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家族の「最期」を書いていた

当たり前のように訪れると思っている明日には、意外と、案外、手を伸ばしても届かない。

そんな誰しもがたどり着くけれど、ふとしたときに忘れてしまうような、たしかな真理にわたしも思いを馳せる瞬間が生まれた。今から一年前、2023年が終わりを迎えようとしていた頃のことだった。

2023年12月11日、大好きだった祖父が他界した。10月の末に、とある病が見つかり、入院してから約一ヶ月と少し。あまりに早い別れだった。入院の二週間ほど前までは、車を運転して、孫であるわたしや娘である母に会いにきてくれていた祖父。そんな日常がもはや信じられないくらい、彼の容態は日に日に悪化し、そして、静かに最期をむかえた。

祖父の病が見つかってからというもの、入院生活を送るようになってからというもの、私たち家族は自分の生活をまともに送る余裕もないくらいに緊迫した日々を過ごしていた。

「今日が峠だ」という医者の言葉に「どうか嘘であってくれ」と願いながら病院で朝を迎えたり、その傍ら、家族で交代しながらなんとか食事を摂るような日常。あの一ヶ月間の記憶は、実はほとんどない。

と、そういう忙しない時間を過ごしていたにも関わらず、当時のわたしはなぜだか、祖父との別れを迎えるまでの間のできごとを言葉に残すようになっていた。

日記のような温度感だけれども、誰かに届けるための要素もあるような、日記以上、記事未満の文章だ。どうして書きはじめたのかはわからないけれど、気づけばそれが、最期の日をむかえるまでのルーティーンのようになっていた。

大切な人の別れのときですら、言葉を連ねるだなんて、随分と薄情な孫じゃあないかと他所からは怒られるかもしれない。

けれど、こうして記すことで、見えてきたものがある。自分自身でも気づいていなかった、言葉の力と、それが持つ救いの話だ。祖父との別れを綴った当時の言葉、それを振り返りながら、わたしにとってはかけがえのない家族の存在を考えてみようと思う。

【2023年11月27日】
今さっき、母から電話があって、祖父が危篤状態だと連絡をうけた。祖父はついこの間アルツハイマー型認知症の診断を受け、その後、嚥下ができなくなったり下痢が止まらなくなったり肺炎を患ったりなどの背景から入院を余儀なくされていた。

自力で食事ができなくなったのがここ最近のホットトピックなので、先はそうそう長くないという話だったが、この週末にどこからかウイルスをもらったらしく発熱や血圧の大幅な低下が見られているそうだ。
お医者さんの話によると「今が峠。会ってほしい人がご家族にいたら、すぐに連絡をしてくだい」とのことらしく、ありがたいことにその一人として連絡をうけた。

電話口ですすり泣く母の声を聞いたとき、咄嗟にわたしは「普通でいよう」と思ってしまった。なので、とんでもなく冷静な対応をしてしまったが、内心、今は大混乱に陥っている。早すぎるだろと思わずにはいられない。2023年はさすがに頑張ってくれると思ってたなあ。じいちゃんよ。

そんなわけで、明日わたしは仕事をそれなりに放り出して病院にいくことになっている。たぶん、明日祖父の姿を目にできたら、それが生前最後になるだろう。そういう覚悟で、行く。

もうすぐ、わたしを愛してくれた大切な人をまた失う。その突然に対応するだけの精神力は、わたしにはたぶんまだない。きっと相当のダメージを負うことになるのだろう。

受け止めきれる余裕はないけれど、母や祖母はもっと憔悴しているはずだ。せめて家族のためにわたしができる限りのことはしていたいと思う。それが、笑顔を届けることならわたしはいつだって笑うし、一緒に悲しむことなら全力で泣いてやる。残された家族を支える柱になることが、今のわたしにできることだから。

「突然」に対応する術をわたしはまだ知らない

【2023年11月29日】
昨日の夕方、例の件で祖父の入院する病院を訪れた。お見舞いという体ではあるものの、冷静ではない祖母と母の連れ添いで、お医者さんの話をしっかりと聞く人として来てほしいという家族のオーダーもあったので、しっかり者のお孫さんを演じる必要があった。

