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ピアノを拭く人 第4章 (13) 最終話

 中央に配置したテーブルには、フェルセン自慢のパーティー料理が並ぶ。本来なら、乾杯の後、和気藹々とした談笑が始まっただろう。だが、コロナ禍では、会話を極力控え、マスクを外すのは食事をするときだけの寂しい打ち上げになった。

「羽生さん、こんなにお料理を用意していただいてすみません。今からでも、会費制にします」
 彩子は、カウンターの裏で皆を見守っている羽生に、恐縮して頭を下げた。
「いいんだよ。私は透がここまで良くなってくれたのが本当に嬉しいんだ。そのことを考えれば、こんなの安いものだよ」
「今日の対談も、本当は私ではなく、羽生さんが出るべきでした。ずっと透さんを支えてきたのは、羽生さんですから」
「いや、私では、透を動かせなかったよ。死にたいと毎日叫んでいた透を、生きよう、治療を受けようという思いにしたのは水沢さんだ。あなたがいなければ、彼は今頃この世にいないよ」
「そんな、大袈裟です」
 羽生は、カルロスと談笑している透に目を遣ってから、彩子に視線を戻した。
「去年の秋、水沢さんが初めて店に来てくれた日は、透のお母さんの一周忌だったんだ。コロナ禍だから法事はしないで、店を開ける前に透と私で墓参りに行った……」
 彩子は、話の行きつく先がわからず、黙って続きを待った。
「透がこのあいだ、言っていたよ……。彩子は、母が俺に、まだ死ぬなと喝を入れるために出会わせてくれた人だって」
 彩子は、大和にふられ、ピアノを拭いている透に出会った雨の夜に思いを馳せた。あれから半年も経っていないのに、濃厚な日々だったせいか、随分昔のことに思える。
「私も同感だ。あなたが来てくれたことで、透は良くなり、この店の売上も回復しつつある」
 羽生は少し口ごもってから、切り出した。
「その……、透の昔の女性関係が、ほめられたものではないことは私も知っている。けれど、何をしても不器用で、劣等感と孤独に耐えていた透は、女性にもてることでプライドを保つしかなかったんだ。そんな彼が、あなただけは特別だと言った。私はあなたの価値がわかったあいつを見直したよ。絶対にあなたの手を離してはいけないと言っておいたよ」
 羽生は彩子の肩を叩くと、料理を選んでいる赤城と桐生のもとに向かった。

 彩子は、赤城と桐生に深々と頭を下げている羽生を横目に、ピッチャーからアイスティーを注いだ。透はシオリの母親に、遠慮なく食べるよう促している。タクミはシオリに、ガトーショコラが美味しいと勧めている。カルロスは、皿一杯にとった巻き寿司を美味しそうに頬張る。窓から差すやわらかい西日が、一仕事終えた皆を祝福するように注いでいた。少し温かくなった冬の陽は、春が近づいたことを示唆している。
 彩子はアイスティーを飲んで一息つき、サイレントマナーにしていたスマホを見ると、途端に眉間を曇らせた。母から着信が2件、父からのメールに加え、真一からのLineまで入っている。今見ると、平静でいられなくなりそうなので、スマホの電源を切り、料理を取りに行った。

 

 皆を送り出し、片付けが終わって羽生も帰ると、彩子と透は2人きりになった。
「お疲れ様。今日の透さん、完璧だったね。すごく自然に、わかりやすく話せていたよ」
 彩子はテーブルをいつもの状態に戻している透を手伝いながら労った。
「俺たちの思いが、強迫症で苦しんでいる人に、少しでも届いたらいいな。彩子が手伝ってくれたおかげだよ。ありがとう」
「私こそ、参加させてくれてありがとう」
 冬の陽を浴びた透の横顔には、病苦を乗り越えた男の精悍さが漂っていて、彩子は目を細めた。
「そういえば、赤城先生と桐生先生がマスクを外した顔、初めて見た。赤城先生、美人なのに、気取っていなくて、素敵だね。桐生先生はすっきりした顔立ちで、明るくて、頼りがいがあって、好きだな。透さん、本当にいい先生方に恵まれたね」
 彩子の赤城への嫉妬は、その人柄に触れて解消されつつあり、心から出た言葉だった。


