「哲学は役に立たない」のか(2)
前回の記事から、一ヶ月以上空けてしまった。想定していたよりも多くの反応をいただき、ありがたく思う。書きたいときに気軽に書くつもりが、ちょっとハードルが上がってしまった気がして、かえってなかなか書けずにいた。そうしてボヤボヤしているうちに、「役に立つ/役に立たない」という観点から議論を考える意義がそもそもあるのか、疑念が尽きず、徐々に書きたい気持ちが冷えてきているので、冷え切ってしまう前に、とりあえずまた適当に書いてしまおうと思う。
3. さて、「哲学が役に立つ」と言えるのか、「哲学は役に立たない」と言われたときに、哲学者はどう答えるのか、そのヒントを求めて歴史を遡っていたら、どうやら哲学は、そもそもその始まりから「役に立たない」という批判を受けてきたようである。
哲学の起源をめぐっては諸説あろうかと思われるが、およそ2500年前の西洋、古代ギリシアに端を発するとされる。哲学の起源を古代ギリシアに求める一般的傾向があるとはいえ、一体誰が哲学を最初に始めたのかについても諸説あるが、通説では紀元前6世紀にイオニア地方のミレトスで活躍したタレスが挙げられることが多い。アリストテレスが、原理(アルケー)の探究を始めた人物として、「水」を原理に捉えたタレスを哲学の創始者とみなしたからである。ただし、最初期の哲学者たちの営みは、自然の質料的原因の探究に限定されていたという。
その哲学の創始者とも目されるタレスが、その貧しさゆえに、人々から「哲学は役に立たない」と批判された逸話は有名である(アリストテレス『政治学』)。
タレスは、人々から哲学の無用性を非難された際、天文学(気象学)によってオリーブの豊作を予測し、オリーブの圧搾機を借り占めておいた。はたして彼の予測は的中し、その圧搾機の賃貸によって莫大な利益を得たという。こうしてタレスは、哲学者とて欲すれば簡単に儲けることができるのだということを示したわけだが、そうしたことは哲学者が真面目に取り組むべき事柄ではないとして、金銭や物質的な富に関心を向けなかったのである(Wikipediaの「タレス」の記事、および、納富『ギリシア哲学史』タレスの項)。
この逸話は、哲学がその起源からして、人々にとって一般に有用とみなされている、地位や財産といった世俗的な幸福に結びつくような学問ではないことを示唆していよう。今われわれが問題にしている「哲学が役に立つ」と言えるのか、「哲学は役に立たない」という批判に対して、タレスの応答がどのようなものであったのかというと、それは、哲学は世俗的な意味で「役に立つ」ことを目的としていない、自然にかんする純粋な原理的探究の学である、という回答になると思われる。ただし、潜在的には、哲学の知識や知恵もそれを応用する気にさえなれば、世俗的な意味での有用性を持ちうるということを留保している、と見ることもできる。
すなわち、哲学は一般的には役に立たないが、万物の真理を探究し自然現象の原因を解明するという目的の上では大いに役に立つものである、そしてそのことは、間接的な仕方で世俗的な有用性にも結びつきうるものである、ということであろう。
また、かのソクラテスは、無益な哲学を教え広め、国家が奉ずる神々を信じず、若者をはじめ人心を惑わし腐敗させたかどでアテナイの市民から訴えられ、裁判において死罪を宣告された(『ソクラテスの弁明』)。彼は、裁判において追放を選択することもできたし、また友人の懇願にしたがって逃亡することも選択できたが(『クリトン』)、人々からの言われのない非難を認める恥辱よりは、あえて自らの正義を貫くために死罪を選び、また逃げるよりは国法に従うことを善として、毒杯をあおいで自ら死んだ(『パイドン』)。つまりソクラテスは、哲学は役に立たないという批判によって、死刑にまで追いやられてしまったのである。
こうして見ると、哲学は無益なものである、それどころかむしろ有害なものである、として世間に捉えられて、実に久しい。
すなわち、「哲学は役に立たない」という批判は、古代ギリシアにおける哲学の誕生と共にあり、現代においても変わらず続いている。したがって、その批判は哲学と同様に2500年の伝統があるものであって、そこまでの由緒があるとなると、むしろ一定の歴史的真実を帯びてさえいるものと思われる。
哲学は、古今を問わず、世間的には役に立たないものと見られがちだし、実際に役に立たないところがあるのだろうが、少なくとも古代ギリシアの哲学者たちは、哲学を原理の探究の観点から擁護した。ソクラテスは、人間の最大幸福は徳について毎日語ったり、他者と哲学的な対話をすることであって、「魂の探究なき生活は人間にとって生きがいのないものである」と言うであろう(『ソクラテスの弁明』)。しかし、そうして哲学が世俗的な幸福とかけ離れたところを目的とする限り、世間からは決して受け容れられないのであって、「哲学は役に立たない」という批判が潰えることもまたないのだろう。このことは、「哲学と世間との距離感がどうあるべきか」、という問題を考えさせてくれる。今、アカデミアとしての哲学に問われているのは、まさにこの問題であろう。
次回は、「哲学は役に立つ」ということを、もっとポジティブに打ち出していてある程度まとまった分量をその議論に割いているものとして、アリストテレスの『哲学のすすめ』について触れてみたい。(もともと、そこでのアリストテレスの考えに、「哲学は役に立たない」という批判に対する何か重要なヒントがありそうな気がしたし、読んでいて面白く、今でも新鮮なところがあったので、この記事を書いてみようと思ったのでした。)
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