母はよく言っている。「あんなばあちゃんの状態見ていたら、わたしがしっかりしなくちゃって思わずにいられないんだよ」と。その気持ちは、痛いほどによくわかる。いくらなんでもと思うほどに明後日のほうばかり向いており、話をしても右から左に流してしまう祖母の様子をみていると、周りはしっかりせずにはいられない。

そんな祖母をずっと守り続けている母もいよいよ限界で、最近やっと服用をやめられていたはずの向精神薬を再服用せずには暮らせなくなってきた。「めまいがひどい」と吐露している。彼女がめまいを引き起こすときは、だいたいが自身のキャパを超えた精神的負担を背負ったときなのだ。

さて、そんな母を支える役回りは、ほかでもないわたしが担うことになる。彼女の気持ちを察さずとも理解できる感覚を持っていること、物理的な距離が近いことがその理由だ。合理的にも感情的にも正しい選択だと思ったから、自ら選んで母と祖母を支えると決めた。

口をひらけば支離滅裂な祖母の発言に「うんうん」と受け止める方面の相槌を打ち、現実を見ようとしない祖母へのイライラを消化できない様子の母を食事に誘い出し、たらふく話を聞いてストレス発散をしてもらう。東京と仙台とで離れて暮らしているため情報共有がうまくできず冷戦状態に陥った両親の仲を取り持つため、父への連絡も行なった。

そうして今日、思った。わたしはじゃあいったい誰に弱音を吐いてもいいんだろう。溜まりつつあるストレスと不安と心細さをどうやって解消したらいいんだろう。

さて、重たいからだを引きずり生きた今日。そろそろお風呂に入りたいと思いはじめた21時17分に母から電話。「もうそろそろダメみたい。今すぐ病院に来て」とのこと。たまたまコーヒーを買うべく駅に来ていたので、そのまますぐに電車に飛び乗る。

今、病院に向かっている。せめて最期の別れに立ち会えますように。

泣き腫らしたら烏龍茶(温)

【2023年11月30日】
21時17分、母からの着信があり、そのときにいたスタバを飛び出してそのまま電車へ。祖父の入院している病院へ向かう。22時過ぎ頃、病院に到着。

SpO2(酸素飽和度)が到着時点で76〜77を推移。呼吸が苦しそうすぎるが、意識はある。話しかけると頷いたり、目を見張ったりと反応がある状態でひとまず一命は取り留めていた。心拍は不安定、ことの発端となった血圧も不安定だった。

病院に訪れる前、一度心停止をしており、血圧も40台まで低下したそうだ。家族の到着と同時に持ち堪えるのだから、祖父はやはり強い人だなあと感じている。

26時33分、現在も何度か不安定な状態を繰り返しているがなんとか安定してはいる。心拍は90、血圧は上が149、下が82、SpO2は85。よく眠っている。引き続き見守りたい。

一時間に一度くらいは目を覚ましていて、そのたびになにか声を出したり、目や表情で感情を語ろうとしてくれている。ささやかでもコミュニケーションを取れる時間があるのが救いだ。

ただ、右肺のほとんどに水が溜まっているらしく、かつ、点滴の水分を排出するほど内蔵器官の体力がないため、身体がむくみたい放題で心配だ。手を握ると赤子のクリームパン現象よろしく、ぷにぷにと弾力がある。

その後時間は進み、明け方、5時をまわった。容態は相変わらず安定していて、心拍は90、血圧は上が127、下が68、SpO2は90。心停止から8時間、なんとか持ち堪えている。

祖母や母はそもそも徹夜に慣れていないので身体のダメージがなかなかのものだが、病院から離れるのも不安だからとお医者さんが出勤するであろう10時までは病院で過ごすらしい。祖父のタフさもさながらだが、祖母の精神力も凄まじい。

わたしは一旦容態の安定を祈りながらシャワーを浴びるため自宅へ。また9時頃を目指して病院へ戻ってくる予定だ。めちゃくちゃしんどいが、つらいだのなんだの言ってる暇はない。もう少し頑張るしか選択肢は残されていないのだから。

強い男の本気をみた

【2023年12月2日】
祖父の容態は、相当よくないもののなんとか耐えてくれていて、火曜日(4日前)に最期だと思っていたはずが、なんとそのあと3回も面会することができている。ギリギリ、なんとか意思疎通がとれるのも、本当に救いになっている。

