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ピアノを拭く人 第2章(5)

 彩子は透の居場所を守るために、早速行動を開始した。
 その夜のうちに、フェルセンのFacebook、 Twitter、 Instagramを立ち上げ、透に更新を任せた。次の日の仕事帰りには、フェルセンで羽生と相談して、サーバーとドメイン、掲載内容を決め、ホームページ作成にかかった。透が燕尾服を着て演奏する動画を載せたことも手伝い、アクセス数は順調に伸び、彼目当ての女性客が、ぱらぱらと訪れている。
 だが、連日、感染者数が報道され、外出自粛ムードが高まるなか、オンラインでの対策だけでは、客足回復につながらないことは彩子もわかっていた。

 羽生の感染防止対策は早くから徹底していた。2020年4月に緊急事態宣言が出てすぐに、入口に非接触型検温モニター、アルコール消毒液の自動噴霧機を設置し、店内に空気清浄機を2台置いていた。カウンター席は1席ごとにアクリル板で区切り、レジとカウンターの前にもアクリル板が入っていた。
 彩子の提案で、6つあるテーブルの真ん中にもアクリル板を設置し、メニューの表紙を抗菌素材に変え、当分は客席からの演奏者への声援や掛け声を控えてもらうことにした。こうして、感染防止対策に力を入れていることはHPで強調したが、それが根本的な解決策になるとは思わなかった。

 

 彩子は、利益を回復させるには、新たな客層の獲得が必須だと考え、羽生に提案をするためにフェルセンに向かっていた。
 道行く人は、山から吹き下ろす、からっ風に背中を押され、コートの襟を立てて家路を急いでいる。さっきまで月を覆っていた雲は吹き飛ばされ、冴え冴えとした三日月が青白い光を放っていた。

 店内の客は、週1回は必ず来るという長崎出身の老女が1人だけで、透が彼女のために弾き歌いしている。
 カウンターの向こうの羽生の顔色は、以前より良くなっている。そのことは、彩子を少しだけほっとさせた。

 彩子はカウンター越しに、声を落として切り出す。
「フェルセンの常連さんは、羽生さんと同世代のお友達が大半で、あとは老若男女の音楽好きですよね。今の状況では、常連に多い年輩のお客様が戻ってくることは、あまり期待できないと思います」
 羽生は腕組みをし、眉間を曇らせる。
「無理に来てもらっても、100%の安全は保障できないからね……。テイクアウトや仕出し中心の店にすることも考えたけど、うちは生演奏が売りだから、そこは譲りたくない」
「そうおっしゃると思いました。私、考えたのですが、新しい客層を開拓してみてはいかがでしょうか? ここは市街地から離れていますが、地図を見ると、3キロ圏内に大学が1つ、短大が1つ、高校が2つあります。彼らを呼び込めないかと思うんです。特に、1人暮らしで、オンライン講義になった上に、自粛生活に疲れている短大・大学生はねらい目です」
「今まで、内輪の道楽でやってきたから、若年層のことは考えたことなかったな」
「フェルセンは格調高いお店というイメージがあるから、学生さんは近づき難いのかもしれません。生演奏を聴きながら気軽にお1人様ランチ、恋人の誕生日にサプライズで生演奏をプレゼントとかアピールするチラシを作って、学生アパートにポスティングし、学校前で配布してみませんか? もちろん、しっかりした感染防止対策が導入されていることは強調します。チラシにはコーヒー1杯無料券などの特典をつけるといいと思います。クリスマスが近いので、カップルがお洒落なデートを楽しめるように、クリスマスソングの生演奏を1曲プレゼントという特典もありですね。チラシにはHPのQRコードを印刷して、そこから予約できるようにします」
「クリスマスは商機かもしれないね。やってみよう。コーヒー1杯か、好きなクリスマスソングの生演奏1曲プレゼントで選択できるようにしよう。クリスマスソングは、その日に出ている演奏者が弾ける曲のリストを出して、1曲選んでもらうようにしようか」
 彩子は羽生の決断の速さが嬉しかった。
「私、チラシ作りますね。地図を持ってきたので、配布するエリアも考えましょう。配布前に、警察と学校への許可申請が必要なので、電話番号調べておきます」
「本当に何から何まで悪いね。コンサル料を受け取ってくれないなら、せめて食事代はサービスさせてよ」
「いえ、それはお支払いさせてください。お金をいただくほど大したことは言っていません」
「じゃあ、試作メニューのふわふわパンケーキを焼くから、試食してくれないかな? コーヒーつけるよ」
「いただきます」彩子は歓声を上げたい気持ちを押し殺し、神妙に頭を下げた。
 羽生は、「そうこなくちゃ」と、嬉々としてフライパンを火にかけた。



 透は「精霊流し」を歌い終え、椅子から立ち上がって、老女に深々とお辞儀をした。彼は老女に何か話しかけようとしたが、彩子の視線に気づいて眉を微かに上げた。彼はそのまま椅子にかけ、何かを堪えるように両手を前に組んだ。
 彩子は心の中で透に喝采を送った。

「あなた、精霊流しを見たことある?」
 老女がピアノに歩み寄り、透に話しかけた。
「あ、いえ、残念ながら」透は椅子から立ち上がり、おどおどしながら答えた。
「そう。歌詞にもあるけど、長崎の精霊流しは、とても華やかなの。精霊船は提灯やお花で飾られて、耳栓をしたいくらい花火や爆竹が鳴ってね。故人を賑やかに極楽浄土へ送りだそうという思いがこもってるの。それでも、悲しみはそこに存在して、華やかさの行間を縫うように、すっと忍び込んでくる。この歌は、その悲しみを上手に拾った歌だと思うわ」
「はい。僕もこの歌を勉強して知りました。うまく表現できたかはわかりませんが」
 老女は目尻を下げて上品な笑みを見せ、意志のこもった声で語り掛けた。
「あなたの歌、ただ悲しいだけじゃなくて、ちゃんと華やかさも伝わってきたわ。よかったわよ。また聴かせてね」
「ありがとうございます」透は光を帯びた目で、老女を見つめた。
 彩子は、透が御礼を1回に留められたことが心底嬉しかった。

 老女はもう一度優しい笑みを見せて、席に戻り、小さなハンドバックを持ってレジに向かった。
「あの、藤岡さん」
 透が老女に駆け寄った。
「ほめていただきまして誠にありがとうございました。丁寧に細部まで聴いていただけて嬉しいです。励みになります。ぜひ、また来てください……」
 透は頻りに頭を下げ始めた。
「ええ、また来るわ」
 少し困惑した老女は、透に会釈して羽生に伝票を差し出した。
 透はせかせかとピアノの前に戻ったが、肩で息をしながら、まだ言い足りないように老女を見ている。
 老女が扉に近づいたとき、透が駆け寄って扉を開けた。
「先程は、お引止めしてしまって誠に申し訳ございませんでした。ありがとうございました。気を付けてお帰り下さい。また、お待ちしております」


 老女を送り出した透は、彩子と羽生を振り返り、血相を変えて問いかけた。
「藤岡さんが、精霊流しのことをいろいろ教えてくれたとき、知らなかったふりして、教えていただきましてありがとうございましたと言ったほうがよかったかな? 俺、失礼だったよな。さっき気づいて、謝らないで我慢したんだけど、気になって仕方がないんだ!」