 テーブルと椅子を並べ終えた透は、彩子を振り返り、やや上ずった声で問いかけた。
「彩子、俺のピアノを聴いてくれないか?」
「もちろん、何を聴かせてくれるの?」
 透はピアノに近いテーブル席に、彩子を座らせた。
「目を閉じて。俺がいいと言うまで、絶対に開けないで」
 彩子は言われるままに瞳を閉じた。視覚が閉ざされると、他の感覚で世界を感じるしかない。リスニングテストを受ける前のように、聴覚が研ぎ澄まされていく。からっ風が木々を渡るさざめきが、いつもよりくっきりと耳に届く。窓から射す冬の陽の弱々しい温もりを頬に感じる。陽射の匂いがする。

 透がピアノの大屋根を開け、椅子に掛けたのがわかった。深呼吸する気配を感じた。背筋を伸ばし、目を閉じて集中力を高めている透の姿を心に描く。
 やがて、静かにピアノが聴こえてくる。
 幻想的な世界に誘うような速い弱音に、ゆったりした旋律が乗る。なんて美しい曲なのだろうか。
 彩子は、天上から降り注ぐ光のような温もりのある音に酔いしれた。波の飛沫のような高音に身を委ねていると、一音一音が自分の一部のように体に沈んでいく。さざ波のように寄せてくるきらびやかな高音は、何かを問いかけるように心の扉を叩きはじめる。透に出会ってからの日々が、列を成すように浮かんでは消え、彩子はその1つ1つが愛おしく思えた。

「彩子、目を開けて……」
 窓から差す光を背中に浴びた透が、片膝をついて跪いている。目をしばたたかせる彩子に、透は照れたように微笑む。スマホの待ち受けにして、ずっと見ていたいほど眩しい笑顔だった。
「リストの『孤独の中の神の祝福』という曲なんだ……」
 透は目元にはにかんだ笑みを浮かべた。
「俺の人生は孤独で、思い通りにならないことばかりで、周囲の人を失望させてばかりだった。それでも、彩子に出会えた。彩子に出会えて、生まれて初めて、人生は悪くないかもしれないと思えた」
 透は彩子の両手を取り、マスクの中で、息を大きく吸って続けた。
「俺の残りの人生を、彩子を幸せにするために捧げたい。俺と結婚してくれないか?」
 透は不安を宿した瞳で彩子を見据えていた。
「はい。宜しくお願いします」
 彩子は、映画のように進行していく現実に感情がついていかず、それに見合う反応を役者のように演じていた。
 

 透は頬を緩め、ジャケットのポケットから小さな群青色のケースを取り出すと、恭しくふたを開けた。イルカをデザインしたシルバーの指輪が繊細な輝きを放っている。
「このペンダントと同じデザイン?」
 彩子は思わず胸元のペンダントに触れた。
「セットで買っておいたんだ。指輪はセミナーが上手く行ったら、渡そうと決めていた。このイルカは大きいのが俺で小さいのが彩子。2匹が抱いているルビーは俺達の幸せだ」
「すごく素敵。高かったでしょう……?」
「本当はもっと高級なものを贈りたかったけど、このデザインにしたかったんだ。気にいってくれた?」
「気にいらないわけないよ!」ようやく感情が追いつき、喉元に熱いものが押し寄せてくる。
 透は指輪に優しく口づけてから、彩子の左手の薬指にはめた。彩子は雲のなかを歩いているようなふわふわした気分で石に触れた。
「ありがとう。一生大切にするよ」
 
