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映画『悪人』の感想文

感想文なので特に考えず推敲もろくにせずにさっと流し書く。

 先日、加古隆の公演「銀河の旅びと~宮沢賢治と私」を16年来の友人と拝聴してきた。その後そのまま京橋の酒場へ飲みにいったときに、この映画が興味深いと推薦されたはずなので見てみた。
 この作品の何について語り合ったかは失念したが、とりあえず感想を記しておこう。

 この作品登場人物の主体は同年齢代の男性2名女性2名でそれぞれ性格は真逆といえる。20代前半だろうか。
 この作品には心理学の眼鏡、ユングとフロイトの思想を適用してみると人間の奥深さが滲み出てくる。ユングであれば外面だけを信用したらマズいということができ、フロイトであれば男の性にはエスが濃厚だといえるだろう。社会心理学や犯罪心理学をあてても興味深い。

  • 車という空間は個人領域(パーソナルスペース)のウチであり、運転手にいっさいは委ねられる。バスの運転手の一言がかっこいい。

  • 灯台という象徴は闇夜のうちに一点光る存在であり、孤独を表す。それを闇の中で眺めながら置き去りにされた子どもは、歳月が流れても意識がそこに取り残される。

  • 犯罪とはなにか、直接犯と犯罪幇助とまで言い切れない間接犯が存在する。ただ誰しも心の問題を抱えており誰が悪いと指定できない。(法律上は規定されているがやはりシステムでしかないことから、システムの補完として生きた人間側の代表である裁判官が存在する)

 ではそれら諸悪の根源はどこにあるか。それは他の誰でもなく誰しもが持ち、また自らのウチにある自我や自信といった自己の喪失及び他者転嫁にある。幸福は連鎖するが同様に他者転嫁も連鎖する。それを断ち切るにはより大きな質量をあてることぐらいだろう。物質界においてはそれが国防における核保有の話に通じる。

 サドは切り開く性質である"S"によって内包されており、サドにおける究極の愛の形は"M"を切り開いて解明したことにより、自らの内界に摂り込もうとすることにある。なので一個人に全質量を注ぎ続けることは誤りで、夫婦であれば子宝であったり、男女であれば同じ目標があると意識はそちらに推移するので問題は生じえない。またそれでもやはり、同じ人類を意識し続けることに変わりないことであるから子離れ親離れがなければ同様の問題が生じえる。もう一段抽象化すれば、同じ対象への持続意識はある閾値を超えると解明しきれない領域に達することから、バベルの塔のように崩壊してしまう。

 なので結論としては、臨界点に達したときは休んだり別の新たなことに挑戦したりと、意識をずらすことにより”S”の力は制御下におくことが可能となる。
 言い換えれば、病の時に働き続けてもかえって仕事が増えるだけである。病とは火の性質である丙であることから、熱心や熱中が過ぎたことにより身体という自然の借り物は警告を発し身体を重く鈍らせる。

 つまり喫茶店でお茶したり、タバコの一服の時間といった、休憩や休暇は大切だ。静と動における静である。また働き過ぎて遊びを怠れば、働く行為の臨界を迎えることから必ず鬱屈する。休むことは働くこととの静と動でしかなく、人は機械ではなく生きた人間であり自然だ。全力で遊ばぬ者は全力で働けず、また全力で休まぬ者は全力で働けない。



 この作品はアニメ『サイコパス』あたりの世界観と同じように、人間とはなにかと問いかけてくるようだ。


1400字ほど

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