
19世紀の異端科学者はかく語る:宗教(5)後編
1月7日からカクヨムでスタートした『19世紀の異端科学者はかく語る:人生を楽しむ方法』(原題:The Pleasures of Life)、第二部を始めました。noteでは、訳者の主観で「感想と解説」を投稿しています。
第一部
第二部
宗教(5)後編
note編、前回
宗教編の締めくくりは「疑い」について。
宗教や神など、「証明できない不可視なもの」には懐疑論がつきまとう。ほとんどの場合、信じることが良しとされ、疑うことは悪…とまでいかなくてもあまり良いとは見なされない。
キリスト教の讃美歌も仏教の念仏も「信じろ信じろ」と連呼しています。
ラボック氏いわく、
宇宙の究極の真理を、人間の言葉で表現できるだろうか。
表現できたとしても、それを理解することができるだろうか。
そのことを疑う人たちが、宗教研究の重要性を過小評価しているとは思えない。
ラボック氏は、神を軽んじているから疑うのではない。むしろ逆だと。
神の真理を評価しないからではない。
私たち人間がそれを十分に理解できるかを疑い、無限を有限に還元できるかどうかに懐疑的なのだ。
判断を保留しているからといって、猜疑心が強いわけではない。
いかにも科学者らしい理屈ですね。
少なくとも、現在の人間には神の存在を証明できないし、神の意図を理解することもできない。それゆえに判断を保留する=懐疑論であると。
私は特定の宗教の信者ではないし、神について深く考えることもしませんが、ラボック氏の宗教観には大いに共感します。
正しいことが何であれ、宗教をめぐって争うことは間違っている。
宗教の世界は、夜を恐れる子供と同じだ。恐怖を生み出すのは闇と無知であり、光と愛は恐怖を追い払う。
ラボック氏の宗教観はとてもシンプルです。
宗教色が薄いので、信条と言い換えた方がいいかもしれない。
宗教(1)の最後に凝縮されているので再掲します。私もこうありたいと思う!
愛と思考のビーズで命の糸をつないだロザリオは、他のものを必要としない。
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noteで紹介している内容はほんの一部です。
詳細は、本編をご参照ください。
\アレクサンドル・デュマ・フィスの未邦訳小説を翻訳しました/
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