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[短編小説] ほのかに香る

 病院の中央出入口を出たとおるは、うらららかな日差しに切れ長の目を細めた。

 今日は暖かいが、いつまた花冷えが戻ってくるかはわからない。勤務先のカフェ《フェルセン》に、桜フレバーのドリンクが登場しても、桜が咲くにはまだ早い。行き交う人々はみなマスクをしているが、ダウンジャケットや分厚いコートのままの人もいれば、パステルカラーの服に身を包み、颯爽と歩く人も見受けられる曖昧な季節だ。昨夜、妻の彩子さいこが、いつ冬物をしまえばいいかわからないとぼやいていたことが脳裡を過る。 

 駐車場に行くために中庭を横切ると、池の周囲に置かれたベンチに座り、昼食をとるスタッフや読書をする患者がちらほら見えた。寝坊して、朝の珈琲を飲み損ねたので、彩子がステンレスボトルに入れて持たせてくれたことを思い出した。彩子が豆から挽いて淹れてくれるバニラフレバーの珈琲は絶品だ。あそこに座って飲んでいくのも悪くないと思ったときだった。

吉井よしいさん!」

 振り向くと、主治医の赤城あかぎが、ベンチに掛けたまま大きく手を振っている。

 透は彼女に体を向け、上半身を90度に傾けてお辞儀をした。体を起こすと、赤城が手招きをしているので、主人に呼ばれた子犬のように小走りで向かう。

「吉井さん、背が高いから、遠くからでもすぐわかるのよ」赤城はコンビニのおにぎりを片手に、弾けるような笑みを浮かべた。

 赤城の溌溂とした生気と華やかな顔立ち、よく通るメゾソプラノには、どこにいても目が向いてしまう存在感がある。透と同じ40代だが、年齢と経験を重ねることで、知的な美しさを増していく魅力的な女性だ。

 赤城は、人に失礼なことをしないかと恐れる強迫症の加害恐怖を患う透を回復に導いた主治医であり、幼き日の初恋の相手でもある。恵まれた容姿のおかげで女性に気後れしない透でも、どきまぎさせられる。

「今日は桐生心理士のカウンセリングだったの? 急いでないなら、少しお話しましょう」赤城はベンチの端に寄り、ソーシャルディスタンスを確保すると、座れと言わんばかりに空いている場所を軽くたたく。

 ためらう透に、赤城は言い継ぐ。「私に失礼なことを言わないかと気にしてるんでしょ? 主治医とおしゃべりするのもエクスポージャーよ。回避しない!」

 嫌な状況に曝されても、不安を解消する行動や儀式をしない曝露反応妨害法(Exposure and Response Prevention :ERP)で透を治療する赤城とのコミュニケーションには、エクスポージャーの材料があちこちに詰まっていて一瞬たりとも気が抜けない。

 観念した透は、190センチの長身を縮こまらせ、ベンチに腰を下ろした。

「何か飲む?」赤城はクロエの財布を取り出し、病院入口付近にある自動販売機に向かおうと立ち上がる。

「いえ、珈琲を持ってきましたので」透はバッグからステンレスボトルを取り出した。

 透は、主治医に飲み物をおごられ、悪いなと思わせるエクスポージャーを仕掛けられたと気づいた。せっかく赤城が考えてくれたのに、断ってしまったことを謝らなくてはという思いがむくむくと頭をもたげてくる。だが、感謝や謝罪を過剰に伝えてしまう彼には、何も言わないことがエクスポージャーだと言い渡されていた。

「すみません。せっかくご馳走していただける機会だったのに」と言いたい気持ち悪さをそのままにしなくてはならない。全身の血の気がすっと引き、鼓動が速まってくる。謝罪して楽になりたい衝動に抗い、会話に集中しようと意識を移す。

 赤城は謝罪しない透に満足そうな笑みを見せ、ベンチに座り直すと、軽く足を組む。春らしいペパーミントグリーンのスカートパンツからのぞく脚がなまめかしい。

「吉井さん、足を組んで話しましょうか」赤城は大きな瞳にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 そんな失礼なことはできないと思ったが、これもエクスポージャーだと長い脚を遠慮がちに組んだ。組んだ足先が赤城に触れないよう、少し体を離した。

「もっとしっかり組んで。あーあ、主治医の前で足を組む失礼な患者さんなんて初めて見た。やっちゃったね~」赤城は透の罪悪感に拍車をかける。

 透は脚を組む居心地の悪さに気を取られ、さっきの謝罪したいという衝動が薄れていることに気づいた。一つのことにこだわるよりも、気になることを次々と作り、うやむやにしてしまう赤城の戦略だ。かなわないなと苦笑いが浮かぶ。

 赤城は、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、食べかけのおにぎりを頬張った。濃く長い睫毛に昼下がりの木漏れ日が降り注ぎ、彼女はそれを跳ね返すかのように瞬きした。

 透はしばし見とれてしまったが、妻の顔が浮かび、慌てて目を反らした。

 2年前の初冬、当時は恋人だった彩子が、強迫症の専門医がいると、「赤城忍あかぎしのぶ」という名前を出したとき、心臓が跳ね上がった。小学生の頃、ピアノ教室で一緒だった2歳年上の初恋の女性だった。

