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いつまで、この世にいるのだろう?  新見正則

信じられないけど、もうすぐ65歳だよ!

新年早々、こんな疑問が突然に降ってきました。
僕は今年の2月で65歳になります。
わが家の愛犬(ビション・フリーゼ)は今年の4月で13歳です。
わが家の愛車は20年目になり、もうすぐ17万キロです。

20代は、ともかく燃えていました

医師を志して医学部に入学し、卒業後は人の命を助けたいという一念でなんだか外科医を志しました。当時の医局長だった今村洋二先生(心臓血管外科)に「外科医は儲からないし、忙しいが、格好いい!」と言われて、その勢いで慶應義塾大学の外科学教室に入局を決めました。

外科医のピークは40代から50代ということは知っていましたが、そんな先のことを考える余裕もなく「それまで生きているかもわからないし」と思いながら、懸命に外科医の臨床に励みました。そしてオックスフォード大学大学院の5年間の留学を33歳から38歳まで経験し、その後はまた外科医の人生が再スタートしました。

24時間、365日のオンコールをなんと12年間だよ

365日24時間のオンコール体制で常時大動脈瘤の破裂などの緊急手術に備えていました。慶應義塾大学は一般消化器外科の中に血管外科がありました。

僕はなんでもできる外科医になりたくて食道外科を希望していたのですが、クジで外れたために、第2希望の血管外科医が専門のなかの専門となりました。すると、血管を扱える消化器外科医ということで拡大手術にはいつも呼ばれるようになりました。

大学での緊急に備える生活は12年間続きました。自宅は大学から徒歩圏内の場所にしました。いまもそこに僕の労働衛生コンサルタントのオフィスがあります。

その12年間は本当に人の命を救うことが使命で、任務で、生き甲斐でした。

とにかく手術だけを考えて走り続ける

今年の年賀状には当時大動脈瘤の破裂で救命したご婦人が98歳になり、今もとっても元気だと息子さんからのコメントが付いていました。嬉しいことです。人間国宝の方の手術も、スポーツ選手の手術も、本当にいろいろなかたの手術を行いました。

当時は、残業手当もなく、無償で働いていました。ブラック企業同然ですが、違和感はまったくありませんでした。

そんな仕事ができたのも、チームのおかげ

たくさんの命を救った僕ですが、もちろんチームに支えられたからできたことです。有給職員は僕以外はひとりで、僕が指導教授をしていた大学院生が手伝ってくれました。

大学院生ですから、学生なので、もちろん無給なのです。そんな彼らは無給でも懸命に手伝ってくれました。大学では有給職員あたりの収入は僕が断トツで一番でした。

素晴らしいチームでしたが、全員を救命できた訳ではありません。大動脈瘤の破裂の手術は一刻も早く大動脈瘤の中枢端(心臓側)を大動脈甘子でクランプ(挟むこと)すれば出血は止まります。クランプが遅れると救命の可能性がどんどんと減ります。出血塊の中を手探りでクランプします。そんな治療をチームで行っていました。

しかし、緊急手術でも救命できなかった人が、最近は思い出されるのです。僕があの世に行けば、そこで会えると思っています。たくさんの命を救った一方で、救えなかった命には致し方ないと思いながら、もっと上手く出来ることはなかったのかと思うこともあります。

50歳から始まった僕の新しい人生、超楽しい

そんな僕の緊急手術に備える生活は50歳でほぼ終了しました。心臓血管外科が大動脈瘤の破裂の手術を行ってくれると言ってくれたのです。そして僕は免疫の実験や漢方の普及に多くの時間を使えるようになりました。そしてトライアスロンも始めました。

死ぬまで誰かのお役に立てたらうれしい

65歳を越えていつまで生きるかわかりません。健康寿命を自分なりに延ばして、そしてまた違った立場で「人のお役に立てればいいな」と思う今日この頃です。僕は生きている限り、今後も誰かのお役に立つことをやっていきますね!


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