【古文】「不易流行」
「不易流行」について少し考える機会があって、いくつか本を読んでいるうちに、しみじみ大切なことばだなと思って、書きとどめてみたくなった。
「不易流行」をみんなが見つめられるようになれば、この消費され消耗されていく時代から逃れることができるんじゃないか、と思う。
「蕉風俳諧の理念の一つ。新しみを求めてたえず変化する流行性にこそ、永遠に変わることのない不易の本質があり、不易と流行は根源において一つであるとし、それは風雅の誠に根ざすものだとする説。芭蕉自身が説いた例は見られず、去来・土芳・許六ら門人たちの俳論において展開された。」(『日本国語大辞典』より)
「不易」はいつまでも変わらないこと、「流行」は時代とともに変化していくもの、と「不易」と「流行」は本来反対の概念を持ちことばで、これが「根源において一つ」というのはなかなかすんなりとは理解しにくい。
伊賀の門人の一人、服部土芳が書いた『三冊子』では、次のように書いてある。
「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つにきはまり、その基一なり。その一といふは、風雅の誠なり。」
「風雅の誠」ということばも俳諧用語で、「風雅」は俳諧一般のことを指す。「誠」はその本質的なもの、という意味で用いられている。
つまり、不易も流行も俳諧の本質である、ということになる。
ただ「その基一つ」とか「根源において一つ」といわれると、どうしても「不易と流行」とふたつが「と」で並列で繋がれて、それぞれが別物として捉えられている気がしてしまう。
「不易流行」は、「不易と流行」ではなく「不易流行」なんだと思う。
「変わらないものが、時代に応じて変化しながら伝えられていく」
ということを表したことばと捉えた方が、すんなりと心に入る。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」という『奥の細道』の冒頭は、そうした変わりゆくさだめを強く意識している。
「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降り残してや光堂」は、源平の戦を眼前に思い浮かべて月日の流れを感じながら、そこに「夏草」「光堂」が変わらずにあることを詠んだ句で、変わらないものが変化する時代の中でもそこにあることへの感動が芭蕉の歌には溢れている。
尾形仂氏は「流転の相に身をゆだねることによって永遠なるものにつながろうとする、俳人としての芭蕉の到達した人生観、芸術観を総合する「不易流行」の理念」と表現している。
当時の俳諧の流れは、文学史的には貞門、談林、蕉風と続く。
貞門は松永貞徳を祖とする一派、談林派反貞門的な奔放自由な新流派で、芭蕉も最初は談林派に加わっていた。
貞徳は俳諧を連歌から独立させて文学として確立したが、連歌を詠むにあたって必要とされた素養は当然のように古今集や源氏物語であった。古今集成立以来、その伝統とそこから脱却しようとする革新が鬩ぎ合う中で、歌のかたちがかわり、素材が変わっていくのであるが、芭蕉はそうした流れの中に「変わらないものが、時代に応じて変化しながら伝えられていく」ことを強く感じたのであろう。
変わっていくということは、人の心をどこか落ち着かない気持ちにさせる。確たるものがないことへの不安が絶えずつきまとう。流れていく時の前に人は無力で、変わらないものはないという「無常観」は、人を厭世的な気分にさせる。
でもそこに、変わらない確かなものがあると感じられると、人は強くなれる。時空を超えて、心が結びつく感覚に支えられる。
小林秀雄の『無常といふ事』もこんなことをいっていた。
「思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。」
「思い出」は「歴史」でもあり、それは確かにそこにあったことを指す。「一種の動物」はとても不安定な存在であるが、そこに動かしがたい「思い出」があることで救われるのだとする。
戦乱の時代に、「常なるもの」を求めた小林秀雄が見つけたものは、芭蕉が見つけたものに通じていたのではないだろうか。
時が流れることで否が応でも「流行」は生まれる。「流行」を生み出すことで経済は動く。実際、「流行」に乗ることは楽しい。一種の快感を覚える。同時に「流行」から取り残されることに強迫観念を抱く人も多い。
でも「流行」は浮薄なもので、消費されていくものだ。振り回される自身への虚しさも伴う。「流行」を追っているだけで、人生が豊かになるとはとても思えない。
「変わっていく」のは当たり前のことだ。時間が経過すればいろいろな事象は変化していく。「変わらなくちゃ」と焦ることはない。人は変わっていってしまうのだ。その外見も、その心も。
だから、そうした変わっていく中で「変わらないもの」は大切にしなくちゃいけない。「変わらないもの」を見つけた時の喜びを、安堵を、忘れないようにしないといけない。
「変わらないもの」は身近にある。芭蕉はそれを自然の中に見つけた。もちろん自然も移ろいゆく。山は削れるし川は流れを変える。でもその時間は人の命に較べると悠久だ。だから自然は、人の都合で壊しちゃいけない。
私はその「変わらないもの」を源氏物語の中に感じる。京都の中に感じる。源氏物語も京都も、かたちを変えながら伝えられてきたけれど、確かにそこに、変わらないものがある。だから私は安心して古典作品を勉強して、何度も京都に足を運ぶのだ。
[参考文献]
尾形仂『芭蕉の世界』(講談社学術文庫 1988年3月)
尾形仂編『芭蕉ハンドブック』(三省堂 2002年2月)
長谷川櫂『芭蕉の風雅ーあるいは虚と実について』(筑摩書房 2015年10月)