 診察に付き添うという彩子を断り、1人で赤城の診察に通い続けた。憧れた女性と1対1で過ごせる時間は限りなく甘美だった。彩子に赤城医師は男性だと嘘をついていたことがばれて喧嘩になり、彼女を深く傷つけたことは苦い記憶だ。彩子を失うことが怖いと気づいた瞬間だった。

 強迫症のために奇行を繰り返した自分を見捨てず、根気強く寄り添って治療に協力してくれた彩子を心から愛している。彩子のために良くなりたいという思いが、厳しい治療に立ち向かわせてくれた。

 他方で、赤城の目に模範的な患者に映りたい、男として見られたいという密かな思慕も、治療のモチベーションになっていた。回復に近づいたとき、赤城の目に優秀な患者として映りたくて、同じ病気で苦しむ人を励ますセミナーを仲間と企画するほど思い入れは強かった。


「フェルセンの客足は回復した?」赤城は緑茶のペットボトルの蓋を閉めながら尋ねた。

「いえ、まだ厳しいです……」

「そう……」

 赤城はペットボトルを脇に置き、透の目をのぞき込んで尋ねた。

「ねえ、私たち、子供の頃、ピアノの発表会で連弾したでしょう。覚えてる?」

 息が止まった。赤城は忘れていると思い、ずっと口にしないできた。あのとき対等にピアノを弾いていた自分が、患者として恥ずかしい姿をさらすことが惨めだったので、彼女が覚えていないのは幸いだと思っていた。

「え、ええ……、もちろんです。シューベルトの軍隊行進曲の第2楽章、よく覚えてます」鍵盤に指を走らせながら、憧れのお姉さんと手が重なることにどきどきした少年時代の甘酸っぱい記憶が立ち上がる。

「やっぱり、覚えてたのね」赤城の瞳に妖しい光が瞬いた。

「あの頃、あなたは私の憧れだったのよ。あのとき私は、ピアノの先生に、技術は申し分ないけど、正確すぎて機械みたいで面白みに欠けるって言われて、自信をなくしていたの。中学受験の準備もあるし、もうピアノはやめようかなと思った。そんなとき先生が、奔放で正確さには欠けるけど、とても情感豊かに奏でる子がいるから、連弾してみないか、きっといい影響を受けるからと勧めてくれたの。あなたの演奏を初めて聴いたとき、悔しかったけど胸が震えた。自分より年下の男の子が、こんなに人の心を揺さぶる演奏ができるなんて……」

 思いもよらなかった言葉に胸が熱くなった。「僕は、あなたの技術に追いつけなくて悔しくて……、こんなふうに弾きたいと憧れていました」

 赤城はふっと笑った。「入院中に、皆が恐れているものを歌詞にしたサザエさんの替え歌を作ったの覚えてる? あなたに汚れた手でピアノ伴奏をする課題を出したわよね。あれ、あなたのピアノが聴きたくて考えたエクスポージャーなのよ」

「え、そうだったんですか」

 赤城に色気を漂わせた瞳で見つめられた。引き込まれそうになり、焦って話をそらした。

「先生は、あれからピアノは……?」

「中学で止めたけど、アメリカで再開して、それからずっと弾いてるの。今度、ヴァン・クライバーン国際アマチュアコンクールにエントリーしようかと思ってる」

「すごいじゃないですか。僕よりずっと上じゃないですか……」

 彼女に適うところはないという敗北感と崇拝に似た感情が胸の中でないまぜになった。

 赤城は透が持ったままのステンレスボトルに目を走らせた。

「珈琲飲んだら? 人前で飲食をするのもエクスポージャーよ。飛沫を飛ばさないか気にしてるんでしょ?」

「ああ、まあ……」

 図星を指された透は、ボトルの蓋を開けた。

「ねえ、吉井さん。あの頃のように、また私と連弾してみない? フェルセンのグランドピアノでできるでしょう?」

 全身がかっと熱を帯び、心臓が早鐘を打ち始めた。いまの自分と彼女からどんな音楽が生みだされるかと想像すると、激しく血が騒ぐ。演奏中に肩や手が触れ合うことが脳裡を過り、甘い誘惑に駆り立てられる。

 そのとき、春風が木立をざっと鳴らして駆け抜け、彩子の淹れてくれたバニラフレバーの珈琲がほのかに香った。

 その香りに目を覚まされたように本来の自分を取り戻した。

「いえ、声楽に力を入れてきた僕のピアノでは、先生についていくのはとても無理です。申し訳ございません」

 赤城に失礼なことをしてしまったことに全身がぞわぞわしてくる。彼女の好意を遠ざけてしまったことを惜しむ気持ちも頭をもたげてくる。だが、赤城と連弾する姿を彩子に見せて傷つけるほうがずっと胸が痛む。

 透は珈琲をボトルの蓋になみなみと注ぎ、香りを充分に楽しんでから口に含んだ。組んでいた脚を下ろし、足の裏にぐっと力を入れて地面を踏みしめた。


(完)