ピアノを拭く人 第4章 (7)
激しかった風は、だいぶ落ち着き、星月夜になっていた。
彩子はハンドルを握りながら、透との交際が、真一を通して両親の耳に入らないかと懸念した。だが、考えてみれば、真一は告げ口をするような人ではない。彩子は、いつの間にか、彼の人柄を好きになっていた。そんな彼と恋人になる機会を失ったことをほんの少し寂しく思い、友人でいられることをとても嬉しく思った。
閉店時間を過ぎたフェルセンの駐車場には、透の車も羽生の車も止まっている。店内の灯りは、まだ点いている。彩子は、少し迷ってから、扉を開けた。
テーブル席で、羽生がノートパソコンを広げて、Excelに数字を打ち込んでいた。
「こんばんは。ようやく風がおさまりましたね」
「あれ、こんな時間にどうしたの?」
「電気が点いていたので……。お邪魔ですか?」
「いや、構わないよ。売上と利益の計算をしていたんだ」
羽生は老眼鏡を外して目をこすり、ポケットからマスクを取り出して付けた。
「いかがですか?」
彩子は向かいのテーブルに掛けて尋ねた。
「うん。若いお客さんが増えたから、売上は回復しつつある。ただ、飲物一杯で長居する人が多いせいか、利益はいまいちだね」
羽生は画面をにらみながら腕組をした。
「すみません……。私が考えたクーポンのせいですね」
「いや、気にすることないよ。学生さんの中には、リピーターになってくれた子もいるし。何もしないよりは、ずっと良かったよ。お一人様おせちも、元は取れたよ」
「今度はクーポンではなくて、500円以上の注文で50円引きとかの割引券にしましょうか。席の回転率を上げることも考えないといけませんね」
「回転率ね……。生演奏が売りだから、ゆっくり聴いてほしいし、難しいところだね。こちらから、追加の注文がないか、しつこく聞くのも気が引ける」
「店内のお客様に、サンプルを配って、宜しければいかがですかと尋ねるのも一案ですね。私、このあいだ、カフェで店員さんから、すごく香りのよい珈琲を小さな紙コップでいただいて、美味しかったので、その場で注文しちゃいました」
「それいいね。そうだ、そろそろ冷えたと思うんだけど……」
羽生は厨房の冷蔵庫からタッパーを出して、中身をカットし、小皿に一切れ乗せて持ってきた。
「午前中、透に手伝ってもらって、作ったんだ。透、手袋もマスクも1枚だけで、やってたよ。よかったら、食べてみて」
「透さん、あの重装備やめたんですね! ガトーショコラですか?」
「バレンタインが近いし、妻のレシピを探して作ってみたんだ」
彩子は、マスクを外し、フォークで小さくカットして口に運んだ。
「美味しい!」
しっとりしていて、甘すぎない。冷えているので、歯にべたつくと思ったが、思ったより口どけがよく、すぐにお腹に収めてしまった。
「これ、すごい美味しいです。サンプルを食べたら、絶対注文したくなりますよ。女性は、バレンタインにプレゼントしたくなると思います。テイクアウトできるようにしてくださいよ」
「そう? それなら、明日店に来たお客さんに、生クリームを添えたサンプルを配ってみようかな」
羽生は目元に満足そうな笑みを浮かべながら言った。
「透に店を残してやりたいから、コロナがおさまるまで何としても持ちこたえたいからね」
彩子は神妙な顔で頷いた。
「透にはお祖父さんが残してくれたアパートと駐車場があるが、アパートは老朽化して、入居してくれる人が減っているんだよね。お母さんが亡くなったとき、住んでいた家を売って、透はアパートの一室に移ったから、多少の貯えはあるが……」
彩子は、透の家に行ったことがない。深く追求したことはないが、もしかしたら、彼が見せたくないのかもしれないと思った。
「あのグランドピアノは、家を売るときに業社に引き取ってもらう予定だったけど、透が手放したくなさそうだったから、ここに移したんだ。なんでも、離婚したお父さんがくれた慰謝料で買ったらしい」
「そうでしたか……」
彩子は透が執拗にピアノを拭く理由が垣間見え、胸を締め付けられた。