ただ、ふと思うのは、人との別れは思っているよりも突然やってくるのだなということだ。わたしの場合は幸い別れに向かっていく時間を取ることができているが、振り返れば祖父は、約1ヶ月とちょっと前まで車を運転してふつうにでかけている人だった。

(もちろん固形物の)食事を摂り、植物に水をやり、さんぽをして、おふろに入って、ねむる。孫や娘である私たち家族が訪れれば、一緒に外食を楽しんで、なんでもない会話をする。そういう日常を送っていた人だった。

ところが、そんな祖父も、入院してからの1ヶ月間においては固形物を口にしていない。嚥下ができないので、点滴による栄養補給のみとなった。起き上がることなんて困難すぎるし、酸素マスクがなければ呼吸をすることすらままならない。

そういうふうに、驚くほどに人はあっという間に変わる。

伝えたい愛は、伝えたいときに伝えないと、本当に伝える機会を逃すかもしれないのだ。あたりまえのことなんだけれど、やっぱりかけがえのない人との別れに直面すると、そんなことを考えざるを得ない。

今できることは、今やっておけ

【2023年12月12日】
12月11日、22時54分、祖父が永眠した。今、葬儀屋さんを待つ病室内でこれを書いている。最期はとても安らかだった。

22時過ぎに病院からの呼び出しがあり、たまたま病院の近くで食事をしていたわたしはそのままタクシーに乗り込み病院へ向かった。

病院に着いたとき、すでに心拍は70程度に低下していて、呼吸数(RR)が3〜4程度。顔面が蒼白で、白目をむいた祖父は、ギリギリ生きているという状態だった。

何度かの心停止を繰り返したが、周囲からの声かけに応じるように心拍を再開させ、耐えてくれていた。その様は、まるで祖母の次に病室に到着したわたしを待ち、さらに遅れて到着した母を待ってくれていたかのようだった。

母が到着してほんの15分程度で、祖父はすっと息を引き取った。入院してからの日々は決して楽ではなかったと思うが、納得して、ゆっくり眠りについたようにみえる。

彼は本当に強くてやさしい人だった。そうやって、私たち家族がきちんと看取る時間をつくっていてくれたのだから。

それに、アルツハイマー型認知症と診断されて、老老介護の負担や施設代の捻出など、さまざまな不安ごとを抱えた私たち家族の苦悩を長引かせないようにと、介護が必要になるよりも前に息を引き取った。

それが彼の意思だったのかどうかはわからない。けれどもわたしには、それが「お前らには苦労をかけたくないから」という、祖父のただならぬやさしさと、それに紐づく意思だったようにみえた。

どうか、どうか、安らかに。わたしは、じいちゃんの孫として、精一杯生きていくから。わたしのじいちゃんとして出会ってくれて、本当にありがとう。これからもずっと、永遠に大好きなんだから。

大好きな祖父が旅立った

【2023年12月14日】
仮通夜と称される、告別式の前日準備に出向いた。仮通夜で行うのは湯灌(ゆかん)と納棺式。

湯灌とは、故人を最後のお風呂に入れる時間をさす。これを設けることで、現世での苦労や苦しみを労い、健やかに死後の旅へと赴いてもらう目的があるそうだ。

その後、納棺式を執りおこなった。はじめて納棺に立ち会って知ったのだが、棺に故人を入れる際、棺には畳を敷くのだそう。棺に直接眠っているのかと思っていたため、日本人らしく畳の上で眠れることに少しだけ安堵した。

さて、その畳の話なんだが、今回用意されているそれは、ひっくり返すとメッセージが書けるような色紙のコーナーが設けられているものだった。

葬儀場によってその仕組みはさまざまだそうだが、今回お世話になったところではそういった畳を用意いただいており、せっかくなので家族みんなで祖父へのメッセージを書いてきた。

もともとわたしは、棺に入れるためにと祖父へ宛てた手紙を書いてきていたが、改めてメッセージを綴れるっていうのはとてもありがたい。書けば書くだけ涙が溢れそうになるが、家族みんなで送り出す時間をつくってくれる、その思いやりにも感動したのだった。

納棺式は、正直見ているのもつらいほど、さまざまな感情が湧いてくるものだった。けれども、見なければ、見送らなければという強い使命感が、今日も自分を奮い立たせてくれている。

