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「赦し」は神さまの仕事 ~人間は完璧じゃなくていい。「赦さなくては」という気持ちを手離したら、楽になりました
「赦し(ゆるし)」とか「赦す(ゆるす)」という言葉が、キリスト教のキーワードのひとつであることは、ノンクリスチャンの方々もご存知だろうと思います。
昨日の記事で書いた「主の祈り」のなかにも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という一文があり、聖書の有名な箇所にも、こうあります。
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人(つみびと)だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
(ルカによる福音書6:37 聖書新共同訳)
これは、とても難しいことです。
クリスチャンになりたてのころ、私は「どんな人も赦すなんていうことが、自分にできるだろうか。いや、とてもできそうにないなあ」と思っていました。そして、いまもそう思っています。
ただし、気持ちはすこし変わりました。
どう変わったかというと、「人間は完璧にはなり得ないから、どんな相手も無条件に赦すなんて、できなくてあたり前。それは神さまの仕事」と思うようになったのです。
どうしても赦せない相手がいるときは、私はその気持ちを正直に、神さまに祈るようにしています。「自分にはできないことがある」と認めて、「私にはとてもできません。どうか助けてください」と祈ります。神さまに怒られるかもしれませんが、だとしても、必ず愛のある怒り方をしてくれると信じているので、怖くはありません。
また、実は、できないことを認めて素直に相談する態度を、神さまはきっと喜んでくださる、そう信じてもいるのです。
上で引用した「ルカによる福音書」のあとのほうには、イエスさまの言葉として、こんな表現も出てきます。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカによる福音書17:3-4 聖書新共同訳)
相手が悔い改めたら、という条件つきですから、無条件に赦せということではないんだな、と思えます。
旧約聖書には、こんな箇所も。
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。
(イザヤ書55:7 聖書新共同訳)
ここを読むかぎりでは、神さまの赦しだって、たくらみを捨てて神に立ち帰るならば、という条件つきです。
(もっとも、神のみわざは人間の想像を超えていますから、どんな人でもお赦しになるのかもしれませんけれど)
実際、現実の社会で生きていると、謝ってもらったからといってすぐに赦せるものではない、という事態に遭遇することがあります。場合によっては、謝ってもらえないことも。
そんなとき、自分の気持ちを理屈でどうにかしようとしても、つらくなるばかり。かといって、その相手に対して感情的に行動するのは、賢明ではありません。
そういうとき、やはり「祈り」は役に立つと思うのです。
「赦し」は神さまの仕事。
そう考えて、私はまず、「赦せない相手を、赦さなくては」という気持ちを手離します。そして、「私は相手を赦せません。どうしたらいいですか。お救いください」と祈ったり、「いつかは赦せるように、導いてください」と祈ったり。
いつだったか、私は不完全な人間なのだから、赦せなくてもしょうがない、と思ったら、気が楽になりました。
主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。
(詩編130:3-4 聖書新共同訳)
もしかすると神さまは、人間が完璧ではないからこそ、愛してくださっているのかもしれません。最近では、そう思えるようにもなりました。
◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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