「透さんの車がありますけど、まだ上にいるんですか?」
「うん、8時に上がってから、何か熱心にSkypeでやりとりしてたよ」
「そうですか。あの、透さん、今日何か変わったところありませんでしたか?」
羽生の老眼鏡の奥の細い目が鋭く光った。
「喧嘩でもしたの?」
「まあ、そんなところです……。私が一方的に怒ったというか、配慮不足でした。強迫症の症状が再燃してしまいましたか……?」
「いや、それはないから安心して。ただ、ずっとうわの空で、演奏は精彩を欠いていた」
「すみません……。あの、行っていいですか……?」
「うん。行ってやって」
羽生は娘を見守るような面持ちで彩子を送り出した。
ノックしても応答がないので、彩子はドアに耳をつけて中を伺ったが何も聞こえない。
「入るよ……」
彩子が遠慮がちに中に入ると、マスクを外した透が、チラシの裏に書いた手書きのメモを見ながら、難しい顔をしている。
「透さん」
彩子が声を掛けると、透はびくりと振り向いた後、気まずそうに目を伏せた。昼間、言い争った余韻を引きずっているのがわかった。
「何か書いてたの?」
彩子は、やわらかい声で尋ね、隣の椅子を引いて掛けた。
「ああ、カルロスたちとSkypeで話して、Zoomセミナーの内容をつめていたんだ。プログラム確定!」
彩子がのぞき込むと、透はマスクを付けるのも忘れて話し出した。
「場所はフェルセン。前半は、赤城先生の司会で、俺をのぞいた3人がコロナと強迫症についてトーク。後半は、桐生心理士の司会で、強迫症の患者と、支える家族やパートナーの関係について、俺と彩子が話し合う。その後、視聴者からの質問受付。赤城先生と桐生心理士は、病院と関係なく、個人として参加してくれるそうだ」
透はどう思うと問いたげに、彩子を見た。
「何で、透さんはコロナのトークに参加しないの?」
「ああ、俺は後半のほうがずっと大切だから、そっちにエネルギーを割きたい」
腑に落ちない様子の彩子を見て、透はさらに続けた。
「あの病院は遠いし、良くなってきたから、このセミナーを終えたら卒業しようと思う。薬をもらうだけなら、近くのクリニックでもいいだろ」
「そんなのリスクが高すぎるよ。強迫症やERPに詳しい先生や心理士さんがいないと、再発したときに、助けてもらえないじゃない!」
透は声を荒らげる彩子の両肩を乱暴に掴み、マスクをはぎとって口づけた。
「ちょっと、何なの?」
彩子は訝し気に透の体を押しのけた。
「俺は、彩子に嫌な思いをさせることは、一切したくないんだ。彩子を失うのが怖いんだよ……」
透は彩子の肩にずんともたれた。
「女性に対して、こんな思いを抱いたのは初めてなんだ……」
透は彩子の肩に顔を埋め、くぐもった声で言った。
「病気で不安定なときに出会ったから、そう思ってるだけじゃない?」
彩子は透の髪を撫でながら、畳みかけるように言った。
「今の俺は、しっかり自分で判断できる。たとえ、最初は彩子の言った通りだったとしても、こんなふうに女性を好きになったのは正直初めてなんだ」
透は彩子の目を見つめて問いかけた。
「彩子を幸せにしたい。俺を信じて、これからもそばにいてくれないか?」
彩子は透の頬を両手で包み、優しく口づけた。
「私も透さんの傍にいたい。そのかわり、E病院での治療はそのまま続けて。赤城先生の診察にも、桐生先生のカウンセリングにも、私を同席させてくれる?」
「もちろん。これからは、同じ日に両方予約するよ。彩子が午後休めそうな日を教えてくれないか?」
「あれ、前は赤城先生と桐生先生の空いている日が合わないから、同じ日は無理って言ってなかった? あれも嘘だったんだ。へー。いつまで隠すつもりだったのか……」
透はきまり悪そうに俯いた。
「すまない……。でも、信じてほしい。彩子が離れてしまうと思ったら、心底怖かった。彩子を失うことに比べたら、あの人の診察を止めることなんか何でもない」
「失った信用は、行動で取り戻してね」
彩子は透に背を向け、目元ににじんだ涙をそっと拭った。