日本最古の農業神(焼畑神、農業生産神)で、徳島県の中心部に位置する神山町神領の上一宮大粟神社に祀られています。そのようなことから阿波国は太古日本の中心地であったという説もあるほどです。
 
<行基と空海の足跡>
 飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した行基は、朝廷が寺や僧の行動を管理して民衆に直接布教することを禁止していた時代、その禁を破って階層を問わず広く人々に仏教を説きました。

 743年、天然痘の流行や飢饉が相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い盧舎那仏造営の詔を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。布教を禁じられていた行基がなぜ重要な役を担うことになったのでしょうか?

舎心ヶ嶽空海の視線

 行基が建立した寺院道場は畿内一円に実に49ヶ所、そこを中心にため池や架け橋などの建設まで、数々の社会事業を成し遂げました。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。

 行基という人が複数いたのでは?と疑いたくなるほど交通手段がなかった時代に広範囲をまわって各地で偉業を残している、この感じは後の空海に非常に似ています。

 そして、阿波という地域には行基と空海の行動が深くリンクしているのがわかるらしいのです。阿波の札所は古代天皇の御陵跡や御所跡に建立されていることは有名ですが、阿波古代史を調査している郷土史家にとっては、何らかの目的を持って足繁く阿波に訪れその地で沢山の寺社仏閣建立に携わった行基が開基した仏閣に空海が目的を同じくして訪れ、さらに何かを行ったと考えられているのです。

 二人の高僧を巡る歴史浪漫は、他の日本茶産地に見られない製法で作られる阿波晩茶に通じるものがあります。行基には堂社を建立すると同時に茶樹を植えたと言い伝えがあり、お大師様は四国の山に茶が自生しているのをご覧になって製茶法を教えたという言い伝えもあるのです。
 
<舎心山常住院太龍寺>
 今回の旅でせっかく四国に行くのだから八十八か所のうちの一ヶ所ぐらいは行ってみようと目指したのは、阿波晩茶の生産地にほど近い、西の高野と呼ばれる四国八十八箇所霊場第21番札所、舎心山常住院太龍寺です。

 弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600mの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたという伝えは24歳の時の著作『三教指帰』に記されています。四国巡礼者にとって屈指の難所、空海が若き日に修行の地として登った大瀧嶽を臨めば、道なき道を全国各地くまなく歩いた偉大さにふれることができます。

 空海も歩いたであろう聖跡舎心ヶ嶽への道の途中、掃き清められた道が強い風に乱された時「今、お大師様が通り過ぎた」と、奉仕していた人が笑っていったのを見たのは、最初にここに来た時に見た風景でした。

 舎心ヶ嶽の石標に辿り着つくと、木々の隙間からは空海像の後ろ姿があります。前回は来たときは、ここまでだと思っていました。が、新しい局面がありました。今回もまた奉仕の方の言葉で気づかされたのです。岩を掴みながら、鎖のサポートを利用しながら、空海像に近づく方法があるのだと。「えぇ!そんなことして良いのですか?」と聞くと、「若い人たちは一緒に写真を撮ったり、背中に抱きついたりしているわよ」との言葉。できるんだ!と思いました。

 俄然並び立って同じ風景を見てみたくなりました。前回の時ように一人旅ならば諦めていたかもしれません。が、今回は茶友と一緒です。万一事故が起こっても目撃者になってくれる人がいるねと励まし合いながら空海像にたどりついたのです。同じ場所を何回も訪れても新しい発見はありますね。峰の上に坐する空海の隣に立って同じ視線から見る風景、“空”と“海”、”空”の名を得るに至った風景です。
 
<阿波晩茶の製茶>

神田茶の茶桶

 阿波で作られている阿波晩茶は自生山茶を夏に摘み、木桶に漬けて乳酸発酵させてから日干し乾燥させるもので、現在も地元の人たちに日常的に飲まれ、空海が唐より持ち帰ったお茶の種を植えたものであるとか、摘んだ山茶で空海がこの地の人々に製茶法を教えたといわれているお茶です。

 徳島県勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、海部郡美波町など、四国山地の標高数百mの山間地域に伝承されているこの阿波晩茶の製造技術は、2021年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 阿波晩茶の主産地である上勝町には何度も研修に行きましたが、2019年の研修以降生産者さんのところへは訪れ難くなりました。2019年に見学させていただいた神田茶作りを以ってご報告させていただきます。

