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風花が舞う頃 21

「どういうこと……!?」
 唇が震え、鼻の奥がつんと痛む。大地を踏みしめる足は力を失い、身体を支えていることさえ覚束ない。龍さんが離れていく恐怖で、全身から血の気が引いていく。

「僕は、移籍の話と交際の申し込みを同時にするべきではなかった。僕なりに、葛藤した結果だけど、風花さんが欲しいという気持ちが先走りすぎてしまったようだ……」

「私、嬉しかったよっ! どちらの話も本当に嬉しかった。龍さんが謝ることなんて、何もない!」

「けれど……、それが貴女を悩ませ、苦しめている。僕たちの関係をぎくしゃくさせている。考えてみれば、別に考えろということに無理があった。僕が卑怯だったんだ」

「ほとんど答えは出ているのに、私の決断が遅れていることが原因で、あなたに罪悪感を抱かせてしまった。本当に申し訳ないと思ってる。
 でも、これだけは言っておきたい! あなたのせいだと思ったことはない。私はあなたが好き。大切に思っているし、失うのが怖い。だから、お願いだから、距離を置くなんて言わないでっ!」

 いい年をして、欲しいものをねだる子供のように感情を爆発させてしまった。彼は私の稚気を軽蔑したに違いない。もう、終わりだという絶望が胸から染みだし、全身を飲み込む。

「風花……」
 彼は意外にも、やわらかい光を帯びた瞳を私に向ける。初めて「さん」なしで呼ばれ、視界が明瞭になったような錯覚を覚える。視線が重なると、彼は左手で私の肩を力強く抱き寄せる。

「思いがけなく、本音が聞けて良かった。僕もこれだけは言っておく。僕が風花を離すことはない。いま言うことではないけど……、時期が来たらきちんとプロポーズするつもりでいる。
 風花がH大に勤め続けても、その気持ちは変わらない。僕が学長でいられるのは最長で2期8年だから、それを終えるまでに国際関係学部を軌道に乗せたい。先生方に僕の考えを共有してもらいたい。だから、今までのように風花の意見を聞かせてほしい。僕も、差支えない範囲で、国際関係学部で進行していることを話すから。
 僕は学長の任期を終えたら、O大で教鞭をとり、臨床も続けようと思っている。でも、風花が東京にいたいなら、僕も都内で働き口を探す」

「ありがとう。私も、あなたと人生を共にしたい……」

 伝えたい思いが、喉元に押し寄せて渋滞を起こしている。だが、熱いものが込み上げてきて、言葉にならない。雲が少しづつ流れ、霞んでいた視界が開けていく。青い山並みがくっきりと現れ、生まれ育った街も眼下に姿を現す。

 龍さんは私の潤んだ瞳をとらえ、強張った声で問いかける。
「風花のご両親に正式に挨拶させてもらえないか。もちろん、おじいちゃんのことが落ち着いてからでいいから」

 両親の反応を想像すると、あふれかけた涙が逆流してくれる。
「ありがとう。でも、うちの両親に挨拶するのは、もう少し待ってほしいの」

「なぜ? 風花がどちらを選ぶにせよ、僕たちは結婚する。ご両親に挨拶してはいけないかな」

「うちの両親は、私に帰ってきてほしいと強く言ってきてる。龍さんに、O大に誘われたと口を滑らせたら、超がつくほどの大喜びで、私に選択の余地を与えない勢い。龍さんと交際していることは言ってないけど、ばれたら何が始まるか……」

 龍さんは、くっくと肩を揺らして笑う。
「なるほどね……」

「もともと、両親は私を地元国立に進学させて、こっちで就職することを望んでいた。就職は地元でという条件で東京に出してもらったけど、留学した上に、東京の大学に就職しちゃったでしょう。親不孝の連続で、後ろめたさはずっとあった。
 うちは、兄が地元にいるけど、母とお義姉さんの折り合いが悪いから、兄は実家に顔を出しにくくなってる。長男に頼れなくなったから、私に近くにいてほしいのはわかるんだけどね……」

「風花が、おじいちゃんとご両親を心配するのはわかる。でも、僕は風花が一番能力を発揮できる場所にいてほしい」

 龍さんは、少し口ごもってから、ぼそぼそとした声で言い継ぐ。
「実は、このあいだ、ご両親と病院で顔を合わせたとき、その話をしたんだ。ご両親はO大に移るように風花を説得してほしいと力説していたけど、僕は風花の意思を尊重してほしいとお願いした」

「ええぇっ!? そうだったのっ……!」
 それを知ると、父が言いたいことを飲み込むように口を噤んだことに合点がいく。

「ご両親に伝えておいたよ。うちの病院は、往診をしているし、介護施設も持っている。いざというときは便宜を図るから頼ってほしいと」

「ありがとう! 本当に心強い。できるだけ、迷惑をかけないようにするけれど、いざとなったらお願いします。私は都内だし、地元にいる兄も役に立ちそうにないでしょう。祖父や両親に介護が必要になったときのために、私が施設とのパイプをつくっておく必要があるとは思ってはいた。けど、なかなか現実感がなくて、先送りしてしまっていて……」

「そのときになってみないと、現実感は湧かないからね。そろそろ、ロープウェイで下ろうか?」

 あれほど苦労して登ったのに、ロープウェイでは、わずか3分で下山できてしまう。下降とともに眼下に迫ってくる群青色の湖を見つめながら考える。彼が私との将来を真剣に考えてくれる以上、私も応えなくてはならない。それに伴い、伝えておかなくてはならないことがある。

