『違国日記』『オーイ!とんぼ』再読中
ヤマシタトモコ『違国日記』を前に一度読み、素晴らしいと思って、最近もう一度読み直している。心情描写やセリフの一つ一つがソリッドで瑞々しく、綺麗で深い湖のようである。そして、あらためて読むと細かいシーンのディテールがとてもリアルで映像的なのに気づく。開けっぱなしにした冷蔵庫のピーピー鳴る音とかね。そういう細かい現実的描写の積み重ねによって、平面的であるはずのコマの向こうの登場人物たちが、血肉を伴ったリアルな人間として立ち上がってくる。
誰しもに「生活」はあり、何かをするとか、AからBへと移動するということは時間と労力がかかるものだ。同じように、傷ついた心が癒やされ回復するにはそれなりの時間と労力を必要とする。それはほとんど物理である。適切な例えかどうかわからないが、彫刻における「マッス」のように、生きた塊として抽出された人の心の質感がそこにある。そういうことを描いているように思う。
あとはやっぱり、セリフがとても練られていて良い。決めの重要なセリフでなくとも、「三日坊主になるってことは見方を変えりゃあ必要ないってことだろ」みたいなちょっとした言葉にしみじみと納得感がある。現実と折り合いをつける時にそれらを認識するフェーズを誰もが通過するが、その認識に形を与えたものが言葉である。大人の実存と、その折り合いとしての言葉。
あと、槙生の佇まい。「自分の手の届く範囲でしか生きられないが、手の届く範囲においては自分に嘘なく誠実に生きる」といった風情がとても良い。仮に、今の自分から遠くにある実体さだかならぬものを自分のもののように軽率に取り扱うのがSNS的だとするならば、槙生は実にSNS的ではない。それを「不器用」とするなら、本来人間は誰しも不器用なのではないか。誠実と言ってもいい。ちゃんとトレードオフを受け入れる姿勢。犠牲を払うこと。犠牲、だと言葉が強すぎる。代償を払うこと、それだ。
あと、もう一人の主人公である朝が、「かわいそうな境遇ゆえのいい子」ではないのが良い。人間はそんなにわかりやすいものではない。朝という15歳の中にある葛藤や矛盾、そして多面性は作品のリアリティラインを裏切ってない。『違国日記』という作品にとって都合の良い存在として人物が配置されてない。槙生も、朝も、笠町も「そこにいる」かのように描かれ、視界狭く迷子になりそうな世界の一本の紐の上を、たどたどしくも頼もしく自分の足で歩いている。
『オーイ!とんぼ』を読んでいると、かつて自分が一部の大人たちに見ていた「歳を取るとなぜか釣りとかゴルフが好きになる人々」に自分もなってしまったのかとしみじみする。ゴルフ漫画なんて何が面白いのか、子どもの頃はわからなかった。
この作品の良さはゴルフの面白さと不可分だろうが、ゴルフという装置がなかったとしても、すでに人物の設定そのものに魅力がある気がする。表舞台に立てなくなった50代の元プロゴルファー。偶然流れ着いた離島で出会ったゴルフの天才少女。彼らがメジャーシーンへ出ていくとどうなるか?この筋立てだけでほら、もう面白い。
絵は粗い。原作と作画が分担されているのにこれはどうなのかという粗さである。なのだが、描写が実は非常に丹念で(ごめん「丁寧」ではない)、読んでいてちゃんと心を掴まれる。主人公であるとんぼが、島を出る前に書いた作文のシーンでは私はいつも泣いてしまう。そしてどのキャラクターの目線で物語を見ているのか?と問われれば、私は50代の元プロゴルファー、イガイガ(五十嵐一賀)である。
イガイガはゴルフ賭博につい手を出して、プロ資格を剥奪され、妻子に去られ、仕事を探しに南西諸島のトカラ列島へ…という、さながら転落の人生を歩むわけだが、トカラに行って何もない島の時間の中でゆったりと生きることができ、とんぼに出会って生き甲斐も生まれ、さらに再度プロ資格を取るためにタイへと渡ってチャレンジする。彼は人生を失敗したという意識も手伝ってか、自分と他人に対して誠実であろうとしている。自分の本心を裏切らないこと。これを意識してやっていくのは力がいるが、イガイガは不器用だろうと損をしようと自分の本心に誠実であろうとしているように見える。だからとんぼに出会えたし、島の一員として受け入れられたのである。トカラに渡った以降のイガイガの人生はなかなかに善きものであると言えよう。
なお、作中さまざまな女性ゴルファーが出てくるが、個人的な推しは「グレート・ワンパターン」安谷屋つぶらである。
原作はかわさき健、 作画は古沢優。50代後半と60代前半のコンビである。かわさき健は『巨人の星』で有名な漫画家・川崎のぼるの実子であると後で知った。