明日は、最後の最後の別れの日。はたして、自分が正気でいられるのかはわからないが、できる限りのことをして、朗らかに見送りたいと心から思っている。

別れの前日

【2023年12月15日】
無事、葬儀が終わった。遺骨になった祖父がやっと自宅に戻ったことを切なく思いつつ、嬉しくも思うような日になった。

思っていたよりもずっとずっと多くの人が見送りにきてくれて、素晴らしい戒名もいただいて。追悼といいつつ、本当に涙ばかりの時間になってしまったけれど、祖父が無事に旅立てることをどうかどうかと願っている。

約一ヶ月半、なにも飲まず食わずだった祖父。相当頑張っていたようで、遺骨が驚くほど少なかった。周りの親戚のみなさんは「あら、こんなに少なくて……」と悲しい表情だったが、老骨に鞭打ちながらも最後の最後まで生き抜こうとしていた証なのだと、わたしには感じられた。やっぱり本当に強い人だった。

どんな感情かといわれると、まだまだ受け入れきれるものではない。けれども、祖父が笑顔でいてくれるよう、わたしは全力で日々を歩むしかないのだろう。彼がくれた優しさ、人徳、義理堅さ、そういったものを抱いて、強くしなやかな人間になりたいのである。

今日、お経を読んでくれたお坊さんは「みなさんの元気な姿がなによりの供養」とおっしゃっていた。まだまだ笑顔で生きるだなんてという気持ちではあるが、いつだって朗らかに笑っていた祖父のように、わたしも誰かを照らせる人間になれるよう精進していく心づもりだ。

たくさんの方の温かい心遣いをいただいた数日間だった。感謝の意を示しながら、兎にも角にもすり減らした精神と体力を回復できるよう自愛にも努めていこうと思っている。

愛しい人よ、安らかに

一部を抜粋する形で記してみたが、これだけでも、なかなかに濃い文章を残しているなあと、改めて振り返った今思う。そして、あれだけの余裕のない日々のなかで、いったいどこにこんな文章を残す体力があったのだろうとも。もはやこれは、人体の不思議といってもいいのではないだろうか。

繰り返しになるが、わたしはここに記した日々の風景をほとんど覚えられていない。断片的にこそかすかな記憶が存在するが、当時を回想して「こんなことを思っていたなあ」と懐かしめるような完成度では到底ない。だからこそ、自分自身が書いた文章から得る気づきは、とてもとても大きいのだ。


まず、一番にこの文章が伝えてくれたのは、祖父がどんな風に生き、どんな風に家族のことを愛してくれていたのかという様だった。

私たち家族にとって、この突然といいたくなるような別れは、あんまりに青天の霹靂で信じることができず、ただ明日を生きることに必死になっていた。そのときは「忘れるはずもない」と思っているようなことでも、数日経つと、記憶は少し減ってしまったり、改ざんされてしまっていくようだった。

そんなときに、たしかに彼が「生きようとしていた」という事実を、残してきたこれらの文章はわたしに教えてくれた。祖父に抱いていた「この人は強いなあ」という、その強い姿を、彼は最後の最後まで私たち家族に見せてくれた。

「そんなに強くなくたってよかったんだよ」って思ってしまうこともあるけれど、少し見栄を張りたくなるような祖父の愛らしい性格まで、文章を通して表現されたようで、孫としてはこのうえなく嬉しい話だったのだ。


それと、わたしにとってこの文章たちは弔いの意味もあったのだろう。生前、祖父は耳が悪くなったり、滑舌が悪くなったりしており、若い頃の饒舌さはどこにいったのやらと思えるほどに無口なじいちゃんになっていた。だから、というわけでもないが、わたしも祖父に昔ほどたくさんは話しかけることができなくなっており、総じて会話量が少なかったように思う。

それをずっと悔やんでいた。もっとたくさん話したいことがあった。もっとたくさん愛しているって言えばよかった。そう思わずにはいられなかったから。その気持ちを、せめて残しておこうという気持ちだったのだろう。なかったことにされちゃう前に、後悔も、本当に伝えたかったことも、書く人間としてせめて残しておきたかった。

そんな気持ちで、当時のわたしはこれらの文章をコツコツと書いていた。家族もこれらの文章を知っており、読んでくれているが、「家族のふるまい、祖父への向き合い方が、間違ってなかったのかなと思えて救われる」と話してくれていた。

