私に「言葉」が必要になった理由

自分で仕事をするようになって、私に必要になったものがある。

それが「言葉」である。

会社員の時は、会社の看板があった。だから「自分自身が何者か?」なんて関係なかった。「どこの会社の何の担当か?」が分かればそれでよかった。

専業主婦になった時、私は「〇〇ちゃんのお母さん」になった。何となく、評価軸が子どもに移ってしまった気がした。時には、「ご主人はどんな仕事してるの?」なんて聞かれて、明らかに夫の属性で私を判断されるような、何ともビミョーな経験も数多くしてきた。

はじめてスポットライトが自分にあたった

自分個人で仕事をするようになった今、ようやく軸が自分自身に戻ってきた。そしたら、急に「言葉」が必要になった。

・私は何者なのか?
・私は何が好きで、何が嫌いなのか?
・何に情熱を持っていて、何で今、こんな仕事をしているのか?

急に、自分自身を伝える力が必要になった。

「外」に求める答え・「内」にすでにある答え

わたしは今、自分の中にある「熱いもの」に着火され、『子どもが教える学校』と言うプロジェクトの運営に関わっている。簡単に言うと、プレゼン講座で「プレゼンは何か?」を学んだ10代の子供達が、子ども先生として大人達に授業をするオンラインプログラムである。新型コロナウィルスによる休校期間中に一人の女性が始めたプロジェクト。詳しくは昨日の記事をみて欲しい。

私がなぜ、このプロジェクトにここまで思いを乗せているか?と言うと、ただ純粋に、子ども達の「変化」「成長」を見れるのがたまらなく私の熱い部分を燃えさせるから。子ども達が熱を帯び、どんどん目の色を変えて自発的に楽しみだし、発表を終えた頃には、3週間前とは明らかに「違う」、自信を手に携え、次の行動を起こすエネルギーに満ちている。その現場にいれるのが、楽しくて仕方がないから。そしてそれは、自分自身が子ども時代に果たすことができなかったものであったから。

学校でも発表はある。プレゼンテーションだって取り入れられている。とは言え、それは明らかに『子ども先生』が『子どもが教える学校』でやっているそれとは別物である。子ども達に聞くと、何とも分かりやすい答えが返ってくる。

だって学校の発表は「答え」が決まってるから。
「なに」を「どのように」発表すると、先生に褒められるのか? 大人が喜ぶのか?は決まっている。

おとなしくそれに「添える子」にしろ、それに「添わない子」にしろ、学校で行うそれは「面白くない」ことが多い。

成績・偏差値・学歴 … 何にせよ一律に評価するには評価軸が必要で、数値化されるようになる。それぞれの個性など、その子どもがどんな子か?は便宜上、数値化される。それにより、「正解」を求める人が増えてしまった。そんな評価社会の中では、その数値が高いことが「善」であり、「優れている」と評価される。そのため、「自分が何者か?」や「自分の思い」なんて二の次になり、自分の中にある「熱いもの」は歳をとるごとに分厚いカバーが幾重にも巻かれ、ちょっとやそっとじゃ動かせない蓋が重石となって乗っかっていく。

だって、いちいち自分の好き/嫌いやら、パッションやらに問うてたら、何かにおいていかれる気がするから。「感じる」ことなく、枠にはまりにいくほうが「カンタン」な気がするから。

ところでちょっと聞いてみたい。

人々の心を動かす人。心を惹きつける人ってどんな人?

自分のビジョンやスタイルを持っている人。
揺るがない自分軸がある人。
外に答えを求めない人。

そんな人に憧れを抱きませんか?

「何でこの人はこんなに強いんだろう?」と自分のスタイルを貫く人に惹かれませんか?

「自分の好き」を好きでいい!

私は、自然が好きだ!でっかい自然を前にすると心が晴々する。山の頂上に登ったら「ヤッホー」と言いたくなったりもする。

私は、食後に一口つまむチョコレートが好きだ!ついつい食べてしまう。

「わたしの好き」を誰に遠慮する必要があるって言うんだろう?(もちろん犯罪はNGだけどね…あえて言う必要もないけど、一応書いておこう…)

虫が好きな子がいる。わたしは苦手だ。だけど、好きな子は好きなままでそれでいい。わたしとその子が同じである必要はない。むしろ虫が好きな理由や観察ポイントを教えてもらったら、好きにはなれなくても興味をもつかもしれない。

そう。わたしの好きと誰かの好きが同じである必要はないけど、お互いに自分の「好き」を表現できる「言葉」を持っていれば、お互いに伝え合うことができ、少し世界が広がる気がする。だから「伝える言葉」は持ったほうがいいとわたしは思う。だって、「言葉」はわたし達人間が与えられたツールなんだから。確か学校で習った気がする。

人間とは、「言葉」「火」「道具」を使える動物である。

あなたは自分の「好き」を言葉で伝えられますか?
あなたは自分が「何者か」を言葉で伝えられますか?

曖昧な言葉を使っていると、曖昧な行動しかできなくなると聞いたことがある。

「何となく…」「どっちでも…」「たぶん…」「ビミョウ…」「ふつう…」「別に…」「うん。まぁ…」

ましてや、目で見る映像や、ゲームなどの効果音などで、何となく把握しているだけだと、より言葉で表現したり、誰かに思いを伝えることに困難を感じるだろう。そうなると、物事を具体的に考えて、行動にうつすことはできなくなる。

だって頭で考える時だって、声に出さずとも言葉を使って考えるから。自分がなにを考え、どう思っているか? 自分の意見は何なのか?を考えるには、全て「言葉」が必要になるから。そのひとつひとつを言葉に置き換えて表現することができなければ、残念ながら、それ以上思考を深めることはできないのである。

話が随分逸れてきたようにも感じるが…軌道修正をすると。

子どもが教える学校でプレゼンについて学び、自分の伝えたい思いを伝える子ども先生達は、初めから伝えたい思いが溢れかえっているわけではない。

初めは語彙数も少ない。どこかぼんやりした言葉を使っていたりする。

だけど、
「どうして?」
「例えば?」
「どう言うこと?」

何度も、何度も会話を繰り返し、

「えー!面白い!もっと教えてー」
「ん?なに?知らないから教えてー!」

と言われて、一生懸命、言葉を駆使して表現している間に、自分の「好き」や「伝えたい思い」を表現する「言葉」を手にしていく。そして、表現すればするほど、考えが深まり、より好きなものが好きになり、自分がやりたいこと。伝えたいこと。そう言えば、こんな風に思ってたんだ!を自分の言葉で伝える快感を体験し、行動していくのである。

そしてそんな子ども先生の姿を見て、おとな達はウズウズしだす。
自分も言葉にしたくなる。グルグルまきに巻かれて、目をそらせていた自分の中にある熱い部分を、覗いてみたくなる。 なんか面白いよね。

熱い要望に答えて、「子どもが教える学校」の創設者であり、校長の鈴木深雪さんが「興味・関心・やる気」を引き出すための、『子どもの熱源着火セミナー』を開講されます。。ご興味ある方は、ぜひこちらを!

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