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サル・エピクテトス
ある7月の午前3時、真夏にもかかわらず天然の雪が残るマチガ沢へ、僕と風間は出発した。
僕らはヘッドランプで照らしながら道路をしばらく歩き、金剛新道登山口と書かれた道標のところから登山道へと入っていった。暗い上に足元が悪く、ときおりヌルッとしたぬかるみに足を取られながらもまっすぐに目的地へと向かった。
しばらくすると、白い霧が出てきた。さらに歩いていくと霧はますます濃くなり、視界はほとんど見えなくなっていった。
「痛っ!」僕は大きな石の上で足を取られ、転倒した。「大丈夫か?」風間はすぐに来てくれた。「うっ、ちょっと捻ったかもな。」僕は言った。背中にスノーボードを背負っての登山は思っていたよりハードだった。「歩けるか?」風間は言った。僕は痛みを堪えながら首を横へ振った。
「少し休めそうなとこを探そう!」僕は風間の肩を持ち、風間に先導されながら進んだ。霧は恐ろしいほどあっという間に僕らを覆いつくし、視界はもう完全に当てにならなくなっていた。
急に、霧の中に古びた木造の小屋が目の前に現れた、その小屋へと僕らは吸い寄せられるように入っていったのだった。
いかにも、といった風貌のツタの絡まった小屋の中へなんとか入ると、円を囲むように3つのイスだけが中央にあった。その佇まいはセットされた劇場のようにも見えたが、特に気にせず僕らはそのイスに腰かけてしばらく様子を見ることにした。
「なんか寒くないか?」風間は言った。「うん、なんか寒いな。」僕はそう言って上着の入っているリュックをおろそうとした。思わず自分を疑った、僕はリュックを背負ってはいなかったのだ。
その時だった。
ギーッと戸が軋む音がした。「探し物はこれかな?」その瞬間、天井にあるライトが3つのイスに照明を当てた。なんとそこには僕のリュックを背負った、サルが立っていたのだった。
サルがくれた果物を食べてからもう何時間が経っただろうか、おそらくそれはヤマモモだったと思う、が定かではない。僕らの時間感覚はどうやら正常ではなくなっているようだ。
「話せるんですか?」風間は腰かけたサルに向かって言った。「話せる、とはどういうことかな。」とサルは言った。僕は、このやり取りを何度も何度も、この劇場の観客席から見ていた。そして、その3つのイスの1つには僕も座っているのだ。僕は口を開いて何かを言おうとしていた。
突然、僕は森を散歩していた。空気はとてもすがすがしく、鳥のさえずりや、朝露に濡れた針葉樹の葉、ここは一体何処なんだろうと思いながらこの美しい小道を歩いていると、あのサルに似た老人が向こうからだんだんと近づいてきた。
「人間の本質についての議論がしたいのではないかね?」その老人は言った。「はい。まさに、今それを考えていたところなんです。」僕は目を輝かせながら答えた。その老人は頷きながらゆっくりと笑みを浮かべた。
僕たちは、この美しい小道を歩きながら議論をすることにした。「私が奴隷だった時、いつもこの状態から抜け出したいという気持ちと、一生このままでもいいのではないかという気持ちがせめぎ合っていたんだよ。」老人は語り始めた。歩くたびに、パリッパリッと、心地よい乾いた落ち葉の音がした。
「肉体がサルになってから。私は、本当に。本当の幸せというものを理解することが出来たんだよ。」老人は僕を見つめ、幸せそうな顔で言った。
「それは何だったんですか?」僕は真剣な顔で尋ねた。
「あなたたちがもうすでに持っているものでもある。それと同時に持ち過ぎてしまっているものでもある。」老人は嬉しそうに答えた。
風間とサルは、この劇場の観客席からこちらを真剣に見ていた。
「それは人間特有の欲望ですか?」僕は言った。
「そうかもしれない。」と老人は言った。
「それは未来に恐怖を感じることですか!?」突然、風間がイスから立ち上がり、大きな声で言った。
「そうとも!だが、その恐怖のおかげで人間は前に進んでこれたんだ。」老人は歩みを止め、真剣な眼差しで観客席の風間を見つめた。
「執着や依存にも同じことが言えるだろう。そこにある喜びに満たされたいと思うことは人間もサルも同じだろう。だがサルは所有することをしない。」老人は続けた。
「それらは人間を人間たらしめるものである。人間を成長させてくれる喜ぶべき特性でもあるんだよ。」
ふっと、鳥のさえずりが聞こえた。あたりはもう完全に明るくなっていた。僕と風間は、小屋があったと思われる場所の下でうつ伏せになっていた。「うっ、何だったんだよ一体。」風間は起き上がりながら言った。朝の光に何かが反射するのを目に感じて、僕も目を覚ました。
それは、朝露に光る一枚のコインだったのだ。