恵まれている人/いない人の基準の難しさ―それでも考えていくべきこと―
何を基準として「恵まれている」のかを考えることは、案外難しい。
生まれた時から物質的・精神的に満たされていて、人生の選択が良質なものが多く、命の危機などに直結しかねない困難や挫折を経験せずにいられる人は、恵まれている人だと認識しやすい。
しかし、生まれた時は恵まれている人でも、思春期や成人期以降に人生の危機に遭ってしまい、その後どん底の生活をしている人はどうなのだろうか。
生まれた時は恵まれていなかったとしても、思春期や成人期以降に物質的・精神的に満たされ、エリートなどになれた場合は、どのように認識していけばいいのか難しいところである。
恵まれた人について、恵まれていることの具体的な内容を考察して、一つでも当てはまっていれば“恵まれた人”として認定するとするならば横暴さが出てしまう。
ならば、何を持って恵まれている人なのかを語るには、客観的な基準だけで語ることはできない。ということは、それぞれの経験値や所属している世界によって判断基準は大きく変わるということだと考える。
自分自身は、独自の視点があるわけではないのだが、成功者や這い上がってきた人などが「不幸や恵まれていない」ことを語り、成功体験を話しているときには必ず見るポイントがある。
例えば、その企業や公務員、専門職などになるまでに「多くの人」がどれだけの努力量とそれまでの恵まれをもって実現しているのかを比べてみるというところである。
またまた例えばとなるが、
Googleという企業に入社した人がいたとしよう。その人は、幼少期から貧困に苦しみ、とある公立高校にいき、その後東京大学へ入学、留学を経験したのちにGoogleに入社してマネージャーを勤めている。という経歴をメディアに取り上げられて、自分自身も苦しい立場から這い上がったことを売りにしている部分をだしている。そして、しんどい立場からでも努力をすれば夢が叶うというシンボル的な存在として活躍の幅を広げている
人がいた場合は、冷静に見なければならない場所が多くある。
幼少期は確かに貧困で苦しんだかもしれない。しかし、貧困に苦しみながらも両親は読書や習い事を精一杯やらせたなどの経験があると???となるだろう。公立高校から東京大学に入学というのは、本当の貧困ではまず難しいし、そこにたどり着くための教育は計り知れない量になる。
そして蓋を開けてみると、予備校代が全額免除になるような体験や自らの体験を糧にして支援があり、勉強のできる友人たちや恋人が支えてくれてなどの稀な体験をしている。
東京大学に入学後は、○○企業の支援をサークルで獲得し、優勝したこと資金で留学を経験して卒業後には入社している。という、最高学府の地位と名誉、周囲の人間の支援や協力、資金獲得と海外生活を送れるだけのお金、そして入社できるまでの運と継続性という点である。
あくまで想像の経歴であるが、丁寧に、丁寧に見ていくと本当に恵まれていなかったのだろうか。本当にこの人だけの実力や努力で得たものなのかという疑問が出てくると思う。
そして、未だに恵まれていなかった頃の出来事を掲げて、自らの努力として這い上がってきたことを中心に置き、まるで本当に苦しい立場から得たものだと伝え、同じ立場だった人を応援するようなシンボル的な存在となるのはどうだろうか。
最近であれば、ある児童養護施設出身者が官僚になった出来事を称賛する動きがあったが、どのような児童養護施設なのか、官僚になるためのプロセスをすべて無視し、努力すれば児童養護施設からでも何とでもなるようなインタビューがあった。
現在の児童養護施設からエリートとされる世界に行くために、並外れた努力だけでは不可能ことが多くある。それは否定とかではなく、現制度の怠惰や差別的な眼差しが多くあるからである。
一部の恵まれた資金の潤沢な施設から、しっかりと学べるだけの環境があり、支えがあればいくらでもどうにでもなるだろう。しかし、それだけの施設が日本にどれだけあるのだろうか。そして、18歳で退所後の生活の支えてくれてうまくいくことのできる子どもはどれだけいるのだろうか。
自らの体験を語ることで、うまくいかなかった人々が自己責任の努力不足として片付ける可能性を想定していなかった(モデル・マイノリティ理論に繋がる)ということを考えると、この人は「本当に恵まれていない立場」からの人間なのかということが出てくる。
そうなると、いったい何をもって恵まれていないのかは難しい。
私は、その昔、有名大学まで行けた人は「何も苦しみを知らない」と声をあげて、大学内で大ブーイングを受けたこともあった。それは、良質な教育や環境を常に得ていて、中高大と素晴らしい指折りの教育機関にいて、それでも苦しいとか悲しいとかはないだろう。という感情からだった。
自分の人生を比べてしまうからいけなかったかもしれないが、恵まれた人々が不幸や苦しみを語るごとに、自分自身の人生が「弱さや努力不足」として片付けられ、選択がなかったことは不運で終わってしまうという恐怖があった。
恵まれた人々が自らの不運を語るとき。
元々恵まれていなかった人々が、後に得た幸福を自らの努力だったとして語り変えた時。
現状、恵まれていないなかで戦う人々は、何もしてない者としてされてしまうことがおかしいのである。
そう考えると、ただの見せ方や語り方の問題ともいえる。
しかし、そこを冷静に考えて、冷静に対処し、現状やこれまで恵まれている人々に対してしっかり向き合ない限り、いつまでもモヤモヤが残り続けるのである。
上手くいったら「恵まれていない時のことは語れないのか」という問題は
私は、これだけの経験をしたけれどうまくいった。しかし、誰にでもできることではないし、たくさん支援があった。というぐらいに留めておけばいいのである。あるいは、乗り越え方や支援を提示すればいいのである。
それをせずに、まるで自分の努力として語り、同じ立場でも努力と根性でやれるような語り口が、苦しみの連鎖やより不適切な状況を生み、軋轢をもたらすのである。
そう、そこが問題なんだよね。