決して明るい内容ではないけれど、家族を最期まで見届けたという記憶は、記録として残り、私たち家族の生きる希望にさえなってくれているのかもしれない。

祖父が譲ってくれたフィルムカメラで

当時のわたしが、どんな気持ちであの日記を残していたのか。そのこたえは、自分自身のことにも関わらず、わたし自身すら未だにわからない。あえて言語化をするならば、書くことで生きている人間として、直感的に「残さなくては」と思った、という表現がもっとも相応しいのだ。

けれども、実際にこうして読み返してみると、祖父との別れに至る一挙手一投足を記したことで、知れたことも多かった。記憶は時とともに薄れゆくものだが、言葉には時を超えて感情を伝える力があるから。この文章を綴ることで、祖父の強さ、優しさ、そして私たち家族への深い愛情を改めて感じ取ることができた。

振り返れば、祖父は彼自身の生き様で、わたしに対して多くのものを残してくれていた。それは言葉や行動から見えるものだけではない。写真を通して世界を見る目だとか、旅をする喜びだとか、そしてなにより、家族を大切にする心だとか。彼が亡くなってから、その遺産に気づく機会も決して少なくない。

お嫁さんである祖母には厳しかったり、口が悪かったり、素直じゃなかったりと、昔のオヤジ感を持っているような人柄だった祖父。けれども、娘である母や、孫であるわたしにはデロデロだった。

子どもが好きだったというのもあるだろうが、愛おしくてたまらないという様子で私たちに接する祖父はわたしにとって“自慢のおじいちゃん”そのものだった。

「じちゃま〜(我が家での祖父の呼び方)」と声をかけると、祖父はいつだってにっこりしながらわたしを抱きしめてくれていた。あの温もりは、たぶん一生忘れることなどできやしないだろう。

「ぽちゃぽちゃよ〜♫」と歌いながら入れてくれたお風呂も、毎年飽きるほど教えてくれた春の七草も、家の屋上からずっと見ていた夏の花火大会も、全部全部、鮮明に覚えている。

年齢を重ねてからも、わたしが書いた雑誌を開いて「詩乃の名前があるぞ!」と、嬉々としていた祖父。旅行に出かけた話をすると「じいちゃんもな、〇〇に行ったんだよ昔。いいんだよなあ」と、懐かしんでいた祖父。彼の笑顔はわたしの生きがいにもなっていた。

写真が好きで、旅が好きだったじいちゃんへ。あなたの意思を継いで、わたしは生きるよ。もらったフィルムカメラは長く大切に使うし、好きだった旅もわたしが代わりに続けるから。だから、これからも遠くから見ていてね。

大好きな祖父が旅立った
祖父の自宅にある本棚。
紙媒体に携わると必ず祖父のもとに持っていった。大切に読んでくれていたね

祖父がいなくなった世界は、たしかに寂しい。寂しくて、寂しくて、たまらない。ただ、彼が私たちに示してくれた生き方は、これからもわたしをはじめ、家族にとっての道標となってくれるだろうと思う。少なくともわたしは、彼の笑顔を思い出すたび、小さな勇気をもらっている。

きっと言葉として残してなんかいなくたって、祖父のことを大切に思う気持ちに変化などあるはずがない。それでも、言葉に残す行為によって、記憶と事実の世界線を行ったり来たりできる。そのゆらめきによって生まれるのは、改めて感じる、慈しみなのだ。

記憶という曖昧なものの力と、事実や証という確かなものの力。
それらの双方に救われながら、わたしは今日も、祖父という愛おしい存在を胸に宿している。


【さいごに】
この記事は、もともととあるWebメディアで掲載予定だったものでした。私的な理由で掲載を見送っていただくことになり、メディアの方々からの許可をいただいたうえで、祖父の命日の日に合わせてこのnoteで公開しています。
編集を入れてくれたのは、そのメディアでの担当だった早川大輝さん。「わざわざそんなこと書かなくたっていいんですよ」と言われそうだなとは思いながら、この文章が人の目に触れる機会をくださった大輝さんに対する、言葉では伝えきれないほどの感謝の気持ちを添えて、この記事の締めくくりとさせてもらいます。

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