 「神田茶」とは、上勝町旭地区神田集落で作られている上勝阿波晩茶の中のブランド名です。この年の茶摘み開始日は7月7日、壁際に置かれた木桶は入り口に近いものから漬け込みが古い順に並んでいます。木桶に載せている重石は一つ50kg、大木桶に3〜4の重石を載せて一桶で70kgの阿波晩茶が完成するのだそうです。製茶手順は以下のとおり。
①しごき摘み
 茶樹についている葉を根こそぎ丸坊主状態になるまでしごき取る。

神田茶の製茶工程「しごく」

②茹でる
 摘んだ茶葉はその日のうちに釜ゆでする。茶葉をカゴにいれて、ぐらぐら沸いた熱湯の中に浸ける。どれほどゆでるのかは、茶葉の色の変化で作り手さんが見定める。ここだと思った時に籠を釜から引き上げる。そこが味が決まる重要な判断となる。釜に残ったゆで汁は、茶桶に茶葉を漬けるときに一緒に注ぐ。

神田茶の製茶工程「ゆでる」

③擦る
 こちらでは揉捻機を使用。

神田茶の製茶工程「摺る」

④漬ける
 茶葉を木桶に漬け込んで、煮汁を張る。桶の口までギリギリ詰めて軸を切った芭蕉の葉3枚を使って茶葉の上に乗せて木桶に蓋をする。

神田茶の製茶工程「漬ける」

⑤乾かす
 筵に広げ天日乾燥する。

 年々夏が早まってきているので、お茶作りの風景を見てみたい方は7月中に行かれることをおすすめします。 

樫原の棚田

<棚田百選・樫原の棚田>
 お茶作り真っ盛りの上勝町を通り過ぎるだけではもったいないので、まだ見たことのない風景を見るために有名な棚田を目指しました。樫原の棚田です。樫原の棚田は、「日本の棚田百選」に認定され、2010年に徳島県初の「国の重要文化的景観」に認定されました。

 小さな水田が構成するあぜの曲線とあぜの段が織り成す美しい棚田の風景は、1815年に描かれた樫原村分間絵図からほとんど変わらない奇跡の風景なのです。棚田近くには茶樹が枝を伸ばしておりました。
 
<相生晩茶の日干し乾燥風景>
 太龍寺のある辺りでは、夏の頃お盆前くらいまでに作るお茶があります。この日、那賀町では、相生晩茶の日干乾燥が行われていました。お訪ねしたお宅では生産者さんご夫婦を中心に、90代の生産者さんのお母さま、子供ファミリーと3人のお孫さんの四代で暮らしています。そのお家の若いお母さんが着ていた手作りのTシャツには、「相生晩茶ができるまで」の工程が一通りわかるようにプリントされていました。

「相生晩茶ができるまで」Tシャツ

①摘む
 夏までしっかり大きく育てた一番茶葉を摘み取る。

丸坊主になった茶畑

②ゆでる
 直径約90cmの半円型の釜で、一度に20kgほどの茶葉をゆでる。

③摺る
 ゆでた茶葉を少し冷ましながら揉捻機ですりこむ。すりこむことで葉がやわらかくなり発酵しやすい状態になる。

④浸ける
 茶桶と呼ばれる大きな木の桶に漬け込む。煮汁を張り、空気にふれないようにすることで発酵しやすくなる。

⑤乾かす
 夏の晴れた日、天日乾燥させる。1~2時間に1度ひっくり返して全体が乾燥させる。

相生晩茶の日干し乾燥

 できあがったお茶をいれると、黄金山吹色✨ (手作りTシャツより)
 
 炎天下の庭では、90を超えたおばあちゃんが黙々と選別ではじかれた枝の山から葉と白い茎をひろっています。このお家にお嫁に来てから夏にずっと繰り返えしてきたお茶作りを息子夫婦にまかせるようになっても、手慰みにやっているのでしょうね。それをちょうど取材に来ていた地元マスコミの若者がおばあちゃんのところに近づいて行って何をしているのか追求しているのに憤ったのは、家族ではなく茶友でした。「ほっておいてあげて欲しいな。仕事じゃないんだ。あれは、生きがいなんだよ」と。

選別をする90歳を超えたおばあちゃん

 お茶は生きがい、この言葉が深く心に残った旅でした。

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