 彼との将来を考えると心が走り出す。子供のことを曖昧にしたまま、流れに任せたい衝動が泉のように湧き出してくる。彼が40の大台に近づいた私を選んだ時点で、それを重く捉えていないと解釈したと言い訳できる。とは言え、さらに関係が深まってから打ちのめされるほうが、ダメージが大きい。


 湖畔のレストハウスに入ると、冷房がきんきんに効いていて、外との温度差に慣れるまでに時間がかかる。カウンターで焼きまんじゅうを注文し、隅のテーブルで向かい合う。互いに感情を露わにした気恥ずかしさで、ぎこちない空気が流れる。

 串に刺さった焼きたてのまんじゅうにかぶりつくと、味噌だれの甘味が疲れた体に優しくしみわたる。具の入っていない酒饅頭に、黒砂糖や水あめを混ぜた甘辛の味噌だれをつけて焼いた焼きまんじゅうは県民のソールフードだ。

 龍さんは、味噌がついた口元を紙おしぼりで拭ってから、会話のいとぐちをつかもうと口を開く。
「先日、感染症研究所の元同僚が訪ねてきたんだ。彼と飲んだとき、研究は高い山に登るようなものだなという話になった。風花の研究もそう?」

「ある意味、そうかもしれない。私の場合は、まず山を探すところから始めるかな。まずは先行研究を読み込んで、今までに扱われていない研究テーマを探す。単に必要ないから研究されていないのではなくて、研究する意義が見いだせるテーマでないとダメ。テーマ選びが研究者として成功するかに大きな影響を及ぼすし」

「単に興味があるだけではテーマを決められないということだな。研究テーマを決めるまでに、相当の文献にあたることになるね」

「そうだね。テーマが決まったら問い、つまりリサーチクエスチョンを立てる。それに対する仮説を立てたら、それを実証するために文献や資料収集、インタビュー、社会調査などを行う。仮説を実証できる結果が見えたら、論文の執筆に入る。調査段階で、仮説とは違うことが判明して、問いを変えなくてはいけないこともあるけどね」

「なるほど。頂上は、その研究を発表するとき? 書籍や論文として出版したり、学会で報告したり。博士論文のような思い入れのある研究を発表するときは、自分の子供をお披露目するような思いだろうね」

 「子供」という言葉に刺激され、ずっと喉元に控えていたことを口に出さなくてはと全身が緊張を帯びる。ざわざわした思いを鎮めようと大きく深呼吸する。覚悟が決まると、レストハウスの喧騒が遠のいていき、心に凪のような静寂が訪れる。

「龍さんの立場だと、跡継ぎが欲しいよね? 私、この年齢だし、子供が産めるかわからない。もし、産めたとしても……」
 話し出すと、柄にもなく声が震えてしまった。

 龍さんは、私が続きを話し出すまで、辛抱強く待ってくれる。紙コップの水を口に含み、食道を下っていく冷水が気持ちを落ち着かせてくれるのを待つ。

「私は診断を受けていないけれど、間違いなく発達障害だと思う。両親や兄を見ても、遺伝したのだなと思う。私は、子供の頃から人間関係に不器用で、運動神経が鈍くて、手先が不器用で、マルチタスクが苦手で、臨機応変な対応ができなかった。特に、ASD(自閉スペクトラム症)の症状が強いと思う。だから、幼稚園から高校まで、典型的ないじめられっ子。私の講義を見に来てくれたとき、くすくす笑っている社会人学生がいたでしょう。彼女たちは私の同級生。あれを見れば、私がクラスでどういう立場だったか想像できるよね。私は、そうした特性を子供に遺伝させてしまうと思う……」

 龍さんは、喘息を克服してからは、文武両道で、クラスの中心にいるタイプだったに違いない。私のような子がクラスにいたら、軽蔑やいじめの対象にするか、教師や級友の評価を上げるために親切心を発揮しただろうか。いずれにせよ、彼のなかで私のイメージは変わってしまった……。人生を分かち合う相手として、見誤ったと後悔しているだろう。そのことは胸が圧し潰されるほど悲しい。だが、龍さんが離れていくなら、私はH大で頑張り、自分を養っていける。

 開き直って視線を上げると、龍さんは陽だまりのような眼差しで私を見ている。少なくとも落胆や失望が浮かんでいないことに、かすかな希望を見出してしまう。
「ごめんね。今になって、こんな話をして……」

 龍さんは問わず語りのような口調で言う。
「風花の背中が時々苦しそうに見える理由をずっと考えていたんだ……」

「え?」

「風花は堂々としている。けれど、何か重苦しいものを抱えている気がしていた。風花が努力して、自分の能力を生かせる道を見つけたことを思うと、ますます魅力を感じる」

 龍さんは、持ったままだった焼きまんじゅうの串を皿に置き、私に視線を据える。
「僕は、もう45だし、子供は持たなくていいと思っている。それに、僕は親族を押しのけて学長になった。だから、僕に子供がいないほうが兄弟や親戚を安心させられるんだ。もちろん、風花がどうしても欲しいなら、考えるつもりだったけど」

「そうだったの……」

 龍さんの目元から、優しい笑みが顔全体に広がっていく。
「僕たちには、たくさんの学生がいる。それだけで、手一杯なんじゃない?」

「あはは、確かにそう」

 喉元に込み上げてきた熱いものを飲み込もうと、焼きまんじゅうを口に含む。甘辛い味噌ダレとふんわりとした酒まんじゅうの生地が口の中で溶け合い、舌先から子供の頃の記憶がにじみだす。それは、憎しみと怒りを含んだものではなく、純粋に懐かしいと思えるまでに浄化されていた。


 いつも、拙い作品を読んでいただき、ありがとうございます。今年も、少しでも良いものをお届けできるよう、精進してまいります。

 今年も宜しくお願いいたします。