 彩子は跪いている透の手を取って立たせた。
「近いうち、透さんのお母さまのお墓に、ご挨拶に行かせて。羽生さんにもご報告しないと」
 透は頷き、目元に緊張をにじませて言った。
「彩子のご両親に挨拶に行きたい。俺では、許してもらえないと思うけど、認めてもらえるまで何度も行くよ」
 透の声は、不安を無理に押し込めたような快活さを含んでいた。
 彩子は両親の反応を想像し、急に現実に引き戻された。それでも、彩子はいまの透を心から誇らしく思っていた。両親に何を言われても、彼を守り、絶対に手を離すまいと決めた。
「ごめん、透さん。今まで黙っていたけど、今日のセミナー、うちの両親にも視聴してもらってたの。私たちのことをわかってもらうために、一番いいと思ったから」
「何でそんなことしたんだよ、恥ずかしい! 一生、許してもらえないかもしれないじゃないか!!」
 透は狼狽し、声を荒らげた。
「恥じることなんて何一つないよ。透さんは胸を張っていればいいの!」
 彩子は透を守るように強く抱擁した。それは、この幸せを守る決意を固めるためでもあった。


(完)

※ この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

※2 強迫症の治療方法は一例です。治療については、専門医にご相談ください。


 原井クリニックでお世話になった先生方、スタッフ様、患者様、ご家族様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。


参考文献(五十音順)

 浅岡雅子(清水栄司監修)『自分でできる認知行動療法 うつ・パニック症・強迫症の治し方』(翔泳社、2017年)

ジェフリー・M・ウォーツ(吉田利子訳)『不安でたまらない人たちへ』(草思社、2017年)

岡嶋美代、原井宏明『やめたいのに、やめられない(強迫性障害は自分で治せる)』(マキノ出版、2013年)

奥田健次『メリットの法則 行動分析学・実践編』(集英社新書、2012年)

上島国利『図解決定版 強迫性障害を乗り越える! 最新治療と正しい知識』(日東書院本社、2014年)

亀井士郎、松永寿人『強迫症を治す―不安とこだわりからの解放』(幻冬舎新書、2021年)

菊晴『几帳面だと思っていたら心の病気になっていました』(KADOKAWA、2020年)

ジョン・グリーン(金原瑞人訳)『どこまでも亀』(岩波書店、2019年)

島宗理『人は、なぜ約束の時間に遅れるのか 素朴な疑問から考える「行動の原因」』(光文社、2010年)

マーク・サマーズ(二宮千寿子訳)『すべてのものは、あるべきところに』(青山出版社、2000年)

しらみずさだこ(佐々毅監修)『うちのOCD』(星和書店、2015年)

たかはし志貴『バセドウ病が原因でした。おまけに強迫性障害も!』(ぶんか社、2019年)

田村浩二『実体験に基づく強迫性障害克服の鉄則 増補改訂版』(星和書店、2014年)

田村浩二『強迫性障害 聞きたいこと 知りたいこと』(星和書店、2008年)

筒美遼次郎『ぼくは強迫性障害』(彩図社、2016年)

中島美鈴『悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 「認知行動療法」入門』(光文社新書、2016年)

原井宏明、岡嶋美代『やさしくわかる強迫性障害』(ナツメ社、2012年)

原井宏明監修『強迫性障害に悩む人の気持ちがわかる本』(こころライブラリー、2013年)

エドナ・B・フォア、リード・ウィルソン(片山奈緒美訳)『強迫性障害を自宅で治そう!』(ヴォイス、2002年)

リー・ベア(越野好文、五十嵐透子、中谷英夫訳)『強迫性障害からの脱出』(晶文社、2000年)

リー・ベア(渡辺由佳里訳)『妄想に取り憑かれる人々』(日経BP、2004年)

テリー・マーフィー(仁木めぐみ訳)『僕は人生を巻き戻す』(文藝春秋、2009年)

松井沙夜『恋から始まったビョーキ:私は強迫性障害です』(新潮社、2016年)

松田慶子(上島国利監修)『本人も家族もラクになる 強迫症がわかる本』(翔泳社、2017年)

みやざき明日香『強迫性障害です!』(星和書店、2018年)

みやざき明日香『強迫性障害治療日記』(星和書店、2019年)

ジョナサン・レセム(佐々田雅子訳)『マザーレス・ブルックリン』(ミステリアスプレス文庫、2009年)

ジョン・ローガン(高橋結花、番由美子)『アビエイター』(メディアファクトリー、2005年)


映像資料

名探偵モンク(2003)

アビエイター(2005)

マザーレス・ブルックリン(2020)